第7章Ⅲ:傲慢の仮面
…夜もすっかり更けた時分、人の気配の無い鬱蒼とした木々の間を走る一台の馬車があった。
焦げ茶の馬がひくその馬車はくすんだ色の材で造られた古典的なデザインの小さなもので、ぱっと見た感じは貧相な感じにも見受けられるものであった。
だが解る者から見れば、それがいかに稀少で値が付けられない程に価値のあるものかと驚くものなのであった。
馬車は鬱蒼とした林を抜けると、その先には先程とは違って開けた地が続き、その中にそびえるほんの小さな屋敷へと向かっていった。
屋敷の前に馬車が止まると、小柄な老人の馭者は馬車から降りて扉を開き、主を出迎えた。
「……。」
主であるアルザスは黙ったまま馬車から降りると、馭者を先に屋敷の玄関へと向かっていった。
馭者が玄関の扉を開けると、そこにはメイド姿の痩せた老女が独り、二人を出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ旦那様。」
「ん…、カリメ、マートルは未だ居るか?」
一礼して自分を出迎え濡れた布を渡した老女、カリメに向かいアルザスは手を拭きながらそう尋ねてきた。
「マートルですか?彼なら台所に居ますが。」
「そうか。」
それだけ言うと、アルザスは布をカリメに戻し、真っ直ぐにダイニングへと向かって直ぐ隣にある台所に入っていった。
台所では何やら食事の仕込みをしている風の小肥りの男がひとり居て、アルザスはその男の背後に近付いていった。
男はアルザスが近付いてくるのにも全く気付く様子は無く仕込みに夢中になっていて、彼は男の直ぐ間際まで近付くと、いきなり床をどんどんっ!と足で踏み鳴らした。
「!?」
床の衝撃にびっくりしたように男が振り向き、そこで初めて男、マートルは主人のアルザスの存在に気付いた。
「あー、あーあー…。」
白い服を纏った、屋敷の料理人であるマートルはいきなり現れた主人にびっくりしてしまい、何やら手を動かして口をきこうとするが思うように声が出ない。
というより、この男は口がきけないし耳も聴こえないのだ。
するとアルザスは黙ったままマートルの目の前で指を巧みに動かし始め、手話を始めた。
「……。」
「あー、…あーあー。」
マートルも頷きながら指を動かし、お互い手話で会話をしていく。
「……。」
会話の内容を理解したのか、マートルはにこっと笑ってこくこく頷くと、竈に火を起こし始めた。
その様子にアルザスも満足して台所から出ていき、ダイニングに向かっていった。
「旦那様、一体マートルと何をお話されたのですか?」
ダイニングから二人の様子を見ていたカリメは、何となくその内容を察してしまい、少し表情を歪めながら主人に問い掛けた。
「……。」
しかしアルザスはその問いに答えず黙ったまま席に座ると、程無くしてマートルがにこにこしながらサンドイッチや野菜スープ等の軽食と紅茶を載せたトレーを運んできてテーブルの上に置いていった。
「…旦那様、確か本日は王宮で晩餐会だった筈では…。」
自分の予想が当たってしまい、表情を歪めたまま思わず口に出してしまったカリメに対し、
「あんな場での食事など、食べた内には入らん。」
アルザスは少し苛立ったように、半ば開き直ったようにそうぼやくと、目の前に並べられた食事に手をつけ始めた。
「……。」
その様子に、カリメは呆れたように諦めたように深くため息をついた。
“全く、相変わらずなんですから旦那様は。
いくら若いとはいえ、そこまで食したらいつか身体を壊しそうで恐ろしいのですけど…。”
そうは思いつつも、主人に忠実なカリメには口に出せないのであった。
*
翌日の午前、
王宮の一室であるそこでは小さくとも豪華な造りの机があり、傍にある椅子に向かい合うように座るアルザスとメリンダの姿があった。
二人の周りにはそれぞれの宰相補佐官、大臣等が控え、二人の調印の様子を見守っていた。
「……。」
やがて二人がお互いの書類に刻印し終えると、その様子を見ていた周りの者達は納得したように頷いた。
それを確認したアルザスとメリンダはお互いに調印した書類を相手に手渡した。
「このような良き取引、感謝致しますわ。」
「…こちらこそ。」
二人は椅子から立ち上がってお互いに親しみの握手を交わした。
その様子に周りの人々はほっと安堵の溜め息を漏らしたのだった。
「では、私はこれで。
友好的な調印に感謝致しますわ。」
メリンダがにっこり微笑むが、アルザスのほうは愛想も何もない無表情であった。
「いえ、そういえばメリンダ殿は今からジーフェスの屋敷へ訪問されると伺いましたが、」
「ええ、妹のサーシャと一緒に過ごす為にですね。
昨日少しだけ顔見せに伺いましたけど、ジーフェス殿は本当に頼もしくてお優しい方のようでして、私も安心して大切な妹を預けられますわ。」
…同じ兄弟なのに、貴方とは本当に真逆なのね。
彼女の悪意の視線がそう言っているような気がして、アルザスは胸の中に不快感が広がっていった。
「それは有り難き事。こちらもアクリウム国からの大切な王族のひとりを預かる身、信頼して頂けて何よりです。
サーシャ殿も王族の誇りに満ちた、だが実に可愛くて愛らしい御方だ。」
…美しくとも氷の薔薇の如く冷たい棘をもつ貴女とは本当に大違いだがな。
メリンダもまた彼の悪意の視線にそう言われているような気がして、にこやかな表情とは裏腹に瞳に憎しみの光を見せていた。
「この国には何時まで滞在の予定でしょうか?」
さして知りたい訳でも無かったが、つい口に出てしまった。
「この国の出発は明後日の早朝の予定です。それまでジーフェス殿の屋敷でサーシャとゆっくり過ごす予定ですわ。」
「そうですか…。」
それ以上は会話も進まず、暫し沈黙が続いていたが、
「では私はこれで…、また御逢いする時まで、ごきげんよう。」
にっこりと笑みを浮かべ、だがその瞳は冷たい光を見せたままメリンダは淑女の礼をしてから補佐官等と共に部屋を後にした。
「……。」
彼女が立ち去る際にふわりと漂った強い香水の香りがアルザスの鼻に妙な不快感を残した。
“このきつい香り、リュスカスの花か…、花言葉は確か、『傲慢』…。”
そんな事を思いながら、アルザスはその表情に益々不快感を露にするのであった。
*
廊下を歩き、部屋に戻ろうとしていたメリンダ達。
“ああ、やっとこれで面倒で退屈な仕事が終わったわ。これでやっと久しぶりにサーシャと一緒に過ごせるのね!”
嬉しい気持ちを抑えられずに少し浮かれたように歩いていると、
『ガターン!』
何かがひっくり返ったような音がしたかと思うと、
「何しているんだこの下女!」
という男の怒鳴り声がメリンダの耳に聞こえてきた。
見れば廊下の先のほうで、ひとりの侍女らしき若い女性が軍人とおぼしき、こちらも若い男性に睨まれていた。
「も、申し訳ございません。直ぐに片付けます…、」
男の前で床に伏している侍女は恐ろしさの余り、震えながら細い声で謝罪するだけしか出来ないようだ。
「申し訳ございませんじゃ無いだろう!お前のせいで俺の服が濡れてしまったじゃないか!どうしてくれる!」
男は怒り狂ってひっくり返った木桶を蹴飛ばし、濡れた足下を示しながら侍女に容赦無く責め立てていく。
「本当に申し訳ございませんでした。あの、貴方様の洋服は直ぐに洗濯して乾かしますから…、」
「うるさい!汚い手で触るなこの女っ!」
男が伏している女を蹴飛ばそうとしたその時、
「御待ちなさい!」
男の余りの暴虐ぶりに、堪らずメリンダはそう叫び、二人の側まで近寄っていった。
「「…!」」
突然現れた彼女の姿に二人とも驚き、そしてその凛とした態度と美しさに言葉を無くし暫し見とれてしまっていた。
特に男のほうは鼻の下を伸ばすような惚けぶりであった。
「何の抵抗もせずに謝罪する女性を嬲る姿、この国を護るべき軍人として実に見苦しい限りですわ。」
「あ…、それは、その…。」
男は目の前のメリンダの堂々とした、だが自分を見つめる怒りに満ちた瞳に対して、先程までの威勢は何処へやら、すっかり怯えきっていた。
そして男は罰が悪そうに、逃げるようにその場から立ち去ってしまった。
「全く、平民を護るべき軍人の風上にも置けない男ですわね…。」
逃げる男の背中を見ながらメリンダは溜め息をついてぽつりとそう呟いた。
「貴女、怪我はありませんか?」
未だ呆然として自分を見ている侍女に彼女は優しく問いかけた。
「あ、だ、大丈夫です。ほ、本当にありがとうございましたっ!」
慌てたように、それこそ床に口づける位に地に伏して感謝を述べる女性にメリンダはふふ、と微笑んだ。
「これ位、上の立場として当然の事ですわ。さあさあ、もう顔を上げて早くこの場を綺麗にして下さいね。」
そう言われて侍女ははっ、と顔を上げて辺りを見回した。
「は、はいっ!今すぐっ!」
そして転がった木桶を拾い、雑巾を手にして慌てて濡れた床を拭き始めた。
そんな侍女の様子を見て、安心したようににっこり笑うとメリンダは再びゆっくり歩きだすのだった。
「……。」
そんな彼女らの様子を見ていた人物の事に気付く事無く。
*
昼過ぎになって、やっとジーフェスの屋敷に着いたメリンダはジーフェスやサーシャから熱烈な歓迎で出迎えられた。
「姉様っ!」
特にサーシャは昨日逢ったばかりというのに、本当に嬉しそうに彼女に抱きついて離れない有り様。
「ようこそ。何も有りませんが是非ゆっくりして下さい。」
「ありがとう。これから二日間よろしくお願いいたしますね。」
メリンダもにっこりしながらサーシャを抱きしめ、ジーフェスに挨拶を交わすのであった。
屋敷に案内されるなり、サーシャとメリンダは客間でお茶が出たのも忘れてお互い様々な会話に夢中になってしまい、それは夕食の直前まで続いたものだから流石のジーフェスもこれには呆れ果ててしまった。
「メリンダ殿、サーシャも話はそこまでにして食事に致しましょう。」
ジーフェスの言葉に二人してはっとなって、やっと既に夜が来たことに気付いた位だった。
「まあ…、もうこんな時間になっていたのね!」
「本当、私達お茶も飲まないでずっと話していたのね。お腹空いたわ。」
メリンダとサーシャ、二人してお互い顔を見合わせてくすくす笑いだした。
三人でダイニングに向かい、そこで魚料理を中心としたフェルティ国特有の様々なご馳走を堪能したのだった。
「ああ、やはりフェルティ国は海に面しているためか魚が本当に美味しいかったわ。それに何よりも料理人の腕も素晴らしいですこと。」
食後の紅茶とデザートを食していたメリンダは満足したようにダイニングに挨拶に来ていたハックに賛辞を述べた。
「このような美しい御方にご満足して頂き、このハック、至福の思いで御座います。」
メリンダの賛辞にハックも嬉しそうに笑いながら彼女に対して頭を垂れた。
気のせいか、笑顔が妙ににやけている感じがしてるが…、
「あーハックさん、こんな美人さんを前に何鼻の下を伸ばしてでれでれしてるんですかぁー?」
傍らで見ていたエレーヌがそれを察して相変わらずの調子で余計な口出しをしてきた。
「これ、エレーヌ。」
「な!?エレーヌ、何言ってるんだっ、違うぞ!」
ハックは大声で否定するものの、明らかにばればれである。
「あーあ、さっきはタフタさんもメリンダ様に見とれてしまって危うく馬舎の鍵を閉め忘れそうになってたしねー、本当、男って皆美人に弱いのよねー。」
そしてちらりとジーフェスのほうを見た。
「…何だエレーヌ?」
「いーえー、何でもありませーん。」
そんな様子にメリンダはくすくすと可笑しそうに笑っていた。
「ジーフェス殿は大丈夫ですわ、サーシャ一筋みたいですし。サーシャもジーフェス殿に一筋みたいだし。見ているこっちが本当に呆れる程に、ね。」
「え…!?あ、その、あの…、」
「あ、姉様…!」
いきなり話を振られて、何と返事して良いか解らずにまごまごしてしまうジーフェスとサーシャ。
「まあ…。」
その様子が可笑しくてますます笑いがこみ上げてきて終いには声を出して笑う程になってしまった。
「あ、あの、そこまで笑うことなのですか…、」
「姉様、そんなにからかわないで下さいよ。」
二人して赤くなってメリンダに一言いってしまった。
「ああ、可笑しいこと。こんなに笑ったのは久しぶりだわ。
本当にここに来て良かった。サーシャの幸せそうな姿も見れたし…、」
「姉様…。」
「そういえばメリンダ様には良き方はいらっしゃらないんですかぁ?そこまで美人でしたら引く手数多で御座いましょう?」
「これエレーヌ!客人に対して失礼ですわよ!」
エレーヌの余りの無礼な質問に、流石のポーがつい怒鳴ってしまった。
だがぶしつけな質問にも嫌な顔をせず、メリンダはほほ、と軽く笑ってさらりと答えるのであった。
「私には大切な仕事がありますからそのような御方と付き合う暇など有りませんし、何よりこの私に釣り合う程の男性は、そうそう滅多に居ませんことよ。」
「……。」
「……は、あ…、」
メリンダの、傲慢にも見える堂々としたその口振りに、流石のエレーヌもこれ以上何も言えなくなり、他の皆も言葉を失ってしまった。
「それに…、アクリウム国の王族は皆『神託』によってその伴侶が決められるものなのです。現にジーフェス殿とサーシャの結婚も我が国の大巫女様の『神託』に従った結果。
ですからいくら私に良き御方が居ようとも、その御方が私の伴侶となれる訳ではありませんの。」
ふふ、と軽く笑ってメリンダは紅茶に口つけた。
「はあ、そうなのですかぁ。何かちょっと束縛されていて嫌なものなのですねー。」
「でもアクリウム国で無くても、大抵の国に於いて王族の婚礼は多少なりとも国同士の政略が絡むものですわ。
『神託』によって伴侶が決められる事とそう大差ありませんことよ。」
「はあ…。」
“確かにそうだな。
俺とサーシャの結婚も、もともとはアクリウム国の『神託』に導くままにしたものだったしな。”
そしてふと思った。
“俺とサーシャはそれでも上手くいったから良かったのだが、メリンダ殿は一体どうなるのだろうか?
彼女の事だしな。結婚でさえ仕事上の延長としてしか見ないのかもしれない…。”
落ち着いた雰囲気でお茶を飲むメリンダの姿を見て、ジーフェスは少し複雑な気持ちになるのであった。
*
食事の後、暫く三人で会話を楽しんだ後に湯に案内されたメリンダ、
「メリンダ様、何かお手伝いは必要でしょうか?」
「いえ、ひとりで大丈夫ですわ。」
ポーの問いかけにメリンダは優しく断りを入れた。
「了解致しました。ではごゆっくりどうぞ。」
部屋を離れていくポーを見送ってから、彼女はドレスを脱ぎ出した。
全裸になった彼女はふと傍らにあった姿見に映る自身の身体を見ていた。
「……。」
『メリンダ様が宰相ですと?!まだ18歳だというのに!』
『女王陛下は何をお考えなのか、まだまだ未熟なあの御方を宰相になどとは…、』
『どうせあの身体を使って手に入れた地位だろう。何せ噂では前宰相様の補佐をしていた時も他国の宰相や大臣に身体で交渉していたらしいからな…。』
『身体で交渉とはな、まさに娼婦と同じだな。大国アクリウムも娼婦を宰相にするとは、全く地に堕ちたものだ…。』
“…誰も解っていない。皆私の見た目だけしか見ないで好き勝手に言いたい放題だし。
私がいくら実力で交渉事を成功させても、他国はおろか、自国の大臣達さえ皆私の力を信用してくれない…。”
メリンダは周りから己に言われている言葉の数々を思い出し、怒りと悔しさに滑らかな自身の白い両の肩に爪を立てるのであった。
“こんな身体、周りの皆が美の女神と褒め称えるこんな身体なんか、このせいで皆が本当の私を見てくれないのならば…!”
そしてきゅっと唇を噛み締め俯き、その場に屈み込んでしまったのだった。