第7章Ⅴ:アルザスの屋敷
メリンダを乗せた馬車は、ゆっくりと王都フェルティの街中を抜け、郊外の更に端、薄暗い林の中にある、目的地であるアルザスの屋敷へと向かっていた。
「…いかにも、あの人が住みそうな所ね。」
ぽつり、とメリンダは独りそう呟いた。
つい、勢いだったとはいえ、あの人に逢いに行くことになるとはね…。
“王族の血を引くとはいえ立場上から王宮には居られないで離れに住んでいるとは聞いていたけど…、ここまで辺鄙な場所とは思いもしなかったわ。
こんな林の中ならば、さぞかし狭くて地味な屋敷なんでしょうね。”
そんな事を思っていると、いきなり馬車の速度が落ちてゆき、やがてゆっくりと止まった。
「着きましたよメリンダ様。」
馭者であるタフタの声にはっ、となってメリンダは気を取り直した。
「あ、はい。ありがとう。」
馬車の扉が開いて、彼女は馭者に手を引かれて馬車から降り、辺りを見回した。
「…え!?」
メリンダの目の前に映った光景、
それは彼女の想像とは全く違ったものであった。
“な、何よこれ…!?”
*
…綺麗な硝子張りの広い温室の中には世界中から取り寄せられた様々な色や大きさ、種類の薔薇の花が咲き乱れ、辺り一面に各々の花独特の強い香りを放っていた。
久しぶりの休暇を取ったアルザスは、自らの屋敷奥にあるこの温室でお気に入りの花々を見て、大切に愛でるように指先で触れていた。
「今年も見事にこれだけの薔薇が咲いたものだな、これもそなたの細やかな手入れのお陰だ。」
「勿体無い御言葉。有り難き幸せ。」
アルザスは傍らにいた庭師の長フェラクに賛辞を述べ、ふっと満足げ笑みを浮かべ、白い花のひとつを手にした。
“久しぶりだな、旦那様がここまで御機嫌がよろしい様子は。”
フェラクはちらりと横目で主人の嬉しそうな様子を見て、自分も満足げに笑みを浮かべた。
「そういえばジーフェスの屋敷の庭の件はどうなっているのだ?」
「は、やっと庭師の確保も出来、資材の搬入も終わりましたので数日後には作業を始める段取りとなっております。」
「そうか…、」
“ジーフェスと違ってサーシャ殿は花や庭に非常に関心があるみたいだしな。これがきっかけであの屋敷ももう少し見れるものになると良いのだが…、”
アルザスがそんな風に思っていると、
「!?」
突然辺りの空気がぴん、と張りつめたものになり、何者かの気配を感じた。
…これは!?
と同時に二人の前にひとりの人物が現れた。
「アルザス様。」
その人物、シロフは両手に暗殺用の短剣を握り、緊張の面持ちで主人を庇うように近寄ってきた。
「ひ…っ!」
彼の姿を見たフェラクは突然の事に驚き、恐怖の余り声も出ずにその場に腰を抜かしてしまった。
「誰かフェラクを安全な場所に連れていけ。」
「はっ!」
アルザスのその声に、今度は別の若い男、…やはりシロフと同じ格好をした暗殺者とおぼしき男、が姿を現し、腰を抜かしていたフェラクの肩を抱えて素早く温室を後にした。
温室に残ったアルザスとシロフ、二人はこの中に満ちた異様な空気に緊張の糸を張り巡らせていた。
「出てこい、何故貴様がこんな場所に居るのだ?」
シロフの静かで、だが怒りに満ちた声が温室内に響き渡り、そして再びしん、とした静けさがやってきた。
と、何処からかくすくすと、若い女とおぼしき笑い声が聞こえてきた。
『あらら、すっかりばれていたんだー、あたしに気付くなんて、やっぱ『闇陽』のリーダーやるだけあるわねー。』
呑気な口調のその声を聞いたシロフはその表情を更に歪め、ぎりっと短剣を握り締め空に向かって叫んだ。
「出てこいネメシス、貴様、よりによって我が主人の屋敷まで来るとは、一体どういうつもりだ?」
シロフの怒りの声が辺りに響き渡り、再び静けさが戻った。
と、一瞬、ざわりと微かにだが二人の前に風が起こった。
「!?」
すると瞬く間に二人の目の前に、全身黒の衣装を纏った小柄な、まだあどけない面持ちを残した少女、ネメシスの姿が現れた。
「お久しぶりですねアルザス様。あれから一年ぶり、ですかね…。」
にっこりと、何の穢れも無い純粋な笑みを向けて、ネメシスはアルザスに向けて挨拶をしてゆっくりと頭を下げた。
「……。」
だがネメシスの挨拶にもアルザスは何も答えず、替わりにシロフが忌々しく口を開いた。
「貴様何しにここまで来たのだ?メリンダ様の護衛はどうした?」
彼女の見た目全くの丸腰の様子に、シロフも少し安心したのか剣を構えていた手をおろし、少々警戒心を緩めた。
「勿論メリンダ様の護衛はやっているわよ。ここにはちょっとメリンダ様より先に二人に挨拶しておこうかなー、って思って来ただけよ。」
「どういう事だ?」
ネメシスの呑気な口調に、アルザスは微かに表情を歪めて静かに問いただした。だが彼女はその質問には答えず、目の前の二人を交互にじろじろ見て、ふふ、と笑いだした。
「んー、シロフも格好良くて男前だけど、やっぱアルザス様のほうが群を抜いて美丈夫ねー。その容姿とかで、さぞかし数多の女を泣かせてきたんでしょうね。本当、これで宦官だなんて、勿体無さすぎー。」
「……。」
「貴様、我が主人に対し何たる無礼を…!」
ネメシスの的外れで余りに無礼な発言にシロフが怒りを露にし、彼女に襲いかかったが、難なくそれを躱していく。
「もー、シロフったら、自分が下位に見られたからってそんなに怒んないでよー。」
ぷうと頬を膨らませ抗議するネメシス。
「それとも、…ここであたしと勝負したいのかしら?」
にやりと残虐な笑みを浮かべ、ネメシスはすっと懐から投擲用の短剣を取りだし、攻撃の体制を取った。
「望むところだ。」
ネメシスの挑発にシロフも再び短剣を構え、彼女を睨みつけ再び戦闘状態になった。
「二人とも止めろ。私の屋敷内でこのような無様な騒ぎ、許さんぞ。」
だがアルザスの落ち着いた冷酷な一言に、二人は動きを止めた。
「アルザス様…。」
「……。」
シロフは主人の冷やかな視線に気付き、慌てて短剣を仕舞い彼の前に片膝を付き頭を下げた。
「軽率な行動、大変失礼致しました。」
頭を下げるシロフの姿に、相変わらず冷やかな視線を向けていたアルザスだったが、ふとその視線をネメシスのほうに向けた。
「あーあ、白けちゃった。見た目は本当に美丈夫なのに、中身はくそ真面目で面白味のない男…。」
ネメシスはアルザスと目を合わせるとひょいと肩をすくめ、やれやれといった表情を浮かべた。
「小娘、ここにメリンダ殿が来ているのか?」
アルザスは先程より低く、脅しを込めた声で彼女に問いかける。
「そうよ。メリンダ様ったら、本当つまんない用事の為だけにわざわざこんな辺鄙な所までお越しになったのよ。」
「つまんない、用事?」
「あーあ面白くないわ。シロフもすっかり大人しくなってしまったしね、あたしメリンダ様の護衛に戻るわ、じゃあねー。」
ひらひらとおどけた様に手を振ると、ネメシスはにやりと二人に対し不敵な笑みを浮かべてふっと姿を消した。
「!?…あの女…、」
“…我が主人に対しての数々の無礼、絶対に許さんぞ!”
ネメシスに散々馬鹿にされた挙げ句にあっさりと逃げられ、シロフは悔しさの余りぎりぎりと歯軋りをしながら、そう呟く。
「少しは落ち着けシロフ、あれ位の挑発に踊らされるな。お前がそんな風では『闇陽』の他の者に示しがつかんぞ。」
「!…、大変、失礼致しました。」
主人の尤もな一言にシロフは我に帰り、ただ己の行為を恥じ、頭を垂れるしか無かった。
「もう良い、下がれ。」
「はっ…。」
アルザスの一言にシロフは静かに返事し、風の如く素早くその姿を消した。
「……。」
“全く、あれも普段は落ち着きがあるのだが、あの小娘が絡むとああも動揺するとは、な…、困ったものだ。”
独りになったアルザスはふうとひとつ溜め息をついてそう思い、そして表情を微かに歪めた。
“それよりも、何故ジーフェスの屋敷に居る筈のあの女がここに居るのだ?
小娘の話だとつまらない用事とか言ってたが…、何だ?”
少し考えていたが、やがてひとつの事に思い当たった。
“よもや『あれ』を届けに来たとか?!
…ジーフェスの奴、自身が来れないのなら何故サーシャ殿でなくあの女に『あれ』を届けさせたのだ、あの馬鹿が!”
忌々しい表情を浮かべ、ぎりぎりと歯軋りをした後、アルザスは早足で温室を出ていき、不機嫌なまま屋敷のほうへと向かっていった。
*
「……。」
目の前に広がるその景色に、メリンダは暫し言葉が無く、ただただ目を見開き凝視するだけであった。
屋敷自身は確かに彼女の想像していた通り、こぢんまりとしていて壁に蔦が生い茂った、昔ながらの建築様式の、彼の立場から見れば実に、実に地味で質素な建物であったが…、
だが、その屋敷を囲むその庭の広大さと見事さは圧巻であった。
屋敷の何十倍もありそうな広さの庭には、大きな白の噴水を中心に色とりどりの季節の花々が見事に咲き乱れ、芝生は緑に輝き綺麗に刈られ、周りを囲む木々も綺麗に切り揃えられたその様子は、正に地上の楽園をも想像させるものであった。
こぢんまりとした屋敷の裏手には、硝子張りの温室とおぼしき建物がいくつか並び、その遥か先のほうには何やら畑のようなものまで見えるのだった。
“ここ、…本当にあのアルザスの屋敷なの…!”
「いやー、いつ見ても綺麗な庭ですねー。」
ふと、そばにいたタフタが感心したように呟いた。
「あなた、何回もここに来たことがあるの?」
「ええ、お屋敷には入ったことはありませんが、サーシャ様がこの庭が大変お気に入りで、庭を見る為だけに時々いらっしゃってますよ。」
その一言を聞いて、メリンダが改めて付近の庭を見回すと、確かにここの庭園はアクリウム国の、かつてサーシャが住んでいた離宮にあった庭園と雰囲気がよく似ていた。
「……。」
そんな庭園を見ていたメリンダは、ふと昔のことを思い出していた…。
『…あねさま、あねさま!』
狭いながらも花いっぱいの庭園の中を駆けてくる、まだ幼い姿のサーシャ。
『どうしたのサーシャ?』
『あのねあねさま、アルテリアあにさまがそろそろおべんきょうをはじめましょうか、って。』
急いで走ってきたらしく、息を弾ませ、嬉しそうにそう話すサーシャ。
『まあ、もうそんな時間なのね。』
『うん!』
にこにこと笑いあう、まだ幼いメリンダとサーシャの姉妹、
『メリンダ様、サーシャ様もこちらにいらしたのですね…。』
…遠くから現れた、とても背の高い若い大人の男性、
白い肌に銀の髪、緋の瞳といった変異種特有の姿のその人は、とても温かくて優しい微笑みで幼い二人を見つめていた。
『あ、アルテリアあにさま!』
『アルテリア兄様…。』
『さあさ、お休みはそこまでにして、お勉強の続きを致しましょうか?』
『『はい!』』
元気よく返事する二人に、暖かな日だまりのような優しい微笑みを浮かべるアルテリア。
“…優しいアルテリア兄様、まるで本当の兄様のようで、特にサーシャは兄様が大好きで何かにつけていつも傍にいたっけ…。”
昔の思い出に浸っていたメリンダに、突然ぶわっ、と強烈な風が吹き抜けた。
「…っ!」
長い銀の髪がなびき、一瞬目が眩んでしまい反射的に顔を伏せてしまったメリンダ。
そして風も落ち着き、顔を上げた彼女の瞳に映ったひとりの人影…、
「な…!?」
それはひとりの若い男性、背が高くすらりとした体格、白い肌に風になびく白銀の髪、そして緋色の瞳…、
かつて彼女とサーシャの傍にいて見守ってくれていた、優しい人と同じ変異種の容姿。
“そんな…、どうしてここにあの人が…!”
『メリンダ様、ここに居らしたのですね…。』
…アルテリア兄様…!?
「メリンダ殿、何故貴女がこんな所に居るのか、訳を聞かせて頂きましょうか?」
次の瞬間、メリンダの耳に想像していた優しい声とは真逆の、低く冷たく冷酷な声が届いた。
「!?」
その声にはっと我に帰った彼女が目にしたその声の主の姿、
…すらりと背が高く、白い肌に短めの白銀の髪を風になびかせ、端整な顔立ちのその男性は、だがその緋色の瞳は恐ろしく冷たく、怒りの込めた光でメリンダを睨み付けるように見つめていた。
「…アルザス殿…。」
…それは彼女が目的としていた人物そのひとであった。