第11章Ⅳ:差別と偏見の夜会
――陽が沈んで夜の帳が落ちてきた頃、
王宮の最奥中央にある広場にはあちこちに鮮やかに彩られた花々や蝋燭の輝く燭台が置かれ、準備された幾つかのテーブルの上には豪華なご馳走が並んでいた。
そんな見事な夜会の席の中、女王陛下の招待を受けた高名貴族や各界の重鎮達が集まって、飲み物のグラスを片手に話に華を咲かせていた。
「女王陛下勅命の夜会だなんて、本当に久しぶりですこと」
「そうですこと。今宵は本当に月も綺麗で野外の夜会にはびったりの日ですわ」
「それに今夜はヤルド大臣の愛娘のマルガレータ様のデビューとのことですわ」
「まあ、あのヤルド大臣のお嬢様が!
噂ではあの方は本当にお美しい御嬢様で、あのメリンダ王女と並ぶ程の美貌の持ち主とか。今夜の主役は彼女に決まりね」
「ですが今夜の夜会はあの『忌まわしき王女』であられるサーシャ王女の紹介も兼ねているとか…」
「まあ!あの王女と言えば、確か東の蛮族のフェルティ国に嫁いだとか…それが何故こちらに?」
「何でも女王陛下の命で帰郷されたとか…今回の婚礼で他国に存在を明らかにしたから、この期に我々アクリウム国の重鎮に改めて存在を示す思惑だろう」
「ですがあの王女に近付けば不幸が起こると…それなのに何て不吉な!」
人々が思い思いに話す中、突然場の空気が揺らいだ。
「やあやあ、ごきげんよう!」
人々の間をぬって現れたのは腹の突き出た妙に派手な中年男と、彼に付き添う小柄のとても美しい少女の姿だった。
「これはこれはヤルド大臣!」
「ごきげんよう。今宵は御子女のデビュー、おめでとうございます」
男、ヤルドの姿を確認した客の大半が彼に微笑みかけ近寄っていくのだった。
「こちらがマルガレータお穣様ですかな?いやはや何と美しい…」
「本当に、彼女の美しさで今宵の月は霞んでしまいますわ」
集まった人々の賛辞に、ヤルドは満足げに頷きながら高笑いをあげた。
「いやはや、愛しい我が娘をこのような席にデビュー出来て感無量ですわい!ほらマルガレータ、皆様に御挨拶は?」
「はい御父様」
ヤルドの隣にいた娘…まだ少しあどけなさが残るものの端正のとれた美しい顔立ちをしており、澄んだ青い瞳、陶器のような白く滑らかで美しい肌、そしてその肌に似合う淡い青色のドレス姿、のマルガレータは皆の前でにっこりと微笑んだ。
「皆様、ごきげんよう。マルガレータと申します。今後ともどうぞお見知り置きを」
優雅に淑女の礼をとる彼女の姿に、見ていた誰もがほうと感嘆のため息を洩らすのであった。
「なんてお美しいのかしら…」
「流石ヤルド大臣の御子女、淑女としての振舞いも完璧ですわ」
「いえ、私など皆様に比べればまだまだ未熟者です」
「いやいや、娘は世間知らずの甘ったれですわい。これから皆様の御指導をお願い致します」
周りの皆が賛辞を述べる中で、ヤルドとマルガレータは謙遜の態度をとりつつも満足そうににやりと微笑むのであった。
“ぐふふ、良いぞ良いぞ。この調子で皆の注目が我が娘に集まればわしも鼻高々じゃ!”
“ふふ…皆がわたくしの美しさに注目しているわ。今夜の主役はわたくしで決まりね”
二人して腹黒い思惑にほくそ笑んでいると、突然どよめきがあがった。
見れば丁度上座の辺りに女王ジェスタが二人の人物と共に現れた。
「皆の者!」
女王の一声に皆が静まり、上座に注目した。
「今宵は我が夜会への参加、誠に感謝する。この夜会は我が王家に忠実たるそなた達の労いと、我が末妹の紹介を兼ねたものである」
そう告げると女王は傍にいた二人…礼装姿のサーシャとジーフェスに視線を向けた。
「我が末妹にて第4王女のサーシャとその夫のジーフェスであるぞ。良しなにな」
女王に促され、二人は一歩前に出るとゆっくりと一礼するのだった。
そんな二人の姿を見留めた人々は、意外な姿にどよめき始めた。
「あれが『忌まわしき』神託を受けし王女か。成る程、見た感じ王家の威厳も無い只の小娘だな」
「まあ、あれがサーシャ王女様…噂とは違って、なかなかに凛とされた御方ではありませんか」
周りの人々はサーシャに対しては賛否両論であったが、特に関心を集めたのは何故かサーシャではなくジーフェスのほうであった。
「成る程、蛮族の王子らしい見掛けだな。威厳も何もない」
「サーシャ王女の伴侶として選ばれたくらいだ。どんな者かと思えば…お似合いの二人だな」
あからさまな侮蔑を見せる人々の中で、だが何人かの態度は違っていた。
「蛮族の国の王子と聞いていたが、見た目なかなかの好青年のようだし何よりあの瞳…」
「ええ、まるで我らが雄神、ライアス様を思わせるような純粋な翠の瞳だこと!」
「我が神ライアス様の瞳と魂を持つ御方だ、だからこそサーシャ王女様の伴侶に選ばれたのだな!」
ジーフェスの瞳、雄神ライアスと同じ翠の瞳、アクリウム国に於いては非常に珍しいそれに賛辞を贈るのであった。
「我がアクリウム国の繁栄を願って、乾杯!」
女王陛下による乾杯の音頭の後、早速何人かが二人に近寄り挨拶を交わし、好意的に話をする様子に、良い意味でも悪い意味でも注目を取られてしまったヤルドとマルガレータは面白くない。
“な、何だ何だ!?『忌まわしき』王女と蛮族の王子ということで嘲笑の嵐になるかと思えば…一体どういう事だ!”
「お父様…」
「解っておる娘や…おい」
ヤルドは傍にいた男を呼びつけ、ひそひそと何やら命ずると男は頷きサーシャ達に群がる人々の中へと入っていった。
“ふん、我が娘をこけにしおって。見ておれ”
“何よ!サーシャ王女なんて胸ぺったんこのおこちゃまじゃないの!何で彼女が私よりも注目を浴びるのよ!”
一方のマルガレータのほうは自分への注目が半分以上奪われたことに対して、怒りの視線をサーシャに向け、それからちらりとジーフェスのほうを見た。
“蛮族の王子ね…ふん、私の好みでは無いけど、あの翠の瞳は確かに素敵だわ。まるで深緑の翡翠石のよう…”
二人が寄り添い、微笑む姿を見て何か思い付いたのか、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
“ふふ…ちょっと彼を使っておふざけでもしてみようかしら…”
*
何人か人々に囲まれ、紹介を受けていたサーシャとジーフェスは予想外の事に驚きつつも笑顔を浮かべて立派に対応していた。
“やはりサーシャはアクリウム国の王女なのだな。初めての夜会だろうに皆の注目にも動ずる事も無いし、メリンダ殿はサーシャや俺に対して危惧していたが、取り越し苦労だったな”
予想外に多くの人々に囲まれたジーフェスは、夜会の直前に聞いたメリンダの話を思い出していた。
*
『もう貴方も知ってるかもしれないけど、サーシャはこの国では、特にアクリウム王家からは快く思われていないわ』
――それは丁度サーシャが夜会の為の衣装合わせで部屋に居ない時、突然現れたメリンダはジーフェスに重要な話があると言って強引に部屋に入ってきたのであった。
『それは…もしかしてサーシャが『忌まわしき』予言を受けたから、なのかい?』
何気無く呟いたジーフェスの言葉にメリンダの表情がみるみる強張っていく。
『貴方、どこでそれを聞いたの!』
『いや…それは…』
まさか彼女がここまで取り乱すとは思わず、ジーフェスも失言したことに慌てて言葉を濁してしまった。
『どうせ王家主義のぼんくら貴族の子息辺りが貴方に突っ掛かってきたんでしょう。それならサーシャだけでなく、貴方や貴方の国も相当侮辱されたのではなくて?』
『……』
見事なまでの洞察力に言葉が無く苦笑いを浮かべるジーフェス。
『だったら話は早いわ。女王陛下は夜会で貴方達二人を紹介するつもりでしょうけど、それを快く思わない人達が居るのよ』
『快く思わない?』
『そうよ。その筆頭が王家主義の主導格ヤルド大臣。彼は今夜の夜会で娘をデビューさせるから、彼女を注目させる為に貴方達を貶める計画をたてているらしいわ』
『俺達を貶める?』
『そう、貴方達を、サーシャは『忌まわしき』王女でジーフェスは無作法な蛮族の王子、そんな者達は夜会の主役にあるまじき存在、純粋なアクリウム国の血筋の我が娘こそ讃えるべき存在だと配下の者を使ってあちこちに触れ回っているらしいわ』
『俺達は『忌まわしき』王女でも蛮族の王子でもない!』
『貴方達はそう思っても、他の人間はそうは思わないの!
出来れば私がサーシャの傍にいて守ってあげたいところだけど、今夜はアーシェン国宰相との会合に出席しなくてはならないのよ』
苦虫を噛み締めたような表情を浮かべて、メリンダはぎっとジーフェスを睨み付けた。
『だからジーフェス、私の分までサーシャを、特にヤルド大臣の手から守るのよ!解ったわね!』
*
“ヤルド大臣とその娘、か…確か会の場に出た際、向こうのほうで人々に囲まれた中年の男性とサーシャくらいの年齢の女性が居たが、あれがそうだったのかな?”
そう思いふと顔を上げた先を見て、驚きの余りジーフェスは思わず一歩後ずさってしまった。
何時の間にか目の前には、まだ幼さは残るがとても美しい顔立ちをし、見事なまでのプロポーションを活かしたドレス姿の女性が居たのだった。
「あ、貴女は?」
メリンダにひけを取らない美貌と身体をしたその女性にすっかり見惚れてしまい、ジーフェスはつい惚け顔のまま間抜けに聞いてしまった。
「まあ、人の名前を聞くときは、先ずは自分のほうから名乗るべきではなくて」
見れば先程まで親しげに話し掛けていた人々は遠巻きに二人の様子を伺い、替わりに女性の周りの何人かの取り巻きとおぼしき人達が彼を取り囲み、彼女とともに嘲笑めいた視線を向けている。
その様子にジーフェスは彼女の正体を薄々感じとり、惚けから我に帰り心の中で舌打ちするのだった。
「これは失礼を、私は東の国フェルティ国の末王子ジーフェスと申します」
微かに起こった嫌悪感を笑顔で隠し、胸に片手をつけ彼女の目の前で深々と紳士の礼をこなし優しげな口調でそう告げた。
「あら、蛮族の東の国の御方でもそのような紳士的な振る舞いが出来るものなのですね」
女性の嘲笑めいた声に続いてくすくすと低い笑いが辺りに響き渡り、ジーフェスは一瞬ぴくりと眉を歪めた。
「あら、失礼致しました。わたくしマルガレータと申します。財務のヤルド大臣の娘ですわ。以降お見知りおきを」
その名前を聞いた途端、ジーフェスはやはりなと独り納得するのであった。
“彼女がマルガレータ、ヤルド大臣の娘、か…”
ジーフェスの目の前に居る彼女の姿は幼さは残るものの、メリンダと並ぶ程本当に美しい顔立ちと見事な身体つきしており、男なら誰でも一瞬は見惚れてしまうものだが、その表情は貴族に有りがちな威厳というよりは傲慢さが目立ち、あからさまにジーフェスを卑下しているのが誰の目にも明らかだった。
「これはマルガレータ様、こちらこそ御目にかかれて光栄です」
“彼女のほうから俺に声をかけてくるとは、一体何を企んでいるんだ?”
何とか笑みを保ちながら当たり障りの無い答えをし、ジーフェスはふと隣に居るサーシャのほうに視線を向けた。
だがそこに居るはずのサーシャの姿が何処にも無い。
“サーシャ!?”
慌てて辺りを見回すと、自分から少し離れた場所で彼女の姿を見掛けた。
だが彼女の傍にはひとりの若い男と腹の突き出た中年の男の姿があった。
“あれは…まさか!?”
慌てたジーフェスがサーシャのもとに駆け寄ろうとすると、
「あら、わたくしを無視して別の女性のもとに行かれるおつもり?」
くすくすと悪戯っぽく笑いながら呟くマルガレータに、ジーフェスは足を止めた。
「マルガレータ様の話の腰を折るなんて…」
「ヤルド大臣の娘の話の途中で席を外すとは、やはり作法の成ってない方だな」
様子を見ていた彼女の同情者がジーフェスを見てくすくすと嘲笑を投げ掛けた。
見れば何時の間にか周りを彼等に囲まれていて、簡単には抜け出せないようになっていた。
「む…」
“成る程、これが目的だったのか!”
やっと彼女の思惑を見抜いたジーフェスであったが時既に遅く、サーシャを助けることはおろかその場から動けない状態になっていたのだった。
*
「これはこれはサーシャ王女!この度は御結婚おめでとうございます!」
突然サーシャに話しかけてきたのは、恰幅の良い中年の男性と線の細い若い男であった。
「あ、ありがとうございます…」
自分を見つめる男の視線…まるで下々の身分の者に対し見下すようなそれに、サーシャはぴくりと身体を震わせ思わず一歩後退りしてしまった。
「おお!突然で失礼、わたくしは財務を担当しております大臣のヤルドと申す。こちらはわたくしの秘書。いやはや、初めてサーシャ王女に御会いしましたが…想像以上にお若く幼いですなあ」
「は、あ…」
何故か言葉の端々に悪意を感じ、サーシャはつい隣にいるジーフェスに視線を向けた。
だがそこに居るはずのジーフェスの姿は無く、少し離れた場所で若い女性と話をしていた。
「ジーフェス様」
「おやおや、我が娘のマルガレータはジーフェス殿をお気に召したようだな。いや実に二人とも楽しそうに話をしているではないか!」
慌てて彼のもとに駆け寄ろうとしたサーシャのもとに、ヤルドの冷ややかな言葉が飛んできた。
サーシャが見た二人の光景は、二人がお互いに微笑みを交わしながら実に楽しそうに話をしている様子だった。
“ジーフェス様…どうして!”
そんな二人の姿にサーシャは大きな不安と不信、そして淋しさを感じていた。
「二人とも実に楽しそうにしているのお。彼も見た目も知性も無い者よりも、美しく話術も豊かな我が娘をするほうが楽しいのだろう」
「そんな事は…!」
「彼も男だったという事ですな。まあマルガレータ様の美しさを無視出来る男性が居れば是非とも御目にかかりたいものだ!」
秘書の言葉に周りの人々…いつの間にかヤルドの親衛隊もどきに囲まれていた、彼等から冷笑を浮かべサーシャを見つめる。
それはかつて、幼い時に侍女や臣下の者達から向けられた視線と同じ…。
「あ…」
『忌まわしき王女!そなたに敬意を払う必要など無い!』
『不幸を撒き散らす恐ろしい王女!近付けば不幸になる!』
自分を卑下する瞳で見つめられ、かつての忌まわしき過去を思い出して、がくがくと身体を震わせ声も出せず、だが独りきりで何も出来ないサーシャはただただその場に立ち尽くすしか出来なかった。
“違う、違う!ジーフェス様はそんな方では無い!そんな不埒な方では無い!”
心ではそう思っていても、先程見た二人の微笑ましい光景が脳裏に焼き付いて離れず、そう言えずにいた。
「おやおや、身体を震わせて、気分でも悪くされましたか?」
「まあ御自身の夫が妻をほったらかしにして他の女性と仲睦まじくするのを見れば気分も悪くなりますなあ。それにしても夫としてあるまじき行為だ」
「はは、やはりサーシャ王女の夫だな。女性に対して節操の無い人物のようだ」
「仕方あるまい、サーシャ王女よりマルガレータ様のほうが素晴らしい女性だしな」
ヤルドの言葉に合わせて周りの人々はここぞとばかりにサーシャとジーフェスに非難を浴びせかけるのであった。
大勢の非難と嘲笑が渦巻く中、独りぼっちのサーシャは不安と恐怖の余り、いつものようにジーフェスの悪口に凛とした態度で否定することが出来なかった。
“怖い、怖い怖い!”
それはかつて幼い時に受けた仕打ちを思い出し、その恐怖が怒りよりも勝っていたからだった。
“助けて…誰か、誰か助けて!ジーフェス様、ジーフェス様…っ!”
【…ワガアルジヨ、ワレヲヨビタマエ】
人々の嘲笑の中、いよいよ膝を崩し倒れそうになったサーシャの耳に届いた言葉、否、それは直接頭の中に響いてきた。
「!?」
【ワレガワガアルジタルソナタヲマモル。サア、ワレヲヨブノダ】
驚くサーシャのもとに再び聞こえてきた優しい声。
だがその声はサーシャ以外には聞こえていないらしく、周りの皆の様子には全く変化が無い。
“誰…なの?”
【ワレハソナタヲシュゴスルモノ。ソナタニアダナスモノニシュクセイヲアタエルモノ】
“粛清!そんな、酷いこと…”
【ヒドイコト?ソナタヲ、アクリウムノジョオウタルソナタヲブジョクスルモノハ、スベテシュクセイサレルベキモノ】
“女王、ですって?違うわ、今のアクリウム国の女王はジェスタ様よ”
【アレハカリソメノジョオウ、ソナタガメザメルマデノカリノジョオウ】
“仮初めの女王、私が目覚めるまでの女王?それは一体どういう事なの?”
【イマハコレイジョウカタルワケニハユカヌ。ダガソナタヲ、コノヨウナヤカラノテデコワスワケニハユカヌ。サア、ゴメイレイヲ!】
「駄目…それでも彼等に粛清しては駄目なの!」
突然叫びだしたサーシャの姿に、ヤルドや周りの人々は一瞬たじろぎ、だがやがて更に嘲笑をあげだした。
「おやおや、サーシャ王女は何やら奇妙な事を呟きだした」
「このような場で叫ぶとは、王女らしからぬ振る舞い。朱に交わればというように、素行の荒い蛮族の妻は夫に似るものですな」
「おまけに女性にだらしもない、最悪な王子だな!」
ははは、と高笑いが辺りに響きわたり、サーシャの耳に入ってくる。
「違う…違うわ」
“酷い!ジーフェス様は蛮族でも素行が荒くも無いわ!優しくて温かくて…”
【ワレラナラコノヨウナゲセンノアツマリヲダマラセルコトガデキル。サア!ゴメイレイヲ!】
“何も、彼の事を何も解ってないくせに!ジーフェス様を、私が好きなジーフェス様を侮辱するなんて!”
…どくん!
怒りに囚われたサーシャの胸の内に、突然何かがすうっと現れる感覚が起こり、同時に身体の震えが止まって頭の中がすっと冴え渡っていった。
そして俯いていた顔をあげ、目の前にいるヤルドにその碧い瞳を真っ直ぐに向けた。
「黙れ、下賤なる輩ども」
「は?」
いきなりサーシャの様子の、口調の変化に、ヤルドは笑いを止め表情をひきつらせた。
「アクリウム国王族たるこの私と我が夫ジーフェスを侮辱する下賤の者よ、貴様らの罪は重い。出でよ我が僕!この者達に粛清を!」
凛としたサーシャの声が辺りに響き渡ると同時に、突然森のほうから獣の遠吠えが響いてきた。
「!?」
「な、何事!」
人々がどよめく中、突然森のほうから数頭の獣…銀色の毛並みをした大型の狼の群れ、が飛び出し、瞬く間に夜会の席へと向かってきた。
「きゃあああっ!」
「ぎ、銀狼だあっ!銀狼の群れだあっ!!」
人々が恐怖におののき、混乱して逃げまどう中、狼の群れは二手に分かれて真っ直ぐに夜会の人々のもとに、いや、ある二人の人物目掛けて突っ込んできた。
そして銀狼の群れは二人の人物――ヤルド大臣の秘書と娘のマルガレータに襲いかかり、首筋に牙を向けたのであった。
「ぎやあああっっ!!」
「きゃああああっっ!!」
二人の絶叫と共に血飛沫が上がり、辺り一面に夥しい量の血が溢れ、鉄臭い嫌な臭いが漂いだした。
「いたぞ!こっちだ…!?」
急いで駆け付けた守護団や軍とおぼしき屈強な男達も、だが目の前で広がる惨劇に思わず立ち止まり言葉を失ってしまった。
その隙に銀狼の群れは恐怖に怯えおののく人々の間をすり抜け、遠吠えをひとつ残して瞬く間に再び森の中へと消えていったのだった。
――それは一瞬、まさに一瞬の出来事であった。
だが今の夜会の場はテーブルが倒れご馳走や花が散らばる散々たる状況で、緑の芝生の上は二人の人物の大量の血で赤く染まり、辺り一面に死の匂いが漂っていた。
人々が恐怖に怯え混乱し、何人かが嫌悪感に倒れる中、ただ一人これら一部始終を冷静に見る者が居た。
“これこそが大巫女様の『神託』、死の夜会…!
そしてあれが『忌まわしき』予言を受けし乙女、サーシャの真の力というのか!”
離れにいた彼女、ジェスタ女王はサーシャを…凛とした様子で立ち、惨劇を前に不気味に微笑む彼女を見て、その姿に畏怖するのであった。