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第10章Ⅲ:殿下として父として、そして…

――フェルティ王宮の朝は早い。


「おはようございます殿下。お目覚めの時間で御座います」


まだ朝日の出ない時間、ひとりの年配の執事らしき男と、彼の後ろには三名の年配の侍女が一糸乱れぬ体制で、目の前に居る殿下ことカドゥースに一礼する。


「ああ…おはよう」


半ば眠そうな表情をした彼は眠い目を擦りながらベッドから降りるのだった。


「さて、お前達」


「「は」」


執事の声に、三人の侍女は颯爽と着替えを行い、顔を拭き髭を剃り髪を整えていく。

瞬く間に身なりを整えた彼に、今度は別の男が現れて深々と一礼した。


「おはようございます殿下。本日の御予定で御座いますが、朝食の後に定例会議を行いまして、――様と昼食の後はダルシュ国からの使者と会談、その後に宰相様との…」


「解った解った。とりあえず食事がしたい。」


「では広間にどうぞ」


「ん」


カドゥースが大広間に向かうと、そこには既に食卓の準備が整い、数人の侍女が控えている。

従者の案内で独り席に座ると、即座に目の前に食事が運ばれてくる。


「殿下、本日の御食事で御座います」


「ん」


執事の声に、独り目の前の、少し冷めた食事に手をつける。

傍らには侍女や従者は数多居るが、彼の妻や子供の姿は無い。


「……」


静かな中、早々に食事を終えたカドゥースが立ち上がると待ち構えていたように、


「殿下、あと数刻しか御座いません。お前達、急いで身支度を整えるのだ」


「「御意」」


今度は衣装の間に連れて来られ、正装姿へと着替えさせられていく。

着替えが終われば問答無用で即座に大会議室へと連れていかれた。


「カドゥース殿下のおなりー!」


扉の脇にいた男の声に、部屋にいた数人の男達が席から立ち上がり、恭しく頭を下げて彼を迎え入れる。


カドゥースは無言で彼等の中を堂々と進み、壇上の席に腰掛けると、頭を下げていた男達が顔をあげ再び席に着いた。


「では只今より第84期定例議会を開始致します!」


“やれやれ…また退屈な会議が始まるのか…”


男の高らかな宣言に、うんざりした表情で見返し、深い溜め息をつくのであった。



      *



予定より早めに会議を終えたカドゥースは、半ば浮かれた表情を浮かべ、側近らと共に廊下を進んでいた。

と、突然廊下を外れ庭先に出ようとした。


「殿下どちらへ?次は――様との会食が御座います」


「昼までにはまだ時間があるだろう?ちょっと行きたい場所があるのだ。直ぐに済むからお前達はそこで待て」


「ですが殿下…」


「直ぐ戻ると言っただろうが!それとも何か、そなたは我を信用してないとでも言うのか?」


怒りの籠った声に、側近らはびくりとなり、お互い顔を見合せ何かひそひそと話をしていたが、


「解りました。数刻のみお待ち致します。行き先は何処へ?」


側近の言葉に、カドゥースはきっと睨みかえすと、


「何処でも良いではないか、我の勝手だ!誰もついて来るな、良いな!」


強い口調で念押しすると、周りの者の言葉を無視して踵を返し颯爽と庭を横切るのであった。


“全く…我の事も察せないのかあの石頭共は!”


怒りに足を早め、時折立ち止まりながら後ろを確かめ誰もついてこない事に安堵すると、カドゥースは目的の場所へと向かった。


…そこは宮廷の外れにある、彼や彼の妻子達の住む館であった。

国王代理という立場から激務に追われ、特に最近は仕事が忙しくて妻や子供達に逢うことすらままならない日々が続いており、彼としても少し寂しい思いをしていたのだ。


“ラスファやアイリス…皆元気にしているかな?”


顔を綻ばせながら館に近付くと、外にいた侍女のひとりが彼に気付いた。


「これは殿下!」


思いもよらぬ者の姿に、侍女は床にひれ伏す勢いで跪いた。


「畏まらずとも良い、我もお忍びで来ただけだ。子供達は何処に?」


優しげなその声に、侍女は恐る恐るながらも顔をあげた。


「ラスファ様とアイリス様でしたら、別館にて教授の授業をお受けで御座います」


「授業…そうか、まだそのような時間か。ならばルースは?」


「ルース様は…今朝から体調を崩されて今は眠っておいでです」


「体調を崩しただと!?」


思いもよらぬ事につい大きな声をあげると、侍女は怯えて、それでも更に小声で続けた。


「い、医師の診断では、季節の変わり目に起こる体調不良と仰っておりました。微熱こそはありましたが、食欲も御座いますし、妃殿下の看病もありまして大事には至っておりませぬ」


「そうか…」


単なる体調不良と聞いて胸を撫で下ろすカドゥース。


“我の我が儘で、授業を中断したり寝ているのを起こしてまで子供達に逢うのはいただけないな”


折角子供達に逢える機会だったが、諦めることにした。


「ならあれは、ニィチェは何処だ?ルースの看病をしてるのか?」


やや声を小さくして尋ねると、何故か侍女は困惑した表情を浮かべた。


「いえ、妃殿下は先程から…」


その時、突然女性の軽やかな話し声が聞こえてきた。


“あの声は!?”


聞き覚えのある声に彼がその方向に視線を向けると、そこには探していたニィチェ本人の姿があった。

だが彼女はにこやかに微笑みながらひとりの男性と共に庭へと出てきていたのだ。


“あれは!?”


「貴方のおかげです。話してくれて本当にありがとう」


「いえ、妃殿下の御心が安らぐのであればいつでも御呼び下さいませ」


ニィチェの隣に居た男性…他ならぬカドゥースの義弟アルザス、は彼女の笑顔を含んだ謝辞にもやや無表情気味に答えるのであった。


「では私は仕事がありますのでこれで失礼致します」


「ええ。お務め宜しくお願い致します」


にこやかに微笑むニィチェにアルザスは無表情のまま軽く会釈してその場を後にした。


「……」


植え込みの影から二人の様子を見ていたカドゥースは表情を歪め近くの枝を握り締めた。


“何なんだ一体、我に内緒で何を、二人で何を話していたのだ?”


ニィチェの微笑みに、それが他の者に向けられていると知って、彼の胸の内に微かに怒りに似た感情が沸き上がっていた。


「…?」


一方のアルザスは妙な視線を感じ、ふと足を止めて丁度彼が隠れていた植え込みに視線を向けた。


「……」


暫しそのまま茂みを見ていた状態であったが、やがて何事も無かったように踵を返し、再び足を進めていったのだった。



      *



「いやはや、最近のこの国の勢いは素晴らしいものですな。帝国アクリウムだけでなくウインディアまでもが我が国との同盟を取り付けるまでになるとは」


「いや、まだまだです。まだこの国は大きくなります」


昼食会で、ご機嫌な男と陽気に会話を続けるカドゥースではあったが、胸の内では先程の光景が浮かんで、彼の心を乱していた。


“ニィチェが奴に対してあのように微笑むとは…一体何をしたのだ?”


「これも殿下と、アルザス宰相様の働きが功を奏した結果で御座いますな」


「!?」


アルザスの名前が出て、ぴくりと眉を潜めるカドゥースであったが、男は気付かずに高笑いをしている。


「そうですな。あれの功績は見事なものです」


“アルザスめ、何故ニィチェの傍に居たのだ?何を話していたのだ?”


「巷では未だに彼の方を排除すべき動きがあるのだが、ここまで国益の為に尽くしたのであればおいそれと排除は出来ませぬな殿下」


「ええ…あれは我が誇る右腕ですから」


“そうだ、あれは我の右腕、我の言うがままに動く人形…”


「殿下…殿下?いかがされましたか?」


男の声にカドゥースは我に帰り、慌てて話を合わせた。


「これは失礼しました。ですがこの国が他国より抜きん出た存在となる為にはまだまだ力が必要です。――殿やアルザスのように、我に忠実で優秀な者の力が」


「おやおや、私もこの国の礎とお考えとは…身に余る光栄ですな」


ははは、と上機嫌に笑う男と共に酔えぬ酒を傾けるのであった。



      *



――会食を済ませた後はダルシュ国の使者と以前より約束していた条約を取り交わし、建国祭の出席を約束してからお互い友好的に別れを告げた。


「ダルシュ国との条約は我が国に更なる国益をもたらす事になりますな」


「うむ…」


側近の賛辞に満足げに頷くカドゥース。


「次は宰相様からの政府報告会です。会議室にて行いますので…」


「その件だが、我の私室で行う」


「は…?今何と?」


「今から奴を我が私室に連れて来い。供は付けさせるな、あとそなたらも付いて来るな、良いな」


「しかし、それでは…」


突然の提案に側近は戸惑うばかりである。


「我の命令だ、逆らう事は赦さぬ!」


表情を歪め強い口調で命ずる彼に誰も逆らう事など出来ない。


「…御意」


小声でやや不満げに答える側近に満足げに黙って頷くと、そのまま独り私室へと向かっていった。



      *



――カドゥースが私室に戻り、酒瓶を出してグラスに注ぎだした頃、軽く扉を叩く音が聞こえてきた。


「御呼びで御座いますか殿下?」


当の本人の声を聞いて、カドゥースはぴくりと眉を潜めたが、


「入れ」


何事も無いように装い、酒瓶に蓋をしてグラスを手にそっけなく答えた。


「失礼致します…」


扉が開き、書類を手に部屋に入ったアルザスが目にした殿下の姿に、ローテーブルの酒瓶に表情を歪めた。


「殿下…私は遊びに来た訳では御座いません。政界状況の報告と諸書類の確認・捺印の為に時間を割いて来たので御座います。なのにこれは…」


「酒を飲んでも仕事は出来る。お前も解っているだろうが」


苛立ちの声にも身動ぎせず無表情で答えるのだった。


「……」


アルザスのほうもそれ以上は何も言わず、カドゥースの座る反対側のソファーに腰掛け、酒瓶を大げさに横にずらして手にしていた書類をローテーブルに置いた。


「こちらが前期の収支報告です。財務の報告では…」


彼の説明も、カドゥースはおざなりにしか聞かず、ただ彼の話す様子を不機嫌と思わせる表情を浮かべ、忌々しく見ているだけである。


「…以上の事を踏まえまして、今期の予算編成は…」


ふとカドゥースの様子を横目で確認したアルザスは、自分を見るその忌みじみた瞳に気付き、はあと溜め息をついた。


「何だ、説明に疲れたのか?」


「…いくら私が説明したところで、今の殿下は曖昧にしか御聞きにならないでしょう。というか、端から聞きもされないでしょう」


的を得た指摘に一瞬動揺したが、それを隠すようにグラスの中身を飲み干した。


「お前のやり方に間違いは無いと確信しているから聞かないだけだ。面倒な事はしたくない」


「全面の信頼を頂けるのは大変有難い事で御座いますが、時には目を光らせることも大切で御座います」


「それはつまり、お前が我を裏切る、というのか?」


「それも有り、とだけ言っておきましょう」


そこまで告げると視線を反らし、数枚の書類をカドゥースに向けて差し出した。


「こちらが先日審議を終えた条例に、こちらはアクリウム国との取引の承認証…まあ、これも御聞きでないでしょうし御読みにもならないでしょうが…殿下の承認の印が必要な書類で御座います」


「……」


流石に己の承認が必要な程の重要な書類を、内容を読まずして承認するのは不都合と考えたのか、並べられた書類のひとつひとつを手にし目を通しだした。


全て読み終えると無言のまま、先ずは傍らにあった羽ペンを握り署名した後に懐から印を取り出し捺印していった。


仕事を終え、書類をアルザスに返した後も退室を命じず黙ったままじっ、と彼を睨み付けるカドゥースに、流石の彼も耐えきれずに口を開いた。


「で、私に何の話があるので御座いましょうか?」


「何だ?」


「誤魔化さないで下さい。わざわざ人払いをさせてまで私を殿下の私室まで御呼びになったという事は、私に何か話があるので御座いましょう?」


「……」


己の思惑をすっかり見抜けられ、動揺するものの何も語らず微かに表情を歪ませ歯軋りするだけである。

そんな彼の様子にいよいよアルザスも怒りが沸いてきた。


「殿下…私が昼前に、殿下の許可無く妃殿下と二人きりで御会いしていた事がそれほど気になるのですか?」


「!?」


「あの時、殿下が庭木の陰から私達の様子を伺っておられたのは解っております」


「貴様…」


そこまで見抜かれてるとは思いもしなかった為、カドゥースからつい呻きとも言える声が漏れた。


「何を話していたのだ?我に内緒で二人して何故逢っていたのだ!」


いよいよ怒りを露に本性を暴露させたカドゥースに、あくまでもアルザスは冷静に淡々とした様子で書類等を纏めるだけである。


「殿下のその質問は、私ではなく妃殿下にお願い致します」


「何だと!?」


カドゥースの怒りの声にもアルザスは淡々とした態度で持ってきた書類を手にソファーから立ち上がった。


「私は次の打ち合わせが有りますのでこれで失礼致します。殿下はこれから夜まで予定が無いとの事。差し出がましいかとは思いましたが妃殿下をここに御呼び致しました。後は御二人で話を進めて下さい」


「何だと!?おいアルザス!」


だがその声を完全に無視し、無言のまま一礼するとそのまま部屋から出ていってしまった。


「…っ!?」


独り残されたカドゥースは怒りのやり場に困り、言葉も出ずぎりぎりと歯を軋ませ、思わず近くの壁に拳を叩き付け、喉から絞り出すように短く叫んだのだった。


「アルザス…我を馬鹿にしおって!」


――一方、部屋を出て自分の仕事場へと戻っていたアルザスの耳に、背後から激しい音と短い罵声が聞こえ、思わず足を止めて振り返った。


「……」


“全く…殿下といい妃殿下といい、御二人とも本当に素直ではない御方達だ。当人同士でやりあうならまだしも、全く関係の無い私まで巻き込まないで欲しいものだ”


はあと深い溜め息をつくと、踵を返し再び目的の場所に向けて歩きだした。



       *



「…っ!」


完全にアルザスにやり込められたカドゥースのほうは、独り私室でソファーに腰掛け、何度も酒をグラスに注いで飲み干していた。


“アルザスめ…何が話し合えだ!ニィチェもニィチェだ!何故奴と二人きりで話をしたのだ!”


胸中に嫌な予感が渦巻き、益々彼の気持ちが荒んでいく。


「くそっ!」


怒りの余り、手にしていたグラスを壁に叩き付けたその時、扉を叩く音がした。


「誰だ?」


「ニィチェで御座います。アルザス候からの伝言で殿下が御呼びと御伺いしましたが…」


「入れ」


自身を乱す張本人の声に、半ば苛立ち気味に答えた。

扉が開いてニィチェが姿を見せると、彼女は空の酒瓶が散らかる部屋の様子を見るなり表情を歪めた。


「殿下…まだ明るいうちからこの様に飲まれるとは、人の上に立つ者として…」


「黙れ、そなたには関係無い事だ。ここに来て座れ!」


「殿下…」


勝手に怒りをぶつける夫の姿に、心中で呆れながらも言う通りに従った。


「殿下、私にどういった御用件で御座いましょうか?」


落ち着いた様子で、だが口調に微かに不満を込めた感じで夫に問い掛けた。

余りにも落ち着いた様子の彼女に、カドゥースは益々怒りを募らせグラスに酒を注いで一気に煽った。


「ニィチェ…昼前に奴に逢っていたのは何故だ?」


その瞬間、ぴくりとニィチェの表情が微かに歪んだ。


「奴、とは一体?」


「アルザスの事だ!お前は昼前奴と二人で逢っていただろうが。誤魔化しても無駄だぞ、我はこの目で確認したのだからな!」


カドゥースの怒りの声に、ニィチェは驚きを隠せない。


「何故殿下がその事を?あの時間は殿下は会議中の筈では…」


「会議が早く終えたから、お前や子供達に一目逢おうとわざわざ別邸(ここ)にやって来たのだ。子供達は授業や体調不良で眠っている最中、お前は奴と逢って何をしていた?」


「それは…」


カドゥースの怒りの様相に、ニィチェは一瞬怯えひるんだが、直ぐにきっとした顔付きになり、彼を見返して反論しはじめた。


「殿下こそ…私に内緒にしている事が御座いますよね?」


「は?」


「誤魔化さないで下さい!私は知っているのですよ、殿下が私に内緒で内密に側室を迎えようとしている事を」


「何だと!?」


突然予想もしない事を言われ、一瞬怒りを通り越して呆然としてしまった。


「何を言ってる?我が側室を持つだと!誰がそんな戯れ言を言ったのだ!」


「それは今は関係御座いません。殿下…『あの時』にお互い約束したではありませぬか。決して隠し事をせぬと。なのに、よりによって側室の件を秘密にされるとは…」


最後は哀しみを湛えた声になりながら、彼から視線を反らして俯いた。


「殿下の御立場故に、私の地位の低さ故に国同士の繋がりの為の婚姻も…側室も已む無しとは解っております。ですが私に一言も無く進められるのはあんまりで御座います」


「待てニィチェ!そなた何か誤解してるぞ。我には側室を迎える話など無いぞ」


すっかり話が変わってしまい、カドゥースは混乱してしまっている。


「ならば先日のタイクーン国への訪問での事は何なので御座いますか?」


「タイクーン国の…だと?」


そこまで言われ、必死で過去の記憶を手繰り寄せた。


“確かあの時は、かの国の国王と会談し、晩餐会に出席して…”


「!?」


“まさか、あの事か!あの話を周りの誰かが勘違いしたというのか!”


「思い出された様子で御座いますか…」


「待て、それは誤解だ。確かにかの国での晩餐会の折、陛下の末娘のラゼンダ皇女とその…そういう話題は出てきたが…あくまでも酒の席での事、戯れ言だ」


やっと事を思い出し、必死で説明するカドゥース。


「ですが皇女のほうは乗り気で、後日殿下に文をお渡ししたと。一部の者からそういう事で話が進んでいると聞きました」


「お前な…ラゼンダ皇女は未だ15にもならん小娘だぞ!倍も歳上の我のもとに、しかも側室で輿入れするとでも思っているのか!それこそお笑いだ」


余りの話に失笑が浮かんでしまう。


“成る程、ニィチェの事をよしとしない派閥の奴等が話を都合良く湾曲させて話したのだな。全く…我が敢えて游がせておけば図に乗りおって!”


「では文の件は…」


「あれは単に…ああ、口で説明するよりそなたに見せたほうが確実か」


はあと疲れたようなため息をひとつすると、カドゥースは立ち上がり机のほうまで寄って引き出しから何かを取り出した。


「皇女からの文だ。読んでみろ」


ニィチェは恐る恐る文を受け取ると、裏を見てみた。

そこには紛れもなくタイクーン国の紋章の蝋印が施されていた。

中身を開き、文を読んでいくと、内容は先日の晩餐会での様子や贈り物に対する御礼、そして他愛のない事が書かれていて、側室や婚姻の事は一言も書かれていなかった。


「!?」


だが最後の一文を見たニィチェはその内容に愕然とし、思わずカドゥースを見てしまった。


「これで解っただろう。我と皇女とは何の関係も無いと」


「……」


最後の一文、それは以下のものだった。


『殿下から直接アルザス宰相様の事をお聞き出来て本当に嬉しかったです。今度そちらに来る機会がありましたら、是非とも御噂のアルザス宰相様に御会いしたいものです』


「まさか皇女は…」


「そういう事だ。皇女は端から我など眼中に無い。寧ろ我の立場を利用して奴の事を根掘り葉掘り聞いてきたくらいだ。全く…何故奴のような無愛想に夢中になるのかがよく解らん」


「は、あ…」


事の真相を知って、その内容の余りの結末にニィチェは己の勘違いに、怒りも哀しみもすっかり抜けてしまった。

半ば気の抜けた彼女の様子にカドゥースは彼女の誤解が解けたのだと理解し、安堵したようにはあと息をついた。


「で、お前がアルザスに逢っていたのは、その事を聞く為だったのか?ならば何故我に直接聞こうとしないのだ?」


「何度もしようと思いました。ですが殿下はずっと多忙な御様子で、私や子供達とも逢う時間すら無い様子で御座いましたから…」


「だから、業を煮やして我でなく奴と話をしたのか?」


「あの時、偶然廊下で御会いしましたアルザス候に強引に別邸(ここ)に来るようお願いして話を伺いました」


「で、奴は何と?」


「この件について何も知らぬと。ですが殿下は本日夕刻時に僅かに空く時間が有るので、殿下と引き合わせるよう取り計らいますと、そう仰有いましたわ」


「……」


“あれの立場から、奴がこの件を知らぬ筈が無い。それでいて我に全てをふったと云うことは…成る程、な”


そこでカドゥースは、やっとアルザスの意図する事を全て理解したのであった。


「奴め…太陽祭の仕返しのつもりか」


「?」


ぽつりと独り呟き、突然にやりと傲慢な笑みを浮かべる殿下に、ニィチェは訳が解らず首を傾げた。


「そなたもそなただニィチェ、あのような噂に振り回されるなど、いつもの冷静なそなたらしくないではないか」


「それは…それを仰有るのでしたら殿下もそうですわ」


「我が何を?」


いきなりその様に言われ、今度は彼のほうが首を傾げた。


「私がアルザス候と二人で話をしたというだけで、そのように激昂されるとは、殿下らしからぬ行動ですわ」


「当たり前だ!そなたとアルザスは昔…!?」


そこまで口に出して、カドゥースははっとなって口をつぐんだ。

己の失言に恐る恐る彼女に視線を向けると、彼女は驚きから怒りの表情に変えていった。


「殿下…まさかあの時の事をお考えとか!?そもそもあれは誰のせいだかお解りですか?あれは殿下御自身が御命令された事ですよ!その事でどれ程私が苦しんだか…殿下はお解りなのですか!」


「解ってる。そなたは悪くない、悪いのは全て我だ。あの時の我はどうかしていた。本当にすまない…」


「私だけではありません。殿下の御命令に忠実に従ったアルザス候にも罪はありませぬ」


「ああそうだ、解ってる、悪いのは全て我だ。

…あの事は今でも後悔している…本当だ…」


最後は辛く呻くように呟くと、カドゥースは両手で頭を抱え項垂れるように俯いた。


「……」


そんな夫の姿に、流石に言い過ぎたと感じたニィチェは黙ったままそっと隣まで寄っていった。

そして俯く夫の背に自身の身体を寄せた。


「これ以上殿下と離れていたら、また『あの時』のようになってしまいますわ」


「!?」


はっとなってカドゥースが身体を起こし、ニィチェを見ると、彼女は今にも泣き出しそうに深紫の瞳を潤ませ唇を噛み締めていた。


「ニィチェ…」


「もう嫌です。『あの時』に戻るのは…」


哀しみに肩を震わせるニィチェをカドゥースはそっと胸に抱き寄せた。


「我もだ。あの10年は我にとっても地獄の日々だった…」


“ただ一言が言えなかった故に、我とニィチェは…”


「我が悪かった。仕事の忙しさにかまけて長い間子供達やそなたの事をないがしろにしてしまった…」


「いいえ、殿下のせいでは御座いません。殿下は立派に役割を果たしておられるだけ。それは国の長として立たれる人物としては当然の事。私はその隣に立つべき立場として堪えねばならぬと解っております…いえ、解らなくてはならないのに、私の心が弱い故に殿下の足手纏いになってしまう…」


「それは違う。そなたは立派に我の妃としての役割を立派に果たしておる。

そなたは我が世継ぎを成してくれたし、持ちたる高い知性で我を助けてくれた」


「殿下…」


「そして…何よりそなたは我の唯一の女だ。我が愛したただひとりの女だ。誰が何と言おうとも全てを敵にしようとも、そなた以外の女を決して我が隣には座らせぬ」


ニィチェを真っ直ぐに見つめるカドゥースの瞳には、何の偽りも迷いも無い。


「殿下…私もです。殿下の傍に居たい、殿下を…お慕いしております。私の全ては殿下の為に御座います」


胸元で涙を溢しながらそう呟くニィチェの姿に、カドゥースは苦笑いを浮かべ呆れたように吐息をついた。


「ニィチェ…以前より我は言った筈だ。二人きりの時は『殿下』でなく名を呼べと」


「でも殿下…」


思わずそう口に出したニィチェをカドゥースは軽く睨み付けたが、口元には笑みが溢れていた。


「…カドゥース、様…」


「『様』は要らん。全くそなたは強情だな」


ニィチェの顎を軽く掴んで上にあげたかと思うと、何か言おうとしたその唇に自らのを重ねた。


「ん…」


暫しそのまま彼女の唇を味わっていたカドゥースだったが、唇を離すとニィチェの身体をソファーに押し倒した。


「で、殿下…」


「名を呼べと言った筈だ。我の言うことを聞けぬ者は、その身にしっかりとお仕置きをせねばならぬな」


微かに抗うニィチェの上に身体を重ね、首筋に顔を埋めて口づけを落としていく。


「で、殿下!まだ陽のあるうちから、このような…っ!?」


「心配するな。夜まで人払いをさせておる。我らの邪魔をする者などおらぬわ」


にやりと勝ち誇ったように笑う夫の姿に、ニィチェは頬を熱くした。


「もう…」


再び唇を重ね、両手が彼女のドレスの胸元に触れるのを、裾から入り込み太股を撫でるのを、ニィチェは抗う事をせずされるがままになっていた。


「ニィチェ…」


その時、廊下からぱたぱたと軽い足音がいくつも聞こえてきたかと思うと次第に大きくなっていき、突然部屋の扉が大きく開かれた。


「御父様!ここにいらっしゃったのですか!あれ?御母様もいるー!」


そこには走ってきたのか息を弾ませ笑顔を浮かべる長女アイリスの姿があった。彼女は部屋の中に居た自分の両親の姿に嬉しそうな笑みを浮かべている。


「あ、アイリス!?」


突然の娘の出現に、二人は間抜けな声を出して慌てて起き上がり、乱れた服を直していく。


「ど、どうしたのですアイリス。お勉強はどうしたのですか…」


「こらアイリス!ノックも無しにいきなり部屋の扉を開けるなと言われただろうが!」


アイリスを追うようにして長男のラスファも部屋に姿を現した。


「ラスファ、お前まで…」


「あ…御父様、御母様。突然の訪問失礼致しました」


流石長子、ラスファは二人の様子に何か感じたのか、少し照れた様子で頭を下げて謝罪するのであった。


「何よー御兄様だって御父様に逢いたいって言ってたじゃない!」


思わぬ事で怒られ、不満そうに口を尖らせて文句をいうアイリス。


「それとこれとは別、部屋に入る時はノックをして許可を得てから入室するのが淑女としてのマナーと教わっただろう」


「とうたまーかあたまー!」


更に遅れてひとりの侍女…昼間カドゥースと話をした、に抱かれたルースまで現れた。


「ルース、お前身体は大丈夫なの?」


「げんきー!おねつさがったよー」


慌てて末息子に駆け寄るニィチェに、当人は至って機嫌よくにこにこしている。


「一体どういう事なのか?」


カドゥースのやや低い声の尋問に、侍女はびくびくと怯えながらも答えだした。


「ひ、昼間に殿下がこちらにお見えになられたのをお聞きになったラスファ王子様達が、殿下にお逢いしたいと申しまして…」


「それで、アルザス叔父様から御父様が御母様と一緒にお部屋に居るって聞いたから、皆で逢いにきたのー!」


にこにこと嬉しそうに笑顔を浮かべながら答えるアイリス。


「……」


唖然とするカドゥースとニィチェに子供達は更に続ける。


「ねー御父様に御母様、ご飯まだですよねー、アイリス、皆で一緒に夕食したいなー、御父様にお話したい事がいっぱいあるのー」


「いっしょにごはんごはんー!」


「駄目だよアイリスにルース、御父様は夕食は他の方と約束しているんだよ。僕達は御母様と別に食事するんだよ」


アイリスとルースは無邪気に無謀なおねだりをするが、弁えているラスファはあくまでも現実な一言を言うのであった。


「えー!そんなー!」


「とーたま、いっしょにごはんー」


二人の無邪気なおねだりに、ラスファの長子としての責任感からの態度に、カドゥースは先程のニィチェとの仲を邪魔された不快感は何処へやら、心が温かくなってきて、つい笑みが溢れてしまった。


“アルザスめ…奴らしくもない粋な計らいをしてくれるわ”


「良いだろう。折角の機会だ、今日は私室(ここ)で皆で食事しようじゃないか」


「殿下!?」


カドゥースの思いもよらぬ発言に、ニィチェはびっくり。


「「わーい!皆で食事だーやったー!」」


「御父様!本当にですか!」


下の二人は飛び上がらんばかりに喜び、ラスファのほうもつい興奮気味に嬉しそうに顔をほころばせていた。


「殿下、ですが今日は一月前からの約束の食事会が…」


「おい、お前!」


ニィチェの声を無視して、カドゥースはルースを抱っこしていた侍女に話し掛けた。


「は、はいっ!」


「我は夕刻から季節特有の体調不良になった。なので今夜の食事会は延期すると伝えよ。我は私室(ここ)で休む故、夕食もここに運ぶよう手配するのだ」


かなり無茶苦茶な命令だが、国の長に近い者に、不敵な笑みを浮かべて命令されると、一介の侍女如きが拒否など出来ない。


「ぎ、御意…」


「ならば直ぐに皆にその由を伝えよ」


「は、はい!」


侍女は慌ててルースをニィチェに託すと、一礼して部屋から出ていき扉を閉めた。


「わーい!御父様も御母様も一緒だー!」


「とうたまーとうたまー」


「御父様、今日の授業中にですね…!」


家族だけになると、子供達は嬉しさの余り、いきなり父親に話し掛けたり抱き付いたりしてきた。


「おいおい…お前達、いっぺんに話されても困るぞ」


「そうですよお前達」


二人して子供達を宥めるのだが、その表情は何とも穏やかで温かいものである。

それは一国の殿下と妃殿下としての厳格な姿ではなく、正に子供達の父親と母親としての顔だった。


――その夜、殿下の私室からは深夜近くまで子供達の話し声と笑い声が絶えず、カドゥースは久しぶりに家族水入らずの時間を楽しんだのであった。

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