第11章Ⅱ:同部屋
――夕食はアクリウム国の森で採れた恵みや野生動物の肉といった名産を生かした、豪華というよりは素朴な料理であった。
一流の料理人の手にかかったそれは調理法は素朴ながらも実に素晴らしいものであった。
普段あまり野菜は食さないジーフェスも、素材の美味しさについつい肉料理よりも野菜に手が伸びる程であった。
「如何でございましたか?」
「ああ、とても旨か…いえ、美味しかったです」
普段言葉がつい出そうになるのを慌てて訂正して苦笑いで答えるジーフェス。
「とても美味しかったです。デザートも美味しそう」
最後のデザートを持ってきた料理長ににこやかに答えるサーシャ。
「それは光栄です。こちらはデザートになります。今年採れたライムのシャーベットになります」
普段なら甘いものが苦手なジーフェスはデザートは拒否しているのだが、爽やかな香りのシャーベットについ口をつけてしまった。
「旨い」
つい呟いて夢中で食する彼の姿に、サーシャは思わずくすりと笑ってしまった。
“まあ、甘いものが苦手なジーフェス様がデザートを食するなんて珍しいわね”
遅れてサーシャもデザートに口をつけ、そしてその理由に納得するのだった。
「…かなりライムの酸味がきいているのね」
予想以上の酸っぱさに少し顔をしかめながら呟いたのだった。
「炎(夏)に合わせて敢えて甘味を抑えて酸味を利かせました。お口に合いませんでしたか?」
「いえ…想像していたのより酸味が強くて驚いただけです」
酸味に軽く咳き込みながら答えるサーシャに、料理長は苦笑いを浮かべた。
「これは失礼致しました」
「俺はこれくらい酸味があるほうが良いな。フェルティの菓子はどれも甘ったるくて口に合わないからな」
「あら、それは私が作るお菓子も含んでいるのかしら?だからいつも食べて頂けないのね」
少しむっとした感じで答えるサーシャにジーフェスは慌てた素振りを見せた。
「いや…サーシャのお菓子は美味しいよ。だけどその…何というか…」
「もう、ジーフェス様ったら、知らないっ!」
「さ、サーシャ…」
ぷんぷん怒るふりをするサーシャと焦るジーフェスの姿に料理長を含めた周りの皆が表情を綻ばせた。
――そんな感じで、終始和やかな雰囲気で夕食を終えた二人は暫し屋敷内を散策していたが、夜も更けた頃合いにお互い湯あみへと向かっていった。
「……」
独り花の香り漂う湯に浸っていたサーシャはふと物思いに耽っていた。
“湯を終えたら部屋に戻るのね…そしたら、ジーフェス様と一緒に夜を過ごすのね”
どきんどきん…
サーシャの脳裏には、いつかジーフェスの腕の中に抱き締められた感覚を思い出し、胸の鼓動が早くなった。
“やはり…ジーフェス様と一緒のベッドで眠るのね”
更に以前太陽祭の翌日のデートの時、抱き締められ口づけられた事を思い出し、身体を熱くさせるのだった。
“もしかして、もしかしてジーフェス様と、交わりの儀式をする事になるのかも…!”
「そ、そんなっ!そんなの私っ!」
「サーシャ様!如何されましたかサーシャ様?」
「!?」
いきなり叫んだのを勘違いしたのか、隣にいたナルナルが驚きの声をあげた。
「だ、大丈夫です。今直ぐにあがります!」
“私ったら!何を考えていたの…っ!”
我に帰ったサーシャは、それでも胸の鼓動が収まらない中湯桶から出ると、身体を軽く拭いてナルナルのもとに向かうのであった。
一方のジーフェスのほうは、サーシャより早めに湯あみを終えて既に独り、部屋へと戻ってきていた。
ソファーに座り用意されていたライム水を飲みながら何となしに部屋を見回し、ふと大きなベッドへと視線を向けた。
「……」
“サーシャと、一緒の部屋で一夜を過ごすのか。そういえば以前見た、サーシャの寝顔、凄く可愛かったなよな”
どきん…
以前別の場所でうたた寝していたのを抱き上げて部屋まで連れて行ったことを思い出し、ジーフェスは鼓動を速めた。
“彼女の身体は温かくて柔らかくて良い匂いがして、抱き締めたら壊れそうなくらい華奢で…”
ふとジーフェスはかつて夢見たサーシャの産まれたままの姿を思い出し、身体を、特に下半身の真ん中辺りを熱くさせた。
“隣で眠ればどんな反応をするのだろう?抱き締めたらどうなるのだろう?
もしも、もしも一緒に…裸になって抱き合ったなら…”
夢の中での出来事を想像して、思わずごくりと生唾を呑み込んだ。
コンコン…
「うわわああっっ!!」
突然部屋の扉がノックされ、不埒な考えに没頭していたジーフェスは飛び上がらんばかりに驚き、思わず変な叫び声をあげてしまった。
「ジーフェス様?!如何されましたか!」
声を聞いたサーシャは異様な状態に扉を開け慌てて部屋に駆け込んできた。
「さ、サーシャ、いや、大丈夫だよ…」
彼女の姿は湯あみを終えたばかりのせいか、まだ髪は濡れてきらきらと艶めいていて、白い頬や腕にほんのりと赤い色が見え、仄かに色気をも感じさせた。
そんな彼女の姿を見て、ジーフェスは益々心臓の鼓動を速め、思わすじっ、とサーシャに見とれてしまった。
だが何故かジーフェスと目を合わせたサーシャは次の瞬間、表情を強張らせ顔を更に赤く染めた。
「じ、ジーフェス様…その…あ、あのっ!」
ぽつりとそう呟くと、もじもじと恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながらサーシャはジーフェスから視線を反らした。
「?」
いきなりのサーシャの行動に戸惑うジーフェスだったが、己の今の格好を見てやっと訳が解った。
今の自分の格好、それは下半身こそズボン姿ではあったが、上半身はもろに裸の姿であった。
「!!」
“し、しまったっ!ついいつもの癖で自分の部屋に居るのと思い込んでくつろいでしまっていたっ!”
「あの…これはその…!ち、ちょっと待ってっ!」
恥ずかしさの余り目を反らしたままのサーシャを置いて、ジーフェスは慌てて部屋の奥にあったガウンを引っ付かんで羽織るのだった。
「お、お待たせ。もう大丈夫だよ」
ジーフェスの声にサーシャが恐る恐る顔をあげると、そこには上半身ちゃんとガウンを羽織った彼の姿があった。
「ごめん、かなり驚いたよね?」
その言葉にサーシャはこくりと頷いた。
「びっくりしました。部屋に入ったらいきなり…その…」
そう言いながらも吃るサーシャの脳裏には、先程のジーフェスの姿が焼きついて離れない。
…何度か絵画や彫刻で見た事はあったけど、実際の男の方の裸を見たのは初めて…
ジーフェス様の裸姿、絵画とかと違ってずっと胸が広くて逞しくて、浅黒の肌に似合っていて凄く男らしくて…
私、何度かあの胸の中に抱き締められたのね。
先日の太陽祭の翌日の出来事を思い出し、サーシャは益々顔を赤くし鼓動を速めた。
「サーシャ?」
彼女の様子にジーフェスが訝しい表情になると、サーシャははっと我に帰った。
「あ、わ、私…っ!」
じっとジーフェスに見つめられて、サーシャは益々顔を赤く染め上げた。
「す、少し…あの…その…ゆ、湯中りしたみたいですっ!お、お水頂きますねっ!」
直ぐ様視線を反らし、慌ててテーブルにあったライム水をグラスに注ぐと一気に飲み干した。
が、余りに慌ててしまったので最後のほうで思わず喉に詰まらせむせてしまった。
「大丈夫かいサーシャ!」
咳き込むサーシャに寄り添い、背中を撫でるジーフェス。
「けほ…だ、大丈夫、です」
程無く調子を取り戻し、顔を上げたサーシャ。その拍子に直ぐ間近に居たジーフェスと目を合わせてしまった。
「あ…」
至近距離で彼の顔を、澄んだ翠の瞳と目を合わせ、余りの綺麗さに思わず見とれてしまった。
“綺麗な翠…アクリウム国の森の翠よりずっと深く、ずっと澄んでいて…吸い込まれそう…”
「ジーフェス、様…」
「さ、サーシャ…」
突然恍惚とした表情で見つめられ、ジーフェスは戸惑うばかりである。
“何て表情をしているんだ!頬は赤く染め上げて瞳はうっとりとしていて…唇なんか、柔らかな果実みたいで、とても美味しそうで…”
胸の鼓動を高鳴らせながらジーフェスはじっとサーシャを見つめ返した。
“このままずっと…”
“このまま彼女を抱き締めて口付けて、もっと…”
その時、ガタンっ…と物音がして、二人は我に帰り、思わず飛び上がんばかりに驚き、お互いから逃げるように身体を離した。
「じ、ジーフェス様…」
“わ、わ、私、何を…!”
「いや…その…」
“俺は、何を…!”
お互い顔を熱くさせながら暫く固まったままだったが、やがてジーフェスのほうが動きだした。
「き、今日は疲れたからもう休もうか?」
「……え?!」
だがその一言は場の空気を更に緊張させてしまった。
「あ、いや…その…」
己の失言に慌てふためくジーフェス。辺りをきょろきょろ見回し、
“そうだ!”
何か思い付いたのか、ふとベッドの上からシーツを引き摺り出したかと思うと近くの長ソファーに寝転んでしまった。
「ジーフェス様」
「お、俺はここで寝るから、サーシャはベッドの上で休むと良いよ」
サーシャは一瞬訳が解らず固まってしまったが、直ぐに意味を察して拒否してきた。
「駄目です!ジーフェス様のほうがお疲れでしょう?私がここで休みますからジーフェス様のほうがベッドでお休み下さい」
「いや、俺は仕事でこういうのに慣れているから大丈夫だから…」
「でも…」
そうは言われても、はいそうですか、と納得する程サーシャもお天気ではない。
“ジーフェス様ばかり辛い思いをさせるなんて…”
「では、私はここで休みます」
と、サーシャもベッドからシーツを引っ張ってくると、ジーフェスが居る真向かいにあったもうひとつのソファーに寝転がってしまった。
「サーシャ!」
「ジーフェス様がここ(ソファー)でお休みになられるなら、私もそうします」
サーシャの大胆な行動にジーフェスもびっくり。
「いや、サーシャはベッドで寝てくれ。じゃないと俺が困る」
「私もジーフェス様がちゃんと休んでくれないと困ります!」
「いや…だからサーシャがベッドで休んだら…」
「ジーフェス様のほうこそベッドでお休みになって下さい!」
……暫くの間、そんなやりとりを繰り返した二人だったが、
「じ、じゃあ…こうしよう!これならお互いベッドで眠れる!」
と言い出したジーフェスの提案で、結局二人はお互いベッドの端と端で眠る事になった。
幸いここのベッドは二人が乗ってもかなり余裕がある為、真ん中にクッションやら何やら積み上げて、お手製の即席バリケードを作り上げた。
「こ、これだけあればお互い簡単に向こうに行けないから大丈夫…だよね?」
壁?からひょいと顔を出して問いかけるジーフェスにサーシャは安心したように、
「え、ええ…これでしたらお互い邪魔されずに、ちゃんとベッドで眠れますね」
「ああ…」
「じ、じゃあ、おやすみなさい」
「お、おやすみ…」
照れ隠しにお互いそう呟き、部屋の灯りを消して床についた二人だった。
「「……」」
“この壁の向こうにジーフェス様がいらっしゃる。もう御休みになられたかしら?”
“直ぐ向こうではサーシャが眠っているのか…一体どんな感じで眠っているのか?”
暫し壁の直ぐ隣に居るお互いを意識してしまい、始めはなかなか眠れなかった二人だったが、流石に旅の疲れからか、夜が更けると共にやがて深い眠りへと落ちていったのであった。
*
――ここは…、
気付くとサーシャは見覚えのある景色の中に立ち尽くしていた。
そこは彼女が産まれた時より居るアクリウム国の王宮。彼女にとっては見慣れた景色。
そんな中で何故かサーシャは五歳程の幼子の姿で居るのだった。
『これは…』
いつの間にか驚く彼女の周りを次々と大人が現れ、取り囲んでいった。
そんな中、金の立派な錫杖を持ったひとりの小柄な老女がサーシャの前に進み出た。
…あの錫杖は!?
『おばあ様…』
『何度言えば解るのかね、私は大巫女と呼びなさいと言っているだろう!お前は本当に何時までたってもみそっかすな子供だね』
『!?』
『大巫女様、サーシャに期待してはいけません。これは先代の大巫女様が予言なされた“忌まわしき”子供。本来ならば生きていることさえ赦されぬ身分なのですから』
老女、大巫女に続いてひとりの豪華な格好をした女性が進み出てきた。
“忌まわしき、子供…!”
『ジェスタ姉様!』
『お黙りなさい無礼者!私はこの国の女王にして大巫女様の予言を伝える伝達者、お前如きが軽々しく口をきける立場では無い!』
だが女性…ジェスタはサーシャに冷やかな視線を向け、厳しく言い放った。
『全く、大巫女様や女王陛下の御情けで生かされているだけでも有難い事なのに…やはりメリンダ様と同じく“呪われし”予言を受けし子供』
『だがメリンダ様はまだ良いほうだ。見た目も麗しく知性も高い。“古の力”が無いとはいえ、彼女はまだ将来的にこの国の役には立てそうだ』
『本当にこの娘には何も無い。見た目も平凡だし知性も無いし…』
『しかし誇り高き神官長様と先代の大巫女様の間に産まれておきながら、何故この娘が双方の能力を全く受け継がなかったのかが解せぬのだが…』
『もしやこの娘は王家の血筋を引かぬとか!』
『“呪われし”娘、お前はこのアクリウム国の王宮で生かされているだけでも有り難く思うのだ!』
周りにいた、白装束の壮年の男女が皆、幼いサーシャに冷たい視線を向けて一斉に非難の言葉を浴びせた。
“どうして?どうして私が呪われし娘なの?どうしてメリンダ姉様は良くても、私は駄目なの?”
周りの皆の心無い言葉に、幼いサーシャは思わず涙してしまう。
『私、私は…』
“私は…私は存在してはいけないの…!?”
*
「!?」
突然目を覚まし、慌てて起きあがったサーシャははっとなって辺りを見回した。
そこはジーフェスと共に泊まっている王宮の端の客間であり、未だ夜の闇の中、微かな月明かりが部屋の中を照らしていた。
「…夢…だったの」
“いいえ、夢では無い。あれはかつて皆から言われてきた言葉そのもの…”
『お前は忌まわしき子供。ここから出ていくことは赦されぬ。お前の運命は…』
“私の、運命…”
あの後、何と言われたのかしら?何か大切な事を言われた気がしたのだけど…、
思い、出せない…。
『忌まわしき子供、この娘に近付けば我々にも災いが起こる!』
『王族の血筋でありながら忌まわしき子供の烙印を押されし者に敬意など払う必要など無い』
…ずきん…!
幼い頃、まだ言葉の意味を理解出来ないと思われ、直ぐ目の前で言われ続けた言葉。
それは今でもサーシャの心を苦しめる。
誰か…誰か!
“メリンダ姉様!ナルナル!お願い助けて!”
助けを求めてぽろぽろ涙を流すサーシャ。
『…素直に生きて下さい。アクリウム国の王女ではなく、サーシャというひとりの女性として。それが、俺の願いです』
「!?」
そんな彼女に微かに聞こえてきた優しい声。
“…ジーフェス、様”
聞き慣れたその優しい声に、サーシャは思わずベッドの壁を乗り越え、隣にいるジーフェスを見た。
だが彼は瞳を閉じ、くーくーと微かな寝息をたてて熟睡しているだけである。
「……」
ジーフェス様…
“ジーフェス様はいつも私に優しく接してくれた。私をアクリウム国の王族としてでなく、ひとりの女性として見てくれた…。
でも…それは私が『災いの予言』をされていると知らないから…”
そう考えるサーシャの胸が傷んだ。
“もし私が『忌まわしき子供』と予言された娘と知ったら、ジーフェス様も私を嫌いになるのかしら?”
「嫌、そんなのは、嫌!」
ジーフェスに嫌われた時の事を想像し、サーシャは胸が痛くて更に涙を溢した。
“ジーフェス様…”
サーシャは思わず熟睡する彼のほうに手を伸ばし、無造作に投げ出されていた片手に触れた。
“大きくて少しかさついているけど、とても温かい手。私はずっとこの手に守られてきた…”
二人で出掛けた時に手を握った事、危険な目にあった時に優しく抱き締めてくれた手。
今までの出来事を思いだして、サーシャの胸が熱くなった。
「ジーフェス様…好き…」
ぽつりと呟くと、サーシャはベッドに作られたバリケードを壊して、そっとジーフェスの傍まで近寄った。
「…ん…」
一瞬、ジーフェスが表情を歪めたが、直ぐに再び寝息をたて始めた。
「好き…ジーフェス様。お願い、私が忌まわしき子供と知っても、私を嫌いにならないで…お願い…」
そう呟き、サーシャはジーフェスの片手を握ったまま、彼の傍に寄り添うようにして身体を横たえるのだった。
*
――柔らかな光の中に、ひとりの人物の姿が見える。
それは彼にとっては見慣れた人物。
『サーシャ』
一瞬、以前見た夢を思い出し、思わず彼女から視線を反らそうとしたジーフェスだったが、今自分の目の前にいるサーシャの姿は、あの時のような全裸姿ではなく、白の薄手ではあったがきちんとした服を纏っていた。
『ジーフェス様…』
だが目の前のサーシャの表情は苦痛に歪み、碧い瞳からはぽろぽろと涙を溢していた。
『どうしたんだいサーシャ!』
そんな彼女の姿を見たジーフェスは驚き慌てて傍に駆け寄ろうとするが、何故かサーシャは首を横に振り、後退りをするのだった。
『駄目!私に近付いては駄目!』
『サーシャ…』
『私は…私は呪われた予言を受けし子供。私に近付く人は皆不幸になるの。だから…だから…来ないで!』
『え?!』
嗚咽の混じったサーシャの言葉に、ジーフェスは一瞬何の事か理解出来ず、思わず立ち止まってしまった。
“どうしたんだ?呪われた予言を受けたとか近付くと不幸になるなんて…?”
戸惑うジーフェスの姿に、サーシャは更に悲しみの表情を浮かべ両手で顔を隠し俯いた。
『サーシャ…』
まるで絶望したかのように落ち込むその姿に、ジーフェスははっとなった。
“俺は、何を迷っているんだ!俺の目の前に要るのは呪われた子供でなく、間違いなく『サーシャ』なんだ!”
我に帰ったジーフェスは意を決したようにひとつ深呼吸をしたかと思うと、出来る限りの笑顔を浮かべ真っ直ぐに彼女の傍へと歩み寄っていった。
『どうして…どうして』
彼の思いもよらぬ行動にサーシャは戸惑うばかり。
『サーシャはサーシャだよ。呪われた予言を受けても、そのせいで俺が不幸になっても、それはサーシャとは関係ないさ。俺はただ、今のサーシャの傍に居たい、サーシャが好きなだけなんだよ。花とお菓子が好きで、少し泣き虫で、でも優しくて温かい心を持ったサーシャが好きなんだ』
『ジーフェス、様…!』
彼の言葉に心打たれ、サーシャは涙ぐみ顔をくしゃくしゃに歪めたまま、思わず彼の広い胸に駆け寄ってきた。
『私も…好きです、ジーフェス様が好き…』
胸の中でわんわん泣きながらも、それだけ呟いたサーシャをジーフェスはそっと抱き締めた。
『サーシャ、ここはアクリウム国ではない。だから自由に生きて欲しい。自分の思うがままに…』
胸の中の愛しい人を抱き締め、ジーフェスはそう呟いた。
『お願い…ジーフェス様…私が忌まわしき子供でも、私を嫌いにならないで…』
*
「……」
いつの間にか空高く現れた陽の光に顔を照らされ、ふとジーフェスは目を覚ました。
“夢、だったのか…。
でもいくら疎まれているからといってもサーシャが『呪われた予言』をされた子供なんて…まさかな”
ジーフェスは夢の中のサーシャの姿を思い出し、考え込んでしまった。
“アクリウム国に於いて、大巫女の予言が王家と国を支配するとは聞いていたけど…古の時代じゃああるまいし”
そんな事を考えながらジーフェスが伸びをして身体を起こそうとすると、そこで初めて自分の直ぐ隣で眠るサーシャの存在に気付いたのだった。
「!!」
“な、な、な、何でサーシャが俺の隣に居るんだっ!!ま、まさか俺が思わずやってしまったのかっ…!?”
危うく叫びそうになるのを何とか抑え、自分の身なりや辺りを見回してみたが、昨夜作った簡易バリケードの一部が壊れており、自分の場所に彼女がやって来たのだというのが解った。
“お、俺もサーシャも服の乱れは無いから、そういうことにはなって無いんだろうけど…”
まだ信じられないといった感じで、ジーフェスは恐る恐る熟睡中のサーシャに手を伸ばした。
“ゆ、夢だよな。俺まだ夢見てるんだよな”
だが触れたサーシャの頬は温かく、指先に微かに彼女の生暖かい寝息が当たった。
「!?」
“ゆ、夢じゃないっ!げ、現実にあったかいっ!”
「嘘、だろ…。何でサーシャがここに…」
現実に驚き疑問を抱くより先に、すっかり安心したように熟睡しているサーシャの優しげな寝顔に、ジーフェスはついつい見とれてしまい、思わずごくりと息を呑んだ。
“可愛い、な。凄く安心した寝顔で…意外と睫毛が濃くて唇がほんのりと綺麗な桜花色、いや、薄い紅色、というべきなのかな…”
熟した甘い果実に似たその唇に、つい食べてみたいという欲情を感じてしまい、そっと顔を近付けた。
“す、少しくらい、ほんの少し触れるくらいなら…大丈夫、だよな”
「サーシャ…」
そしてあと僅かで二人の唇が重なろうとしたその時、突然部屋の扉が叩かれたのだった。
「うわあっ!!」
“お、お、俺は今何をっ!?”
「おはようございますジーフェス様にサーシャ様。朝食の準備が出来ましたが如何致しますか?」
扉の外から聞こえるナルナルの声に我に帰ったジーフェスは心臓をばくばくいわせながら、思わずサーシャから後退りしていった。
「……ん」
ナルナルの声かジーフェスの声にか反応したのか、サーシャが微かに身体を動かし目を覚まそうとしたが、未だ眠気のほうが強かったらしく、再び眠りに落ちようとしていた。
「サーシャ、まだ眠っているのサーシャ?」
だが次に扉の外から聞こえてきた綺麗な澄んだ声に、はっとなったようにぱちっと目を覚ました。
「メリンダ…姉様?」
「サーシャ、いい加減に起きなさい。もうお昼になろうとしているわよ…」
「メリンダ姉様っ!」
懐かしい姉メリンダの声に、サーシャはぱあっと喜びも露にベッドから飛び起きると、隣に居たジーフェスを完全に無視して一目散に扉に駆け寄るのだった。
「メリンダ姉様!」
扉を開けるなり、目の前にいた愛しい姉に思わず抱き付くサーシャ。
「あらあらサーシャ、今まで眠っていたのかしら?未だ寝着のままじゃないの」
妹の姿に半ば呆れつつも、嬉しそうに抱き締め返すメリンダ。こちらもかなり表情が綻んでいる。
「おはようございますサーシャ様」
二人の嬉しそうな様子を見てナルナルもつい頬が緩んでしまっている。
「おはようナルナル。ねえ朝食は未だかしら?」
するとナルナルは半ば呆れたように笑いながら告げるのだった。
「とっくの昔に準備しております。メリンダ様もサーシャ様と一緒に食事したいとお待ちですわよ」
「本当?嬉しいっ!メリンダ姉様ありがとうっ!」
「まあサーシャったら…」
「その前に先ずは身仕舞いをして頂きますね」
ナルナルの声にサーシャはやっと自分の身なりに気付いたのだった。
「やだ、私ったらまだ寝着のままだったわ」
恥ずかしがるサーシャに、メリンダとナルナルはころころと辺りに響く程笑い声をあげるのだった。
「………………」
三人で和気藹々に話すのに対し、完全に蚊帳の外状態のジーフェスは、ベッドの上でただ呆然と彼女らの様子を眺めていた。
“俺は、一体…”
彼の存在などまるで無いかのように暫くの間和気藹々と話をする三人に、ジーフェスはベッドの上で言葉もなく呆然とするだけであった。