第9章Ⅸ:祭のあと
――ドォーン、ドォーン!
フェルティ国の人々は各々の居る場所から…ある者は街の通りの真ん中で、またある者は店番をしている中から、はたまたある者は病床のベッドの上で、夜の闇空に乱舞する、祭の最後を締めくくる花火を眺めていた。
屋敷の自分の部屋で独り本を読んでいたサーシャは突然聞こえてきた花火の豪音と光に驚き、窓辺へと足を向けた。
「綺麗…」
空を彩る花火を見て、サーシャは無意識のうちに笑みがこぼれた。
“花火なんて、アクリウム国での祭で見て以来、久しぶりに見たわ”
先程までジーフェスの居ない寂しさに少し落ち込み気味だった彼女にとって、この花火はひとつの光になったのだった。
“今日までジーフェス様も祭の為のお仕事で忙しくてなかなか御相手出来なくて寂しかったけど…明日はジーフェス様と一緒に月を見にお出掛けの予定だし、楽しみだわ”
明日のことを思うと、サーシャは自然と表情がほころんでしまい、笑顔で夜空を彩る花火を見つめていたのだった。
*
「うわー!綺麗ねー!」
祭で賑わう通りの真っ只中にいた、派手な祭の衣装に身をつつんだエレーヌが隣にいた、やはり同じ様な格好をしたムントの手を引き、にこにこしながら空を見上げて叫んだ。
「おー、こりゃ凄ぇなぁー」
ムントもエレーヌに続いて空を見上げてほお、と感嘆の息をついた。
そしてちらりと自分の隣にいるエレーヌの横顔を見た。
極上の笑顔を浮かべながら花火を見る彼女の姿に、ムントは微かに胸を高鳴らせた。
“いつもは仕事場か自宅の部屋で独り見ていた花火だけど、今年はやっと俺にも彼女が出来て、二人で見ることが出来たな…”
「…来年も…」
「来年も一緒にこの花火が見れるといーね、ムント!」
にっこりと笑顔を向けられ、言いたかった言葉を先に言われてしまい、思わず目を丸くし絶句するムント。
「…駄目?」
驚き暫し黙り混んでしまった為か別の意味に勘違いされてしまい、エレーヌは不安げに尋ねてきた。
「い、いや、ちょっとびっくりしただけだよ…も、勿論だよ、来年も一緒に行こうな」
「うん♪」
ムントの言葉にエレーヌは嬉しそうに返事をすると、ぎゅっ、と彼の太い腕に抱きつくのだった。
「あ、サーシャ様とポーさんにお土産買う約束してたんだー、ねー今から買い物付き合ってー」
「はあ?!それ早よ言えよ!もうすぐ祭終わって店も閉まるぞ」
「ええっ!ヤバい早く行かないとっ!」
慌てて店の並ぶ通りに駆け出すエレーヌ。
「お、おいっ!」
そんなエレーヌを慌てて追いかけていくムント。
その表情は呆れ顔の中にも何処となく幸せに満ちた笑顔が隠れているのだった。
*
「やれやれ、一日中王宮で過ごすとは…今年は実に退屈な太陽祭だったな」
王宮内の私室でアルコールの入ったグラスを傾けていた男…カドゥースは深い溜め息をつきながら夜空を彩る花火を眺めていた。
「それが殿下として、時期国王としてあるまじき姿で御座います」
カドゥースの向かいにいた女…ニィチェがさも当然と言わんばかりの口調で目の前にいる夫に諭す。
「やれやれ、これは厳しいな」
冗談混じりに肩を竦める男の様子に、女はぴくりと眉間に皺を寄せた。
「何を仰有いますか、それよりもアルザス候の件は…」
そこまで言いかけた時、二人の前に突然ひとりの隠密とおぼしき男が現れた。
男はニィチェの姿を見て一瞬驚きの表情を見せ、そしてカドゥースのほうを見て何か請うような視線を送った。
「構わん、で、事はどうなったのだ?」
「は…宰相様を狙って曲者が現れましたが、全て駆逐されました」
「駆逐?抹殺ではないのか?」
「オルシーン殿の放った曲者は全て抹殺されましたが、主人たるオルシーン殿は未だ行方知れず。そして奴等を抹殺したのはデルトム殿率いる暗殺部隊で御座います」
「オルシーンか…あの馬鹿傀儡男はどうでも良いが、デルトムとはな、懐かしい名を聞く。
そうか奴等め、姿を見せぬと思ったら‘狂いし豹’と手を組んでいたのか」
‘狂いし豹’の名前を聞いた途端、傍らで聞いていたニィチェの表情がひきつった。
“‘狂いし豹’…アルザス候の暗殺に『狂信者』が関係していたというの!?
成る程、だから殿下は敢えてアルザス候にこの件の全てふった…”
今更ながら夫カドゥースの思惑を理解し、ニィチェは独り黙ったまま納得するのだった。
「で、デルトム達と‘狂いし豹’の一味はどうなった?ん?」
「それが、その…」
カドゥースの有無を言わせぬ問い掛けに、男は表情を強張らせ、やや躊躇いがちに話を続けるのであった…。
*
…祭の最後を飾る花火が打ち上がるほんの少し前の時分。
ここフェルティス聖堂は、昼間は祭の為の供物を捧げる人々で賑わっていたが、祭も終わりに近い今は手伝いの女や見習いの修道者くらいしか残っていなかった。
――どうだ首尾は?
――はい、聖堂周辺は我等軍と自衛団が囲っていて、鼠一匹逃げられません!
聖堂周辺の植え込みや裏を取り囲むように、国軍と自衛団が控え、各々ひそひそと打ち合わせている。
「それにしても先程からガルフジド司祭をはじめ『狂信者』達の姿が見えないが、よもや逃げられたのではあるまいな?」
「それは心配ありません。出入口は全て見張りをつけていましたが、彼等が出入りしていたとの報告はありません」
「そうか…突入の合図は伝えているだろうな?」
「はい…」
――ドォーン、ドォーン…!
突然、轟音が辺りに響き渡ったかと思うと、夜空に花火が大輪の花を咲かせ始めた。
「突入っ!!」
「「おおお――っ!!」」
花火の打ち上げを合図に、国軍の代表が高らかに突入の掛け声をあげると、周りに控えていた軍人に自衛団の面々が聖堂へと突入していった。
「な、何だ!」
「きゃああっ!」
「我等は国軍である!此処で『狂信者』が潜伏しているとの情報があったので調査させて貰うぞ!聖堂内に居る者は全て床に両手を付いてその場に待機するように!」
国軍のいきなりの突入に、聖堂内にいた人々は驚き、中には叫び狂う者も居たが、国軍の命ということもあって皆大人しく指示に従った。
だが軍らがいくら捜索しても中には司祭の姿も『狂信者』らしき姿も見つけられない。
「おい、ガルフジド司祭はおろか『狂信者』とおぼしき奴等も一人も居ないとはどういう事だ!おいお前、司祭達はどこに行った?」
軍人が聖堂に居たひとりの修道者を捕まえて尋問した。
「わ、わたくしは何も…司祭様は聖堂奥の部屋に向かったっきりで…」
「大変です!聖堂奥の司祭の部屋とおぼしき場所に隠し通路がありました!」
「何!?」
ひとりの軍人の声に、代表の者や他の軍人も奥の部屋に雪崩れ込む。
その部屋は数多の経典等で埋め尽くされ、足の踏み場も無いくらいであったが、壁の本棚の一部がぽっかりと穴が空いていて、暗闇に続く通路が広がっていた。
彼等が通路を歩いていくと、程無くして隠し部屋に到着し、皆が緊張した面持ちで一斉に突入したものの、そこには粗末な家財道具があるだけで人の姿は何処にも無かった。
「こんな場所に隠し部屋とは、奴等め…」
「こちらを見てください!」
ひとりの自衛団員が示した先には、更に奥へと続く隠し通路があった。
団員や軍等がその通路を進んでいくと、かなりの距離を歩いた後、小さな扉にたどり着いた。
ひとりが扉を開けると、そこは外に繋がっていて、辺りは鬱蒼とした木々が茂る林の中、遥か後方には先程来た聖堂の姿があった。
「ここは!?」
「聖堂の裏の林の中のようですね…」
「おい、地面を見てみろ!轍のようなものがあるぞ。見たところかなり新しいものだぞ」
ひとりが足下の地面を指しながらそう叫んだ。
確かにそこには馬車とおぼしき轍があり、一台ではなく数台のものが残されていた。
「ということは…奴等がここから逃げた!?」
「ぐ…っ…!?」
それの意味する所を察した軍人達は地団駄を踏んだり歯軋りをして悔しさを露にするのであった。
*
「…で、御座いまして、その、‘狂いし豹’にはまんまと逃げられてしまいました」
「……」
男の報告にカドゥースは暫し表情を硬くし黙ったままであったが、突然唇を歪め高々と笑いだした。
「これは一杯くわされたな!まんまとやられてしまったわ!」
「殿下…」
「まあ良い。今宵は年に一度の祭だ。その余興と思えば何ということでもない」
そして男に向かって下がれと言わんばかりについ、と首を傾け、手を振った。
その仕草の意味を理解した男は無言で一礼すると姿を消した。
「やれやれ、流石のアルザスも‘狂いし豹’を壊滅させるまでには至らぬ、か…」
残念そうな、だが何処かでは嬉しそうな嘲るような口振りで呟くとカドゥースはアルコールのグラスに口つけ中身を一気にあおった。
「エルシーン殿は如何されるのですか?あの者は前宰相ユリシーン殿の御子息にしてアルザス候に刃を向けし反逆者。そのままには出来ませぬが、かといって表だって処分すればユリシーン殿の名に傷がつきます。それは我が王家にとっても不都合…」
「それなら心配せずとも良い。我が手出しせずとも、奴自身が事故に遭ってくれるだろうさ。
恐らく‘致命的’な事故に、な」
「……」
にやりと不気味な笑みを浮かべる夫に、ニィチェは全てを察し、これ以上の口出しをする事は無かった。
「さて、祭の締めくくる儀式に行くとするか」
「ええ」
先に立ち上がったカドゥースに続いてニィチェも立ち上がり、二人並んで部屋から出ると民衆の待つバルコニーへと向かうのであった。
*
「奴等め、我等の姿が見えずに今頃慌てているだろうな」
「全くで御座います。あの愚かな国軍を出し抜く手腕、流石司祭様」
暗く鬱蒼とした林の中、数台の馬車が隊列を作って先を急ぐように走っていた。そのうちの一台の馬車に乗っていたひとりの男…ガルフジドは嘲笑を浮かべ満足げに呟き、信者の称賛に頷いた。
「あとはあの憎きアルザスめが殺られているのを願うだけだが…」
その時突然、司祭の前にひとりの男…デルトムが現れ司祭に恭しく頭を下げた。
「ガルフジド様、デルトム只今戻りました」
「御苦労。で、首尾はどうだ?」
突然の男の登場に全く動ずる様子も無く、淡々と告げるガルフジド。そんな司祭の様子にデルトムはぴくりと身体を震わせ、それでもぽつりと語りだした。
「それが…思わぬ邪魔が入りまして…」
「邪魔?では暗殺は失敗したというのか?」
「…はい」
デルトムの言葉に、今まで傲慢な笑みを浮かべていたガルフジドの表情がみるみるうちに嫌悪感に歪んだ。
「何奴が邪魔をしたのだ?貴様らが『闇陽』に劣るとは思えぬが…」
「は…あのエルシーンめが雇った『黒水』でございます」
「『黒水』だと。アクリウム国にとってもあの男の存在は目の上の瘤そのものの筈なのに、何故彼女らが我等の邪魔をした?」
「彼女達なりの、仕事に対する矜持そのもので御座います」
「……」
敢えて言葉を濁して答える男に、ガルフジドは歪んだ表情のまま暫し黙り混んでいたが、やがてふっと唇で笑みを作った。
「まあ良いわ。今回は見逃してやろう。だが、次回は赦さぬぞ」
“本来の目的であるあやつの暗殺は果たせなかったが、祭の供物のお陰で当座の資金は確保出来たし、欲深きは破滅への道…今回はこれでよしとしよう”
「有り難き御言葉。して、あの男は如何いたしましょうか?」
「あの男?ああ、あの傀儡か…本当に使えん奴だったな。放っておけ、我等がわざわざ手を下さずとも他の誰かが始末してくれるわ」
「は…」
司祭の言葉の裏を察した男はほっと安堵の息を洩らし、深々と一礼するのだった。
*
「御報告を、残念ながら宰相様の暗殺は失敗に終わったようです」
…ここは王宮の最奥の一室。豪華な造りの室内には様々な高級家具が並べられているが、特に際立つのは部屋の中央に置かれた豪華かつ大きなベッドであった。
そのベッドにはひとりの初老の男が眠っており、ベッドの傍らにはひとりの女と中年の軍人とおぼしき男が居た。
「やはりな、そもそも計画自体が無謀なものだったしな。上手くいくとは思わなかったが、『黒水』が手出ししてもあれを殺れなかったのか?」
椅子に座っていた女…王妃ルーリルアが不思議そうにそう問いかけた。
「は、どうやら『黒水』は宰相様の暗殺でなく、あの男の部下の護衛が任務であった様子。宰相様の暗殺を試みた部下らは皆デルトムの率いる暗殺団に殺られました」
王妃の問いに男…近衛兵団副団長タンビルは静かに答える。
「デルトムとは…かつて『闇陽』の首領であった、あのデルトムなのか?
確かかの者は先の『闇陽』の改変の折にあれによって粛清されたのではなかったのか?」
「いえ、宰相様は奴を粛清せずに追放するだけに留めたらしいです。
宰相様に追放された奴は恨みを抱き、復讐すべく同じ仲間を集め、やがて‘狂いし豹’の直属の暗殺部隊となって宰相様の生命を狙った模様です」
「‘狂いし豹’とな!?『狂信者』とデルトムが手を組んだと。王都に奴等が居るというのか!」
『狂信者』の名が出た途端にルーリルアに動揺が走る。
「はい。しかもエルシーン殿をそそのかし、宰相様の暗殺計画をたてたのも‘狂いし豹’の仕業で御座います」
「それは真実なのか?」
「はい」
タンビルの言葉に、ルーリルアは忌々しげにぎゅっと唇を噛んだ。
“‘狂いし豹’め…あの女とアルザスと共に我等フェルテイ王族に刃を向けし逆賊!”
そして少し落ち着きを取り戻し冷静になる。
“だが一方で、あ奴等はアルザスを反逆者とみなし粛清を試みておるとの事。逆賊とはいえ、あのデルトムまで配下に置ける程の組織。アルザスに敵対する者は数多いるが、今のあれに対抗出来るのはそう多くはない。だが‘狂いし豹’ならばあるいは…”
「それで‘狂いし豹’は今何処に潜んでおるのだ?」
「は、奴等はフェルティス聖堂に潜んでおりましたが、先程国軍や自衛団の追跡を逃れ、姿をくらましました。現在国境の警備を強化しておりますが、未だに見つかっておりませぬ」
タンビルの言葉にルーリルアは落胆とも安堵ともとれるため息をついた。
「まんまと逃げられたのか。そんな事では我が国最強の国軍の名が泣くぞ」
「仰有る通りで御座います」
そしてふと気になった事を口にした。
「そういえばあれは…あの阿呆官僚はどうした?」
「エルシーンですか、あれは行方知れずですが、今までの行動から見て恐らく高級娼婦街に居るかと…始末致しますか?」
「いや、それなら放っておいて構わぬ。恐らくあの者達が都合良く始末してくれるわ」
「は…」
「引き続き、あれの…アルザスの行動を監視するように」
「御意」
それだけ告げて王妃がついと手を振ると、タンビルは黙って一礼するとそのまま部屋を後にした。
「……アル、ザス」
突然奥から聞こえてきた微かな低い声に、独り部屋に居たルーリルアはびくりと身体を震わせた。
「陛下!」
ルーリルアは嬉しそうな、だが哀しみを湛えたような表情を浮かべベッドに駆け寄り眠っている痩せた男…ルードベル現国王を見つめた。
だがルードベルは以前と変わらず目を閉じ、眠ったままの姿であった。
「陛下、お目覚めで御座いますか、陛下?」
「……」
ルーリルアの問い掛けにも、ルードベルは最早何も答えずぴくりとも動かない。
「陛下…」
女は愛する夫の手を取り、自らの頬に擦りよせ軽く口づける。
“陛下は未だにティエリッタとアルザスの為に御心を痛めておられる。‘あれ’は陛下の所為ではなく、あの二人の所為だというのに!”
「陛下、陛下の苦しみの元凶であるあの二人…ティエリッタは既に亡く、アルザスもいずれはわたくしの手で必ずや葬ってみせます。
ですから今は陛下は御心穏やかにお休み下さいませ」
そう呟き、ルーリルアは男の手の甲にぽたりと一滴涙を溢し、暫し愛しむように男の傍らに居続けたのだった。
*
「んふふ…相変わらずそなたの身体は素晴らしいな」
「あら、最高の褒め言葉ですわ」
高級娼婦街の中でも最高級の一室では、ひとりの男と高級娼婦の女が広いベッドの上で睦み合っていた。
「ふふ…もうすぐだ、もうすぐわたしは政界で最高の権力を手に入れるのだ!そうなればそなたを身請けしていつでも楽しめるぞ!」
“今頃はわたしの部下があの忌々しいアルザス宰相を殺ってる筈だし。これで晴れてわたしが宰相の座に就けるのだ!”
都合の良い妄想だけを思い、今の状況を全く把握していない男、エルシーンは締まりの無い顔をして女を抱き寄せた。
「まあ…旦那様ったら今宵は上機嫌ですこと」
女はエルシーンのされるがままに彼の腕の中に抱かれていた。
“全くこの男は真性の馬鹿だわ。宰相様の暗殺計画の事を言ってるんでしょうけど、あの計画がそうそう上手くいく筈無いじゃない”
女がそう思っていると、部屋の扉を叩く音がした。
それは折角の享楽の雰囲気に水を差された形となり、男は不快感を露にし、女は何事かと扉に視線を向けた。
「誰?」
「失礼致します。マダム=ローゼス様からお客様に贈り物とのことです」
「御母様から?」
「はい、いつも高級娼婦街をお使いになられるエルシーン様へのお礼だとか」
女は返答を求めるように男を見る。すると男はしかめっ面から満足なものに変えて納得したように頷き、
「入れ。マダムからの贈り物、有り難く受け取るぞ」
傲慢で高飛車な態度でそう告げるのだった。
男の返答に扉がゆっくり開き、小姓の少女が高級な銘柄の酒瓶と二組のグラスを手に現れた。
少女は無言でそれを二人の側にあったテーブルに置くと、ちらりと女のほうに視線を送った。
女は少女の視線に何かを察し、黙って頷き返した。
「失礼致しました」
一言告げて深々と一礼した後、少女は静かに部屋を後にした。
「御母様ったらこんな高級なお酒を…余程旦那様をお気に入りの御様子ですこと」
そう呟きながら女は酒瓶の蓋を開け、中身をグラスに注いでいく。
「流石娼婦街の長、マダム=ローゼスだな。このわたしの素晴らしさに気付き、このような振る舞いをするとは」
“これでわたしも名実共にあの女に認められた訳だな”
すっかり上機嫌になった男は女の差し出されたグラスを手ににやりと笑い女に視線を向ける。
「わたし達の未来に乾杯」
「乾杯」
キン、とグラスが音を立てて鳴り、男は満足げにグラスの中身を一気に呷った。
グラスを手にしたまま男の行動を見ていた女はにやりと不気味に微笑むと、手付かずの自分のグラスを置いて酒瓶を手にし、空になった男のグラスに再び中身を注ぐのであった。
*
…一方、街の外れにあるこの屋敷では、祭の騒ぎなど全く無かったかのように相変わらずの静かな風景を保っていた。
月の明かりだけが綺麗にされた広大な庭を照らし、近くの噴水が湛える水音だけが辺りに響きわたっている。
そんな中、アルザスはひとり庭園に置かれた椅子に座り、周りの花々と空の月を仰ぎ見ながら目の前に置かれた紅茶に口つけた。
“今頃国軍らが聖堂を襲撃し始めた頃か。まあ恐らく奴等の事、既に軍の動きを見切って逃亡しているか。まあ良い、流石に今回は時間が無かったから私も対処が遅れたしな…”
先に屋敷内で起こった血腥い出来事は何者かによって全て消し去られ、以前と変わらぬ様子であった。
そんな中でアルザスはふとテーブルに置かれたあるものに視線を向けた。
それはひとつの金色の仮面、『白の道化師』役をやるのに使用した銀のものと対なる仮面であった。
暫しその仮面を見ていた彼はそれを手にし、何気無く自らの顔につけた。
“『白の道化師』、か…”
…脳裏に浮かぶそれは昔の記憶、まだ彼が幼い時の様々な記憶…。
目を閉じ、昔の事を思い巡らせる彼のもとに近付いてくる足音が聞こえる。
「今晩は『白の道化師』さん」
何者かが彼の直ぐ側まで近寄り、上から綺麗な澄んだ鈴のような声が落ちてきた。
「…何故そなたが此処にいる?」
“カリメめ、私の許可無く何人たりとも屋敷には入れるなと命じていたのに!”
姿を見ずとも声からその主を察し、アルザスは指ひとつ動かす事なく忌々しげに低くそう呟いた。
「貴方にお願いしたい事があって来たのよ。勿論ただでとは言わないわ」
「お願いだと?」
「ええ」
謎の申し出にアルザスが目の前の人物…長い銀の髪を揺らし立派なドレスを身に纏った女性、だがその顔には銀の仮面…先程までアルザスがつけていたそれをつけ、露になった赤い唇がにやりと笑みの形になっていた…を見て、その異様さに露骨に表情を歪めた。
「何だそれは、私に対する当て付け…!?」
――ドォーン、ドォーン!
その時、丁度祭りを締め括る花火が打ち上げられ、轟音と共に闇空を明るく染め上げた。
突然の出来事に二人とも話を止め、つい空を見上げて花火に見とれてしまった。
「まあ、とても綺麗ね。ほら、水面にも同じものが映っているわ」
女の言葉にアルザスが不精気味に視線を下に向けると、噴水の中に空にあがる花火と月の様子が映り、ゆらゆらと揺らめいて幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「で、何が目的だ?」
幻想的な風景に感動する事もなく、アルザスは仮面を外しながら目の前の女に問いただす。
「以前貴方が私にくれた紅茶と、あと香水が欲しいの」
同じく仮面を外しながら女…メリンダがにこやかに微笑みながら答える。
「香水だと?」
意外な要求に驚いたのか、珍しくやや上擦った返事をするのだった。
「ええ。あれ、意外にも周りの人達に好評で私も結構気に入って使っていたけど無くなってしまってね、代わりのものを専属の調香師に作らせたけど同じものが出来なくて困っているの」
「……」
「勿論ただでとは言わないわ。お礼はこれでどうかしら?」
そう言うとメリンダは手にしていた包みをテーブルに置いて広げだした。
包みの中には箱がふたつ入っていて、それぞれ横に並べて蓋を開けた。
途端、辺りにふわりと砂糖の焦げた感じの香りと果物の甘酸っぱい香りが漂いだした。
ひとつはキャラメルで被われたパウンドケーキで、もうひとつは一口大の赤い実を敷き詰めたタルトの詰め合わせであった。
二種類の菓子を見てアルザスは微かに表情を歪めたが、
「心配しないで、今回は『以前の』ものとは違うわ。
ケーキはチョコレートは使わず木の実とキャラメルを主としているし、タルトの果実はアルコール漬けではなく砂糖漬けのものを使っているから、貴方でも安心して食べられるわ」
「……」
「一流の菓子職人が作った特別注文の菓子二点、これと交換では駄目かしら?」
メリンダはにっこりと微笑んで相手の出方を待った。
暫し黙ったままのアルザスだったが、やがてふう、と深い溜め息をつくと近くに置いていたベルを鳴らした。
「御呼びでしょうか旦那様」
花火の轟音の中でも鈴の音を聞きつけたカリメが二人の前に現れ、深々と礼をする。
「私の部屋の机の上に置いてるものを持ってきてくれ。あと茶を入れてくれ、二人分な」
その言葉の意味するところを察したメリンダは勝ち誇ったようににやりと不敵な笑みを浮かべた。
「畏まりました」
そう告げるとカリメは先に出してあったお茶一式と、メリンダが持ってきた菓子をワゴンに乗せて屋敷へと下がっていった。
カリメの姿が見えなくなると、メリンダは満足げに笑みを浮かべたままアルザスの向かいの席に座った。
「まさか私の為にわざわざ用意してくれていたなんて、嬉しいわ」
「……」
ふふ、と嬉しそうに笑みを浮かべ自分を見つめるメリンダに対し、アルザスは視線も合わせず何一つ話そうともしない。
だがそんな彼の態度は、メリンダにとっては彼の考えがばればれで、それを察した彼女は却って可笑しくもなり嬉しくもなって、思わずくすくすと笑い声が洩れた。
「何が可笑しい」
少し不貞腐れたかのような口調で話すと、それだけでメリンダは愉しくなるのだった。
「別に。そういえば今日は貴方はお茶を入れないのかしら?」
彼女の言葉に、アルザスは益々表情を歪めた。
「今日のこの成りでは茶を入れるどころか歩くことすらおぼつかん。誰かさんの所為でな」
自ら座る椅子の傍らに置かれた杖に触れ、アルザスは憎々しげにメリンダを睨み付けそう呟く。
「あら、何かあったのかしら?暗殺者に生命でも狙われてそれを迎え討ったとか」
「……」
…この女狐が、何もかも知っているくせに!
思わずそう叫びそうになるのだが、カリメが新しいお茶を持ってきたのでぐっと耐えた。
新しいお茶と、メリンダが持ってきてくれた菓子を綺麗に盛り付けた皿をそれぞれの前に置き、最後に小さな小瓶と缶をアルザスに手渡すと、カリメは無言で一礼し静かに立ち去っていった。
「夜のお茶会というのも、なかなか粋なものね。空の花火と、何より貴方の庭の月の光に照らされた花々が何とも素晴らしいわ」
空に浮かぶ花火を見て、それから辺りを見回して彼に視線を移したメリンダが愉しそうに呟く。
「…空の花も良いが、やはり地の花の美しさには敵わぬものだ」
庭のことを賞賛された為か、少し機嫌を良くしたアルザスはメリンダとは目を合わせずに手にしていた小瓶と缶を彼女の前に差し出した。
「ありがとう」
彼女の感謝の言葉にも彼は無表情で無言で、目の前の菓子にフォークをたてるのであった。
そんな様子にメリンダは少し呆れながらも満足げに微笑みながら小瓶と缶を受け取り、自らも菓子にフォークをたてるのであった。
「ねーシロフ、あの御二人見ててどう思う?」
「…何がだ?」
…花火が打ち上がる屋敷の中、陰から各々の主人の護衛をしていたネメシスがシロフに話し掛けた。
「何だかんだ言ってるけどさあ、メリンダ様って、絶っ対、アルザス様の事を気にしてるわよねー」
「……」
「何よ、だんまりなの?」
「何を聞いてくるかと思えば…そんなつまらん事か。そんな事にうつつを抜かすとは、お前それでも『黒水』の長か!?」
「何よその言い方。私が御守りするべき主人の心配をして何が悪いの?」
“お前の場合は心配でなく興味本位だろうが”
シロフは敢えてその言葉を呑み込んだ。
“だが確かに最近の主人の様子は少し変わっている。何処と無く怒りっぽくなった…というか感情が露になってきたような”
メリンダと向かい合いお茶をする己の主人を見て、シロフは心落ち着かない。
“普段なら屋敷に来た客人は特別な者を除いて全て追い出される主人が、わざわざ香水やお茶を準備してまで迎え入れておられる…”
「見たところアルザス様も満更でもない風だし…もしかして、御二人って両想い!?」
「五月蝿い。少しは黙って仕事に集中しろ!」
ぎろりと怖い目付きで睨まれ、短剣が飛び出そうな勢いに流石のネメシスもびっくりした。
「うわ…どっちが五月蝿いのよ。ふん、くそ真面目な貴方に話を持ち掛けたのが間違いだったわ、じゃあね」
不機嫌につまらなそうに唇を尖らせて捨て台詞を言うと、シロフの前から姿を消した。
「……」
“あの御二人が両想い、馬鹿な!公の場ではその立場故に対立しておられるというのに!”
だが目の前に見える二人の様子は見た目は仲睦まじく見えるのであった。
“まさか、そんな事は…”