第8章Ⅵ:気持ちと身体の不均衡(前)
「…!?」
一瞬サーシャは目の前で何が起こったのか解らなかった。
気付いた時は横たわる自分の上に乗っていた筈のローヴィスの姿が、いつの間にか表れたジーフェスに掴まれ殴られて、部屋の壁に吹き飛ばされていた。
「……。」
“一体、何が起こったの?”
「痛、ってぇ…!おま、いきなり殴るなんて…!?」
殴られた頬を庇い、文句を言いながらよろよろ立ち上がるローヴィスに、更にジーフェスは近くまで詰めよっていき拳を振り上げた。
「うが…っ!」
何かが砕けるような鈍い音と呻き声がしたかと思うと、ローヴィスの身体は再び壁に叩きつけられていた。
「兄さん…、あれほどサーシャに手を出すなと言ってたのに…!」
ジーフェスは怒りの形相で兄であるローヴィスを見下ろし、怒りに震える手で彼の胸ぐらを掴むとそのまま強引に身体を持ち上げた。
「ぢ…、ぐ、ぐるじ…!?は、なせ…。」
首を絞められる形となったローヴィスは苦し紛れの掠れた声で助けを求める。
そんな様子を見たサーシャはやっと今の状況を理解したのだった。
「ローヴィス様…、ジーフェス様止めて下さい!」
彼女が慌ててベッドから起き上がり、二人のもとに駆け寄ろうとすると、更に二人の男女が現れた。
「ローヴィス様!?お前っ!」
女…この館を管理するマダム、は目の前の状況を見て一緒に来た男にそう叫び、男…館の表に居た屈強な見張り、のほうは一瞬動きを止めた後、マダムの命令に迷わずに二人のもとに駆け寄り、ローヴィスを掴んでいたジーフェスの手を強引に離して、素早く後ろ手の体勢にもっていった。
「いで…、離せ!何するんだ貴様!離しやがれっ!」
ジーフェスが毒づきながら背後の男の手を振り払おうと暴れるが、男は平然とした様子で空いたほうの腕で彼の首を締め上げていった。
「ぐ…っ、」
「ジーフェス様っ!」
形勢が逆転し、男に押さえ込まれたジーフェスは苦悶の表情を浮かべ、だが必死で何とか男の腕をほどこうとするのだが、かなりの怪力なのかびくともしない。
“やば、こいつ守人か!?高級娼婦街の、しかもローヴィス兄さんの館の守人を務める位だからかなりの腕前の筈。これは俺でも太刀打ち出来ない、かも…。”
「…主人の、ジャマする、ゼンブ、コロス…。」
男の無機質な声が、ジーフェスの耳に微かに聞こえてきた。
「ジーフェス様っ!止めてお願いっ!」
「…ぐ…、」
サーシャの叫びも虚しく、いよいよ息が出来なくなり意識を失おうとしたその時、
「げほげほっ…!ま、待て、そいつはオレの弟だ、殺すんじゃねえっ!さっさと手ぇ離せっ!」
「な…!?」
「!?」
突然のローヴィスの叫び声にマダムは驚きの表情を浮かべ、男は一瞬だが隙が出来た。
その瞬間を見逃す筈は無く、ジーフェスはありったけの力を込めて男の腕をほどき、転がるように床に倒れ込んだ。
「げほげほげほ…っ!!」
「ジーフェス様っ!」
床に倒れ激しく咳き込むジーフェスにサーシャが近付き、背中を擦って介抱していく。
「ローヴィス様、宜しいので御座いますか?あの者はローヴィス様を傷付けようとなさいましたが…。」
傍らで見ていたマダムが表情を曇らせながら主人であるローヴィスにそう尋ねてきた。
「けほ…、大丈夫だ。あれだけやればあいつも落ち着く筈だ。後はあいつと彼女の三人で話があるから、お前達は席を外してくれないか。」
ローヴィスの言葉にマダムと男は更に表情を歪め心配そうな顔付きをする。
「しかし…、」
「これは館の主人であるオレの命令だぞ!二人とも直ぐにここから出ていけ!」
マダムの様子が気に入らなかったのか、少し掠れてはいるが怒りの口調と凛とした態度のその様子は、どことなく上に立つ者、王族としての風格が漂っていた。
「…御意。お前、行くわよ。」
そんなローヴィスの様子に圧倒されたマダムはそう呟き、守人の男の肩を軽く叩き、出口に促した。
男も不満げな眼差しをジーフェスに向けはしたものの、黙ってそのままマダムの後について部屋を出ていった。
部屋に残された三人は暫くの間固まったように動かなかったが、やがてジーフェスが立ち上がりながら呟いた。
「兄さん…。」
憎しみの籠った瞳をローヴィスに向け、立ち上がり彼のもとに向かおうとしたジーフェスだったが、先程のダメージが残っているのか、ふらふらと身体を揺らして近くのソファーに倒れこんだ。
「ジーフェス様。無理なさらないで下さい。」
サーシャはそんな彼の傍まで駆け寄り、優しく介抱している。
「うは、無理するなジーフェス。この館の守人は相当強い。そんな奴に狙われて生命が在るお前は運が良いぜ。」
「誰の、せいだと思っているんですか…。」
未だに肩で息をしながら、ジーフェスは忌々しげにローヴィスを睨み付けて呟いた。
「まあまあ、そう怒るなよ。」
「自分の嫁さんに手を出されて、怒らない男が居ますかっ!げほげほ…っ!」
「ジーフェス様。」
興奮気味に叫んで咳き込むジーフェスにサーシャが介抱すると、彼はじろりと怒りの瞳でサーシャを睨み付けた。
「…サーシャもサーシャだ。あれほど兄さんには気をつけろと忠告していたのに、よりによって二人きりで出掛けるなんて…、」
「それは…、」
「おいおい、サーシャに八つ当たりはよせ。彼女は何も悪くないさ。今回は強引にオレが誘ったものだからな。」
険悪な雰囲気になりそうな二人の間にローヴィスが割り込んできた。
「おまけにこの館もサーシャには何も知らせないで騙して連れてきただけさ。
まあ、オレもお前がサーシャを追って来ると見込んでここに連れてきたんだけど、な。」
「…え?!」
「何、だと?!」
飄々と話すローヴィスの言葉に、二人は驚いたように視線を向けた。
「それは一体…、」
「さてと、邪魔者は消えるとしますか。」
だがその答えを聞く前に、ローヴィスはいつの間にか扉付近まで移動し、部屋を出ていこうとしていた。
「兄さん、」
「暫くこの部屋はお前達に貸しておくよ。誰にも邪魔されないようにしておくから、お互いちゃんと素直な気持ちで話しをしたりしろよ。ああ、勿論思う存分にセックスしても良いんだぜ。」
最後の言葉をにやにや厭らしい笑みを浮かべて話すローヴィスに、二人は頬を熱くしてしまうのだった。
「な…!?」
「何言ってるんだ兄さんっ!」
そんな二人の様子に、ローヴィスは更にけらけらと陽気に笑いながら、そのまま後ろ手で二人に手を振り、それ以上何も語らず部屋を出ていってしまった。
「……。」
二人きりになったジーフェスとサーシャは暫く黙ったまま、ただただその場に呆然としていた。
“兄さん、まさか俺をここに連れてきて、サーシャと二人きりにさせる為にわざと…、”
そんな考えがちらりと浮かんだジーフェスだった。
「ジーフェス、様。…お身体のほうは大丈夫ですか?」
そんな中、ふと自分を呼ぶサーシャの存在に気付き、視線をあわせた。
「ああ、もう大分良くなったよ。心配かけてすまなかったね。」
そう言ってふっと苦笑いを返すジーフェスとは対照的に、サーシャのほうは憂いを込めた暗い表情をして彼から視線を反らして俯いた。
「あの、…ご免なさい。ジーフェス様の言い付けを破ってローヴィス様と二人きりで出掛けてしまって…。」
か細い声でそう呟き、彼女はうなだれるように深々と頭を下げた。
「あ、いや、それはその…、俺もちょっと言い過ぎたから。…ごめん、さっきは強く言って怖がらせてしまって。」
慌ててジーフェスもまたサーシャに先程の行為を謝罪し、頭を下げた。
「そんな、ジーフェス様は何も悪くありません。お願いです、頭を上げて下さい。」
「いや、俺のほうこそ…、」
そう言い、頭を上げた彼の瞳に映ったサーシャの顔。
…どきん…。
少し怯えたような、微かに涙で潤んだ彼女の碧い瞳を見たジーフェスの心が乱れた。
「サーシャ…、」
“あの時、兄さんに押し倒されていた時の彼女の姿、乱れたドレスから見えていた、すらりとした脚が綺麗だった…、”
先程見た彼女のベッドでのあられもない姿と、今目の前に見える小さく細い、華奢な身体を見たジーフェスの身体が微かに熱を帯びてきた。
…俺は…、
『お前、本当はサーシャを抱き締めたくて仕方ないんだろう?』
『勿論存分にセックスしても良いんだぜ。』
ローヴィスの甘い誘惑の声が彼の脳裏に響いてくる…。
“俺は、サーシャを…、”
「ジーフェス様…?」
自分をじっと見つめるジーフェスのその視線の変化に、サーシャはどきりと胸を高鳴らせた。
…私は…、
『本当はさサーシャ、ジーフェスとセックスしたかったんだろう?こうやってちょっと強引にでも良いから抱かれたかったんだろう?』
『なら何故自分のほうからそう言わないのさ?自分を抱いて欲しいって。女のほうから誘うのは恥でも思っているの?そんなの恥でも何でも無いのにさ。』
サーシャの脳裏に、先程のローヴィスの言葉が響いてくる。
…私は、私は一体…!?
「ジーフェス、様…。」
“私は、私はジーフェス様に何を望んでいるの?私はジーフェス様に抱かれたいの?私は一体…、”
とくんとくんと更に動悸は激しくなり、そして身体が急に内側から熱くなっていった。
『…お互いちゃんと素直な気持ちで話しをしたりしろよ。』
そしてふとローヴィスの別の言葉を思い出した。
“話し合う…、そう、そうよ。私はジーフェス様と話し合いたいのよ!
セックス、いいえ交わりの儀式は以前ジーフェス様も仰有っていたように、まだ私達には早過ぎるわ。ゆっくり時間をかけてお互いに理解しあって、そして…、”
『…変に遠慮ばかりしてるから、オレみたいな男に横からかっ拐われるんだよ。』
…どきん…、
ローヴィス、様…。
“ああ、そうよ。あの時にローヴィス様が仰有っていた言葉、あれは全て本当の事だったわ。
他の男性と無理矢理‘交わりの儀式’をする位ならば、私はジーフェス様としたい。
それがたとえ、無理矢理だったとしても、ジーフェス様ならば私は…、私は受け入れられる!”
…とくんとくんとくん。
一層高く、サーシャの胸が高鳴る。
“男の方を受け入れる。そうしたら私はどうなるの?痛いの?苦しいの?
以前見た‘交わりの儀式’の女性の方は、男性と交わりを果たした時、始めのうちは激しく動揺されて泣いて叫んで、抵抗しておられたわ…。”
だが交わりの儀式の様子を思い出たサーシャはぞくり、と身体を震わせた。
“男の方と交わるというのは、あの様に苦しいものかしら?泣く程辛いものかしら?”
だが、その抵抗も始めだけで、後のほうになれば女性のほうは甘い喘ぎ声を洩らし、自ら男性を悦び受け入れていた…。
“そうよ、辛いのは始めだけなのよ。周りの侍女達も初めての交わりは最初に痛みと恐怖があるけど、後はとても気持ち良いものだと言っていたし…、
何も恐れる事など無いのよ!”
でも…、
それでも、サーシャの心には何故か恐怖心があった。それは未知の世界に初めて飛び込むような、そんな恐怖。
“でも、…でも怖い。あんな風に激しい痛みがあるなんて。もし交わりの儀式をしてしまったら、もしかしたら私、痛みの余りに壊れてしまう?そんな風にしたジーフェス様を憎んで嫌いになってしまう?
もしかしたら、もしかしたら私とジーフェス様の関係も変わってしまう!?”
「…嫌、それは…、」
「サーシャ?」
独り空想し、呟くサーシャに、ジーフェスは訳が解らずに不思議そうな表情を浮かべる。
“私、私はどうしたいの?ジーフェス様とどうなりたいの?
このまま、このままでいたらどうなるの?”
そんなサーシャの脳裏に、かつて娼婦街で体験した忌まわしい出来事が思い浮かんできた。
『…調教師に渡す前にちょっと味見でもしておくかな。』
自分を買ったとおぼしき中年の男が、厭らしい目付きで舐め回すようにサーシャの身体を見ている。
まるでそれだけで身体の中から暴かれているような感じがして、彼女の中に激しい不快感が襲ってくる。
「!?」
…そして、先程のローヴィスの行動。
本気でサーシャを無理矢理抱くつもりでは無かっただろうが、それでも身体を押さえつけられ、首筋にだが口つけられた。
その時の事を思い出すと、身体じゅうにぞわぞわと不快感がはしる。
「…あ…、」
“だけど、だけど嫌、ジーフェス様以外の男の人とそういうことになるなんて!?”
「…いや、嫌…。」
いつの間にかサーシャの瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちていった。
“ジーフェス様以外の男の人と、無理矢理に交わりの儀式を行う位ならば、それならば…!”
「サーシャ、どうしたんだいサーシャ!?」
俯き突然泣き出した彼女の姿に、ジーフェスはただただ驚き、動揺するばかりであった。
“そうよ、以前ジーフェス様から告白されて、同じような不安な気持ちになって…、
あの時はすぐに返事をせずに、いつまでもうやむやにしてしまったから私も、そして何よりもジーフェス様を深く傷付けてしまった。あの時のように何もしないで、何一つ出来ずに後で後悔する事になるなら、そんな事になる位ならいっそ…!”
突然サーシャは何かに突き動かされるようにジーフェスの胸の中に飛び込んでいった。
「サーシャ…!」
そしてぎゅっと彼の服を掴み、暫く黙ったまま身体を彼の広い胸の中にすり寄せていった。
「一体、どうしたんだい?」
突然の彼女の行動に驚きと不安を隠せず、ジーフェスは微かに震える声でそう尋ねた。
「…て、下さい。」
「え?」
「…いて、下さい。ジーフェス様、私を、…私を抱いて下さい。」
「…!?」
驚くジーフェスが見たサーシャの表情は、その瞳こそうっすら涙を浮かべてはいたが、真っ直ぐで真剣そのものだった。
*
…一方、
「…あーあ、あいつら今頃二人きりで何してるんだろうなぁー。」
とぼとぼと、街中から少し外れた人通りのまばらな通りを歩いていたローヴィスがぽつりと呟いた。
“全く、ジーフェスだけでなくてサーシャもじれったい態度しか出来ないからなあ。
まあ、あれだけ脅しておいたから、少しは二人の仲も進展するだろうけどな。”
そう思っていた彼の頬に、少し腫れたそこにずきんと痛みがはしった。
「…いちち…、」
“ジーフェスの奴、思い切り殴ってくれたな。今度逢った時はたっぷり仕返ししてやらなくちゃな。”
「あーあ、あの館は二人に貸してしまったし、今更ジーフェスの屋敷には戻れないし、今からどこに行こうかなあ…。」
“本当は館に女連れ込む予定だったからなあ。代わりに高級娼婦街に行って女遊びしたいとこだけど、そこまで遊べる程金が残ってないからなあ…。”
はあ、とため息をつき、痛む頬を押さえながら道を歩いていると、突然ローヴィスの目の前に一台の馬車が止まった。
「!?」
小さく、派手な装飾の全く無い、地味な色合いのその馬車にいた御者らしき老人は、じろりとローヴィスをひと睨みすると、無言のまま馬車から降り、扉を開けた。
「!?…あんたは…、」
馬車の中にいたひとりの人物を目にしたローヴィスは微かに驚き、それから忌々しそうに表情を歪め、その人物を睨み返したのだった。