第10章Ⅱ:誰が為のお菓子達
太陽祭(第9章参考)より少し前に起こった出来事です。
この話を読んだ後に第9章Ⅸを読むと少し納得するかと思います。
「今日は。ご機嫌如何かしら?」
「……」
突然目の前に現れた不敵な笑みを浮かべる女に、アルザスは至極不機嫌な表情を浮かべ、睨み付けるように視線を返すのだった。
*
――ここは街の一番外れにあるアルザスの屋敷。
書類が揃わず仕事が進まない事と自身の体調がいまいち優れないということもあって、アルザスは午後から休みをとり屋敷へと戻り庭の中にあるテーブルでゆっくりお茶をしていたのだが…、
「今日は。ご機嫌如何かしら?」
突然屋敷に現れた女…メリンダはにこやかに微笑みながら目の前にいるアルザスの様子を伺っている。
「何しに来たのだ?第一何故そなたが彼女を招き入れたのだ?」
アルザスは傍らにいたメイドのカリメを睨み付けた。が、
「メリンダ様はアクリウム国の重鎮たる御方と伺っております。そのような御方を無下に御帰しするのは非礼と思いました次第です」
「それでも先ずは主人たる私に話を通してからだ」
尤もな事を言われ、流石のアルザスもそれ以外言い返す言葉が無かった。
そして若干感情的になっていた事に自ら恥じて舌打ちし、そっぽを向いてお茶に口つけた。
「彼女を責めるのは筋違いだわ。責を問われるべきは私よ。
突然の訪問、大変失礼致しました。でもまさか貴方が屋敷に居るとは思いもしなかったわ」
カリメを庇う彼女のその姿は真摯そのものであったが、突然の訪問に関しての謝罪はいまいちである。
「何しに来た?よもや私に逢いに来たとは思えぬが」
「勿論よ。今日は仕事で他国に訪問の途中だったの。ここにはついでに寄っただけよ。これを届けたくてね」
ついでと言われて少し気分を害するアルザスを無視し、メリンダは手にしていた二つの箱をテーブルの上に置いた。
そしてそれぞれの箱を開けると、辺りに甘い匂いが漂いだした。
匂いにつられアルザスが箱を見ると、そこには木の実をちりばめた長方形型のケーキと、赤い実をふんだんにのせたタルトの、二種類の菓子があった。
「これは我が国で一番の菓子職人の自慢のケーキなの。こっちは上質なチョコレートを使ったショコラパウンド、そしてこちらは濃厚カスタードとキルシュ浸けの果実のタルト。どちらもアクリウム国で一、二位を争う程の人気菓子よ」
「……」
にっこりと自慢気に話すメリンダに対して、アルザスは何故か少し不機嫌気味である。
見れば脇で二人の様子を見ていたカリメも眉をひそめている。
「以前御会いした際、甘いものが好みのようだったから、頂いた紅茶と香水のお礼も兼ねてわざわざ取り寄せて持ってきたのよ。どう、お気に召したかしら?」
にっこりと自慢気な、気に入らない筈は無いわよねと言いたげなその表情にアルザスは暫し無言だったが、
「素晴らしき菓子、感謝する。有り難く受け取らせて頂くぞ」
謝礼の言葉を述べて彼女に向けて軽く礼をするのだった。
“ふふ、表情には出せずとも喜んでくれたようね。素直じゃないんだから”
その姿に、メリンダは可笑しくもあり満足げな気分だった。が、
「カリメ、これはお前達使用人で分けあって食するが良い」
「な…!?」
だが次の彼の信じられない言葉に、メリンダは目を見張った。
「私は気分が優れぬので部屋に戻るとしよう。カリメ、メリンダ殿に菓子の礼として例のものを差し上げてお引き取り頂くように」
「しかしそれでは…」
「良いなカリメ」
「…御意」
カリメが何か言いたげにしたのを無視して強い口調で命ずると、アルザスは真っ直ぐに屋敷の奥へと姿を消したのだった。
予想外の行動にメリンダは暫し唖然としたままだったが、やがて余りの無礼さに腹が立ってきた。
“な、何よあの態度!私が折角一流の菓子職人のとっておきの菓子を、わざわざ注文して痛まないように処理までして持ってきたというのに…それを、それを自分は一口も食さずに使用人に分け与えるなんて!”
「メリンダ様」
「!?」
怒りに無言で身体を震わせるメリンダに、突然脇にいたカリメが声をかけてきて、彼女の前で深々と礼をした。
「主人の無礼、代わって私が御詫び致します。申し訳御座いません」
「いえ、貴女が悪いわけではないわ」
…そうよ、悪いのは全部あの人なのだから。
「メリンダ様のお怒りはご尤もです。ですが…実は旦那様は、この菓子のどちらも口にする事が出来ないのです」
「え?」
意外な言葉にメリンダが驚く。
「旦那様はアルコール類とチョコレート類は一切受け付けないので御座います。口にすれば気分を害し嘔吐してしまうのです。ですので私達使用人にお渡しした次第で御座います」
「……」
彼女のその言葉にメリンダは思い当たる事があった。
“そういえば以前催された七か国会合後のレセプションで、あの人は皆の薦めを断ってアルコールの類いを一切口にせずに水ばかり飲んでいたわ。
あれは単に体調を気にしてでは無くて、本当に飲めないからだったのね”
「それに加え本日は旦那様の体調も優れず、仕事を休んで屋敷で休養の最中でしたので御座います」
「体調が優れぬのにいきなり訪問した私も失礼でしたものね」
「いえ、それは違います。ですが本日はお引き取り願います。ああ、こちらはせめてもの御詫びの品で御座います」
そう言ってカリメは美しい薄桃色の薔薇の花束をメリダに手渡した。
「素晴らしい花ね、ありがとう」
綺麗な花の姿に、メリンダの心も少しだが落ち着いてきた。
「では私は失礼致します。アルザス殿に御大事にとお伝え下さい」
「畏まりました」
お互い礼を交わすと、メリンダは馬車へと向かい、屋敷を後にするのだった。
*
――帰りの馬車の中、メリンダは例の薔薇の花束を見ながら考え事をしていた。
“確かにいきなり屋敷に訪問して、しかも好みであろう菓子で、だけど食する事の出来ぬ物を贈られても不快になるのも当然よね”
そしてふと考えた。
“でも…だからって、いきなり贈り物を贈り主である私の目の前で他の人に渡さなくても良いじゃない!
そうよ、私だって鬼じゃないから一言ちゃんと理由を言えば私だって納得するわ!なのに何も言わずに独りで勝手に機嫌を損ねるなんて…まるで駄々っ子そのものだわ”
「……」
懺悔と怒りが入り交じる気持ちのまま、メリンダがふと外の景色を眺めた。
丁度街内を走っているらしく、様々な店が軒を並べているのが見えた。
「!?」
その時、ふと彼女はとあるひとつの店に目を見張った。
“あれは…!?”
「ちょっと貴方っ!そこの店の前で止めてっ!」
いきなりメリンダは外にいる馭者に叫んだ。
「は、はいっ!」
突然で驚きながらも、歳を召した馭者は直ぐに馬を止めて馬車の扉を開いた。
メリンダは直ぐに降りると一直線にその店…小さな菓子屋に向かい中に入っていった。
「「いらっしゃいま、せ…!?」」
中にいた店の主人とおぼしき男女の声が響き、だがメリンダの美貌を見るなり男は顔を惚けさせ、女は唖然として口を開けてしまった。
「貴方達、この店の方かしら?」
「は…はい、そう、で御座いますが…」
返事を確認すると、メリンダは店の奥にあった『それ』を指差し、
「あれを頂けるかしら?代金は如何程?」
男女…この店の主人とその妻はメリンダの指差す場所を見て、二人して首を横に振って困ったように告げるのだった。
「あれは特別注文の品でして、申し訳ありませんがお客様にはお売りすることが出来ません」
「お客様、こちらの品は如何でしょうか?こちらはうちの店でも良質の小麦粉や砂糖、リキュールを使って作り上げた一品で御座います」
奥さんとおぼしき女性がメリンダに『それ』よりも遥かに上品で見た目美しいケーキを奨めてきたが、
「これでは駄目、リキュールを使っているからあの人が食べられないわ。私はあれが欲しいの。代金に糸目はつけないわ。おいくらで譲って頂ける?」
「しかしこの菓子は普通の菓子では…」
「ならば…同じものを直ぐに作ってくれるかしら?勿論代金ははずむわ」
やや強気な口調でそう告げると、店の夫婦はお互い顔を見合わせて何やら話をしながら、やがてこくりと頷きメリンダのほうを向いた。
「解りました。お客様のご要望の品、只今より作らせて頂きます。
ただ二刻程時間を頂きますが、それでも構わないでしょうか?」
「勿論よ、ありがとう。では私はここで待たせて頂くわ」
店の主人の提案ににっこりと満足そうに頷くと、メリンダは近くにあった椅子に腰掛けたのだった。
*
――夕焼けが辺りを紅く染めようとする時間、
部屋でひと寝入りしていたアルザスはふと目を覚ました。
“あれから眠っていたのか…久しぶりだなこのように寝たのは”
身体を起こし、ふと窓から見える夕焼け色を見て思っている以上に時間が経った事に気付きふう、とため息をついた。
先程より大分調子は良くなったとはいえ、多少ふらつく頭を抱えながらもアルザスはベッドから降りて立ち上がり、服を着替えた。
「……」
そしてふと昼間の出来事を思い出していた。
“あの女、私が調子の悪い時にわざわざ来て私が好みそうな、だが食べれもしない菓子を自慢するとは!”
だが一方では、
“…だがあの女は何も知らずに、ただ私を喜ばせようとしてあれを持ってきただけに過ぎぬのに、己はただの八つ当たりで贈り物を拒否してしまった…”
彼の胸の内には微かな罪悪感が起こるのであった。
「…何をしてるんだ私は」
珍しくぽつり独り言を呟くアルザスのもとに扉を叩く音。
「何用だ?」
「お休みのところ失礼致します。メリンダ様がおみえになりましたが…」
「は!?」
思わぬ人物の名を聞いてアルザスは変な声をあげた。
「何でも旦那様に受け取って頂きたいものがおありとか…如何いたしますか?」
“受け取って頂きたいものだと…一体何なのだ?よもや私が例の菓子を拒否した腹いせか何かか?”
いろんな考えが頭の中を渦巻いたが、
「客間に通して待たせておけ、数分でそちらに向かうから茶を入れてくれ」
そう答えるのであった。
「御意」
*
着替えを済ませアルザスが客間に向かうと、そこにはにっこりと嬉しそうな、だが何処と無く自慢げな微笑みを浮かべるメリンダの姿があった。
「再度の訪問失礼しますわ」
アルザスの姿に気付くとメリンダはソファーから立ち上がり、先程の笑みを彼に向けて一礼した。
「何しに来たのだ?」
アルザスが冷ややかにただ一言そう言うと、メリンダはにっこりと笑みを浮かべ、
「先程は貴方が食する事の出来ぬ菓子を持ってきて大変失礼致しました」
その一言に、アルザスはぴくりと眉を潜めた。
“何故その事を知って…カリメか、余計な事を喋りおって!”
「その御詫びに…これを貴方に持ってきたの」
そう言ってメリンダはローテーブルの上に置いていた大きな箱を指した。
「?」
首を傾げるアルザスを尻目に、メリンダは箱を開けて中身を取り出した。
「!?」
中身を見た彼は驚きの表情を隠せない。
「どうかしら?これならチョコレートやアルコールが駄目な貴方にも食べれるでしょう?」
不敵に微笑む彼女の傍には、径が通常の倍以上の長さがある、周りを真っ白のクリームで飾られた見事で巨大なデコレケーキが現れた。
「どうかしら?中には赤ベリーの実がふんだんに挟んであるケーキの王道、白クリームケーキなら貴方でも食べることが出来るわよね?」
“ふふ、かなり驚いているわね。まさか私がこのような、しかもこれ程巨大なケーキを持ってくるなんて思いもしなかったでしょう”
アルザスの反応にメリンダは心の中で満足げにほくそ笑むのであった。
が、
「そなたは…私をからかっているのか?」
何故かアルザスはそのケーキを見るなり、驚きのものから怒りとも呆れともとれる、何とも複雑な表情をメリンダに向けたのだった。
「え?そんな事は無いわ。美味しそうじゃない、赤ベリーのケーキなんて、アクリウム国ではなかなか手に入らないものなのよ」
メリンダは彼の思いもよらぬ反応に半ば戸惑い気味である。
「やはりな、そなたはこのケーキが何か解っていないようだな」
「?」
メリンダが首を傾げたその時、扉を叩く音がした。
「誰だ?」
「失礼致します旦那様、お茶をお持ち致しました」
外からはお茶を持ってきたカリメの声がした。
「入れ」
ぶっきらぼうに呟くとアルザスは近くのソファーに腰掛けた。
メリンダもその場に座ると、カリメがお茶を持って室内へ入ってきた。
部屋に入るなり、真っ先に目に飛び込んだそれを見るとカリメはおや、という表情を浮かべた。
「こちらのケーキは、もしやメリンダ様が…」
「ええ、アルザス殿にどうかと思ってね、美味しそうでしょう?」
メリンダの言葉に、だがカリメも複雑な表情を浮かべ、アルザスとメリンダの顔を見比べた。
「……」
そんなカリメの姿に、アルザスは彼女を睨み付け瞳で無言の言葉を投げ掛ける様子を示した。
まるで何も言うなと言わんばかりに。
「?」
“何、あの行動?見た感じ二人ともこれに喜んでいる風では無いみたいね。寧ろ…呆れて、怒っている。何故?”
その素振りに、メリンダは訳が解らず首を傾げた。
“何故かしら?今回はちゃんとあの人でも食べられるお菓子を選んだわよ。まあ確かに白クリームのケーキだなんて、幼い子供が好むものだから子供っぽいかもしれないけど…”
「あの…メリンダ様はこのケーキの言われを御存知でしょうか?」
思い悩んだ末、カリメがぽつりとメリンダに問い掛けてきた。
「いえ、何かあるの?」
その時突然アルザスの声が飛んできた。
「カリメ、余計な事を言うな!」
「ですがメリンダ様が誤解したままではメリンダ様だけでなく旦那様もお困りでしょう」
「……」
「何、このケーキには何か意味でもあるの?」
訳が解らず、メリンダはアルザスとカリメを交互に見合ってしまった。
アルザスのほうは怒ったような呆れたような表情をし、カリメははあと溜め息をついて話していく。
「メリンダ様、このケーキは『ホワイエ』と呼ばれ、ここフェルテイ国では祝い事に使用されるケーキなので御座います」
「『ホワイエ』?」
「はい。『純白』を意味しておりまして、祝い事…まあ幼子の誕生祝で使われる事が大半ですが…
この様な特大のものは…その…婚礼の儀式で永遠の愛を誓った新郎新婦が結婚の神に捧げ、祝福を受けたものをお互い分けあい、強い絆で結ばれるようにと使用されるもので御座います」
「……は!?」
今、何て言ったの?
永遠の愛を誓った、新郎新婦が神に捧げ強い絆で結ばれるのに使う!?
アルザスと目があったメリンダは、そこでやっと二人の行動の意味を理解するのであった。
「ち、違うわよ!私はそんな意味でこれを持ってきた訳じゃないわっ!た、ただ単にクリーム沢山で美味しそうだったし、何より貴方の好みそうなものだったから選んだだけよっ!」
思い切り言い訳するメリンダの頬がかなり熱い。
「落ち着け、そんなに怒鳴らなくても解る」
対してアルザスのほうは納得したようなほっとしたような表情を浮かべて淡々と話す。
そんな彼の様子を見て、メリンダは先程の己の狼狽ぶりが恥ずかしくなって真っ赤になって俯いてしまった。
“そ、そうよね。彼ともあろう人が、私の勘違いを真に受ける筈が無いわよね。なのに私ったら、何をこんなに焦っているのっ!”
顔を背けながら、メリンダは必死で心落ち着かせようとしていた。
一方のアルザスは、何故か黙ったまま白のケーキをじっと見つめていた。
“『ホワイエ』か…久しぶりに見たな”
余りに沈黙が続いた為、不思議に思い顔をあげたメリンダが見た彼の表情…、
それは普段の冷静なものとは違い、何とも哀しげに満ちていて、その瞳は憂いを湛えたものだった。
「アルザス殿…」
――彼の脳裏に浮かぶのは過去の出来事、優しく微笑む母親に寄り添う幼い子供の姿。
穢れを知らない純粋で無邪気な子供は、母親の差し出す己の大好物な純白のケーキに極上の笑みを浮かべて喜ぶのだった。
『うわあ、まっしろなケーキだあ。ありがとうおかあさま!』
『お誕生日おめでとうアルザス』
まだ幼い彼に祝いの言葉をかけ、膝に抱きしめ頭を撫でて優しく微笑みかける母親の姿。
父親の居ない、たった二人だけの誕生会。
…母上と二人だけのささやかな幸せ、
いつまでも続くかと思った幸せは、あの日に全てが粉々に砕け散った…。
そして私は…。
「折角ですから、こちらのケーキ、お切り致しましょうか?」
過去に思いを馳せていたアルザスのもとに、突然カリメの声が響いた。
「そうだな…頼む」
“そうだ、それは最も幸せだった過去。そして最も忌まわしき過去…”
「畏まりました」
そう言ってケーキをワゴンに乗せると、カリメは一礼して部屋から出ていった。
「……」
部屋に残った二人は会話も無く、何となく気まずい雰囲気の中ただ黙ったままである。
“あのアルザス殿のこんな寂しげな表情、初めて見たわ。一体何があったのかしら?”
メリンダは不思議に思いながらも初めて見る、憂いを湛えた彼の姿に、暫しじっ…と見いってしまった。
「何だ、人の顔をじろじろ見て?」
余りに見いっていた為に、流石のアルザスも我に帰り、表情をいつもの無感情のものに変え冷たく言い放った。
「…っ!?」
見事に指摘され、だが本当のこと故に否定出来ず、慌てて視線を反らすことしか出来ないメリンダ。
“な、何をしてるの私ったら!?他の人の顔をじっと見つめるなんて”
すっかり普段の様子に戻ったアルザスを見て、メリンダは己の行動を恥じていた。
その時、丁度カリメが切り分けたケーキを持ってきたのを良いことに、メリンダは気を反らすように早速フォークを手にとり口に運んだ。
「美味しい」
ふわふわのクリームは彼女が想像していたより遥かに軽く口当たりも優しいのに、深みのある濃い味わいをしていて、スポンジは目が細かくふわりとしていて、中に挟んである赤ベリーの酸味とも実に良くあっていて、絶妙な味わいを醸し出していた。
「ふむ…これは確かに絶品だな」
同じくケーキを口にしたアルザスがそう呟いてきた。
それから二人してケーキに夢中になり暫く黙りこんでいたが、
「再度の贈り物、感謝する。このような美味なる菓子は本当に久しぶりだった」
ケーキを食し終えたアルザスはぽつりと、本当に聞こえるか聞こえないかの小さな穏やかな声で、メリンダにお礼を述べるのだった。
「いえ、別にそんなお礼など…貴方が気に入ってくれて何よりだわ」
“そうよ、私はただ彼にお礼を言わせたくて、私にひれ伏させたくて贈り物をしただけなのよ。だからこれは当然の事なのよ!”
だが今の表情こそ無感情だが穏やかな声をした彼の様子に、少し前に見せた憂いの表情を思い出し、微かに胸を痛めた。
“でも、あの表情は一体何だったのかしら…”
メリンダの胸の中にはアルザスのその表情がいつまでも残り、心に憂いの影を落とすのであった。
*
「何度も突然の訪問、ごめんなさいね」
玄関先まで来たメリンダは見送りに来てくれたカリメに優しくそう告げた。
アルザス本人は部屋に籠ってしまい姿は無い。
「いえ、こちらこそ…久しぶりに『ホワイエ』を見て昔を思い出しました」
「昔?」
「はい…」
そこまで言うと、カリメは何故かきょろきょろと辺りを伺い、更に続けるのだった。
「実は『ホワイエ』は昔から旦那様の一番御好きな菓子で御座いまして、幼い頃は毎年誕生日になると奥様が準備しておられたので御座います」
「そうだったの…」
「大人になってからは奥様を思い出されるのか、一度も要求される事も召し上がる事も無く、今の今まで見ることも御座いませんでした」
「……」
“もしかして、あのケーキを見てアルザス殿は亡き母親の事を思い出していたのかしら。だとしたら、ちょっと悪いことをしたかしら…”
そうは思いながらも何も言えないまま、メリンダは馬車へと乗り込むのであった。
「……」
“そういえば彼の御母様ってどんな御方なのかしら?
ティエリッタ様…フェルティ国でも特に五大高位貴族に名を連ねていた一族の一人娘、だけど公の場に出たことが無く、僅かにその姿を見た方は皆、彼女の事を儚げな美人と誉め称えているという。
何よりもあのアルザス殿に憂いの表情をさせる程の御方、さぞかし御子息に愛情深く接してこられたのね…羨ましいわ”
初めて彼の母親の事を意識したメリンダは、羨望や安堵、そして何故か嫉妬が入り交じったような、何とも複雑な気持ちになるのだった。
*
メリンダを乗せた馬車を見送りながら、カリメは何とも複雑な思いをするのだった。
“まさか、メリンダ様があのケーキを御持ちになられるとは…これも何かしら因縁があるのかしら…”
そしてふと部屋の奥、主人たるアルザスの部屋に視線を向けた。
一方、アルザスのほうは独り自室でソファーに腰掛けながら手にしていた小さな絵を見つめていた。
そこに描かれているのはひとりの女性…優しく微笑むその女性は白い肌に長いウェーブの銀の髪、顔立ちは女神の如く美しく瞳の色はサフィールの如き深い蒼をした、本当に美しい女性である。
そう、それは正にメリンダのものと全く同じ色彩であり、そして顔立ちも彼女とよく似ている人物だった。
「……」
“何故あの女があのケーキを『ホワイエ』を持ってきたのだ?
まさかこれも、因縁の成せる業だというのか?それとも…”
「母上…よもや母上があの女を使って私にあのケーキを持って来させたのですか?」
…母上と全く同じ色彩を持つあの女に!
「それならば…それはとても至福で、残酷な事です」
アルザスはぽつりとそう呟き、手にしていた絵の女性を…己の母親の肖像画を憂いに満ちた瞳で、いつまでも見つめているのであった。