第6章ⅩⅡ:信じる心と繋がる心(前)
『…フェス、ジーフェス。』
…誰だ、俺を呼ぶのは?
『ジーフェス、仕事だ。』
『……。』
…あれは、俺?
昔、まだ‘闇陽’にいた頃の俺か?
そして俺を呼んだのは、首領か…。
『次の標的は…という大臣だ。何でも陛下の御意見に口出ししたということで危険人物とみなされたらしい。』
『…で、どうやって殺るんだい?』
『前に使ったものと同じ薬で構わない。いつ出来上がる?』
『…材料は揃っているから、半日で出来るさ。』
…どうせ断っても、別の奴が殺るだけなんだ。
それならばいっそ、俺の手で苦しまずに眠るようにして殺ったほうがましだしな…。
『頼むぞ。お前の技術のお陰でこの‘闇陽’の暗殺率も飛躍的に向上した。
正にジーフェス様々だな。』
…違う、違う!
俺は人を殺す為にこの技術を身に付けた訳では無い!
俺は人を殺す、暗殺者になりたかった訳では、無い…っ!
…俺は、俺は…!!
*
「……。」
ふとジーフェスは目を醒ました。
“今のは、夢?
いや違う。あれは、紛れもなく、俺の過去の姿…。”
ジーフェスが虚ろな瞳で辺りを見回すと、そこは屋敷の彼の自室で、辺りには何本もの酒の空瓶やら食事の残骸が散らかっていて異臭を放ち、家具はがたがたに乱れ散らかり、自身はシーツの乱れきった新しい大きなベッドに寄り掛かるようにして座り込んで眠っていた。
「……。」
汚れきって静まりかえっている部屋の様子を見て、彼は独り、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「…独り、か…。」
あの日以来、サーシャをはじめとして使用人の誰もが、エレーヌが食事を持ってくる以外はこの部屋を訪れることが無かった。
“サーシャ殿はおろか、ポーやタフタ、ハック、エレーヌまでここに来ないとはな…、まあ、エレーヌは以前睨みをきかせてしまったから仕方も無いがな。
所詮俺は血にまみれた暗殺者、最早誰にも受け入れられない存在なんだな…。”
「は、ははは…。」
自嘲に満ちた乾いた笑いが、唇から漏れだした。
“何を期待しているんだ俺は。何を…!”
ふとジーフェスの脳裏に、サーシャの優しい微笑みの姿が浮かんできた。
『…優しい瞳をした貴方様が、極悪人とか殺人者とはとても思えません。本当の貴方様はとてもお優しい方だと私は感じました。』
“あの時のサーシャ殿の言葉に、迷いは全く無かったと思っていた。だけど…、”
あの時、俺の過去の話を聞いた後の彼女の表情…、
それは、正に怖いものを目の当たりにした、恐怖に怯えた瞳…。
「…っ!」
そして、差し伸べた俺の手を、まるで醜いものかのように嫌悪感を浮かべて振り払った。
“話さなければ良かった!サーシャ殿をこんなに怯えさせる位ならば、
こんな思いをする位なら、こんな、苦しく悲しい思いをする位なら…!”
「…サーシャ…、」
“貴女が、好きだから、好きになったから、信じたかった…。
全てを話しても、それでも俺を受け入れてくれると信じたかった。
なのに、貴女は、貴女は…!”
ジーフェスは唇を噛み締め両の拳を握り締めた。
その綺麗な翠の瞳からは、いつの間にか一筋の涙が零れていた。
“こんな苦しく悲しい思いをする位ならば何も感情など感じない、いっそのこと心の無い化物にでもなってしまったほうが楽だ…。”
思いを受け入れられなかった悲しさに、見捨てられた虚しさに、彼の心は次第に悲しみから怒りと憎悪の色に染まっていった。
「…憎い、俺を、こんな風にしてしまったサーシャ、貴女が、憎い…!」
ぎりぎりと歯軋りをし、拳を強く握り締め、その翠の瞳を悲しみから憎しみの色に染め上げ、ジーフェスはただひとつの思いを、憎しみの思いだけを抱いて、涙を流しながら天井を仰ぎ見ていた。
*
「……。」
フェラクが帰った後、サーシャはその足でジーフェスの部屋の前までやって来ていた。
「ジーフェス様…。」
“やっと解った。私の本当の気持ち…。
私は、ジーフェス様が好き。たとえどんな過去であろうとも…。
それを、ジーフェス様に伝えたい。”
サーシャは部屋の扉をノックしようとして、ふと脳裏に先日の、自分に向けられた怒りに満ちた彼の表情を思い出し、身体を恐怖に震わせた。
「!?」
“怖い、あの時のような怒りを向けられたら、私は!”
『ご自身の気持ちに素直になって下さい。』
…フェラク様。
先程までの会話を思い出し、サーシャははっと我に帰った。
“そうよ、もう迷わないわ。迷っては、いけないのよ!”
ふうと深呼吸をすると意を決して、サーシャは目の前の扉をノックした。
「ジーフェス様…。」
「……。」
だが、部屋の中からは何も返事は聞こえない。
思い切ってノブに手を掛けると、かちゃりと音がして扉が開いた。
「!?」
思いもよらずあっけなく扉が開いたのに少し驚きつつも、開いた扉からそっと顔を覗かせた。
「ジーフェス、様…。いらっしゃいますか?」
部屋の中は薄暗く、微かな光の中で見える部屋は家具や食器、酒の瓶などが散らかった散々たる様子で、更にアルコールや何かが腐ったような異臭が鼻につき、一瞬サーシャは表情を歪めてしまった。
「……。」
だが、相変わらず部屋の中からは返事がしない。
“ご不浄に行かれてる気配は無かったし、ここにいらっしゃる筈よね…。”
部屋の荒れように躊躇っていたが、やがてサーシャは思い切って部屋の中に足を踏み入れていった。
…そんなサーシャの様子を、たまたま近くを掃除をしていたエレーヌが偶然目にしていた。
“あれ?サーシャ様、一体旦那様の部屋の前で何してるんだろう?”
掃除の手を止めて様子を見てみると、サーシャはやがて部屋の扉を開けて、一瞬表情を歪めていたが、ゆっくりと部屋の中に入っていった。
「うわ…、サーシャ様、旦那様の部屋に入っちゃったよー!」
…大変大変、大変だあー!修羅場になっちゃうよー!!
エレーヌはそう叫びたいのを何とか抑えて、箒を放り投げて慌ててポーやハック達を呼びに行ったのであった。
*
『コンコン…』
憎しみの思いに浸るジーフェスの耳に、突然聞こえてきたノックの音。
「…?」
空耳か?それとも誰か来たのか?
返事もせずにぼんやり扉を見ていると、やがてかちゃりと音がしてノブが動き、扉が少し開いていった。
「…!」
そして開かれた扉から、サーシャがそっと顔を覗かせた。
…サーシャ殿!?
久しぶりに見る彼女の姿に一瞬驚きとそして懐かしさを感じ、だが直ぐにそれは怒りの気持ちに変わっていった。
“何故、何故今頃ここに!?”
「ジーフェス様…。」
少しの間、扉の傍で部屋の様子を伺っていた彼女だったが、やがてゆっくりと部屋の中へと入っていった。
「……。」
“今更何故ここに、何をしに来たのだ!”
ジーフェスは最早憎しみの瞳でしかサーシャを見ることが出来なくなっていた。
「!?」
突然強い視線を感じてサーシャが振り向くと、そこには床に座り込み、シーツの乱れたベッドの脚に寄り掛かっているジーフェスの姿があった。
「ジーフェス、様…!?」
サーシャが目にした今のジーフェスは衣服は乱れ、綺麗で真っ直ぐだった黒髪はぐちゃぐちゃで汚れが絡み付き、髭は伸び放題で、まさに浮浪者さながらの様相であった。
ただ、その汚れた顔の中で際立つ翠の瞳は憎しみの光を帯びて、彼女を睨み付けるように見ていた。
「……。」
彼の余りの変わりように、サーシャは暫し言葉にならずに、ただただ彼を見返すことしか出来なかった。
「…何をしに来たのです?」
ジーフェスは憎しみの籠った瞳でサーシャを睨み付けたまま、低い声でそう呟いた。
「何を、って…、」
「今更何をしに来たのだ!」
いきなり大声で怒鳴られ、サーシャはびくっ、と恐怖に身体を震わせた。
“何故?何故ジーフェス様はこんなに変わってしまわれたの…!”
以前の優しさに満ちた彼の姿はどこにも無く、怒りの表情を浮かべ憎悪の瞳で睨む今の彼の姿に、サーシャは恐ろしさの余り表情を強張らせた。
“怖い、怖い!逃げ出したい…!”
だが、そんな気持ちをぐっと抑えて、震える足で更にゆっくりとジーフェスの側まで近寄っていった。
“駄目よ。もう逃げ出さないと決めたのよサーシャ!さあ、行くのよ!”
自身を叱咤しながら、ゆっくりとジーフェスに近付くサーシャ。
「来るな!俺に近付くな!」
ひゅっ、と何かがサーシャの顔の横を掠め、
ぱりんっ!
と音がして、後ろの壁で空の酒瓶が砕ける音がした。
「!?」
その音にびっくりして一瞬、足を止めたサーシャだったが、再びゆっくりと歩き始めた。
「来るな!何しにここに来た。俺を嘲笑う為なのか?こんな、無様な姿の俺を馬鹿にしに来たのか!」
憎しみに叫ぶ彼に向かい、彼女は首を横に振った。
「いいえ、違います。」
「なら、何の為だ?」
ジーフェスのすぐ側まで近寄ったサーシャは、腰を屈めて彼の瞳と視線を合わせ、真っ直ぐに見つめ反らす事無く、ただ一言告げた。
「ジーフェス様、私は貴方に謝りたくてここに来ました。」
“ああ、今こそ言わなくてはいけない。私の、この気持ちを…、”
「謝る、だと…。」
だがジーフェスはそんなサーシャの言葉に更に嫌悪感を露にした。
「はい、…あの時、貴方様の想いを拒否してしまって、そして貴方様の過去の事に目を背けてしまって、本当に申し訳ありませんでした。」
サーシャのその碧い瞳からはいつの間にかぽろぽろと涙が零れていた。
「……。」
「私は、…私は貴方が、ジーフェス様、貴方が好きです…。」
「!?」
「あの時も、ジーフェス様から好きだと言われた時も、本当は嬉しかった。私の事を見てくれて、好きになってくれて、本当に嬉しかった。
だけど、…怖かったのです。
今までの穏やかな関係が壊れてしまいそうで、貴方様の想いを受け入れるのが怖くて、つい拒否してしまったのです…。
そして、貴方様の辛い過去を聞いた時も、その悲しみを受け入れたいと思いながらも、私はその罪の重さに、恐怖の余りに逃げてしまったのです。
それが、どれ程貴方様を傷付けてしまうかを、考えもせずに…。」
「……。」
「でも、でももう迷いません。私はジーフェス様、貴方様が好きです。
たとえ、どんな過去であろうとも、どんな事があろうとも私は、貴方様が好きです…!」
“ああ、やっと、やっと自分の気持ちを素直に言えた!”
「わぁおっ!サーシャ様から大胆な愛の告白っ!」
…部屋の扉付近では、何時の間にかエレーヌや彼女に呼ばれたポー、ハック、そしてタフタが居て、こっそりと二人の成り行きを見守っていた。
「しいっ!御二人に聞こえますよっ!」
エレーヌの声にポーが静かにだが叱責して、唇に指を立てた。
「は、はーい。」
「さて、旦那様は一体どう出るのかな?」
「大丈夫なんじゃないか、あの二人なら。」
「……。」
四人はそれぞれの思いを抱きながら、二人の様子を見守るのであった…。
そんな事は露知らず、やっと、やっとのことで想いの全てを打ち明けたサーシャは、ほっとしたように息を吐いて、ジーフェスの顔を見た。
彼の表情は、サーシャの告白を聞いた直後は一瞬驚きのものであったが、やがてみるみるうちに嫌悪感と、憎悪のそれに変わっていった。
「…好き、だと…。今更何を言っているんだ…。」
「!?」
「今更、何を言っているんだ!そんな戯れ言を言って、俺を騙そうとして…!」
「違います!騙してなんかいません!
私は、私は本当にジーフェス様が好きなのです。」
「黙れ!今更、…また俺を騙して翻弄させようとでも思っているのか!
騙されるものか、もう貴女の言葉には惑わされない!」
「ジーフェス様…!」
そしてサーシャは初めて、今のジーフェスが深い悲しみの中で、その思いを深い憎しみに塗り替えていることを知ったのである。
“…私が、私のせいで、ジーフェス様はその想いを憎しみに変える程の深い悲しみを背負われてしまった。
私のせいで…、”
彼の心の悲しみに、叫びに、サーシャは涙が止まらず、そっと両の掌を彼の髭の伸びきった頬に触れた。
「!?」
「お願いです。私を、私をもう一度だけ信じて下さい。私の、貴方様への想いを、信じて下さい。お願いです…。」
涙を流しながら、その碧の瞳を真っ直ぐに彼の翠の瞳を見つめながら、サーシャは小さな声で懇願した。
「信じて、だと…?」
「はい…。」
躊躇わずにサーシャは答え、じっと綺麗な翠の瞳を見つめた。
“お願いです。どうか、私の気持ちを、解って…!”
憎しみの表情を浮かべていたジーフェスは、ふとにやりと不気味に微笑むと、頬に触れていたサーシャの手を掴んだ。
「ジーフェス、様!?」
「…貴女は、俺のことが好きと言っていたけど、
その言葉、果たして本当なのかな…。」
突然の事で驚き、何か言おうとしたサーシャの手をジーフェスは強引にぐいっと引っ張り、立たせたかと思うと彼女の身体をベッドの上に仰向けに押し倒した。
「!?」
慌てて起き上がろうとする彼女の両手首を強引に掴みベッドに押し付け、不敵な笑みを浮かべながら上から見下ろした。
「…ジーフェス、様…。」
その狂気にも似た彼の笑みに、そして今自分自身が置かれている状況に、サーシャの背筋がぞくりと恐怖に震えた。
「貴女が本当に俺を好きなのならば、俺からどんな事をされようとも構わないんだよな…?」
「それ、は…!?」
はっきりと答える前に、彼の両手が彼女の胸元に触れ、服を力任せに引き裂いた。
「いやあああっ!」
襲われるであろう恐怖の余り、サーシャは思わず大声で叫んでしまった。
「サーシャ様っ!」
扉から二人の様子を伺っていたエレーヌは、その余りの様子につい叫んで駆け寄ろうとした。
「お待ちなさいエレーヌっ!」
だが、そんなエレーヌをポーが手を掴んで阻止した。
「ポーさん、何故止めるんですかあっ!あのままだとサーシャ様、旦那様に傷付けてられてしまいますよー!」
「そうだよポーさん、これはちょっとやばいんじゃあないかい…。」
「静かに、貴女達の気持ちは解りますが、今はまだ御二人の様子を見守りましょう。」
「でもぅ…、」
「エレーヌ、サーシャ様を、そして坊っちゃまを信じましょう…。」
「……。」
少し不安な気持ちだったが、エレーヌ達は渋々頷きポーの言うことに従った。
“サーシャ様、坊っちゃま…。”
ポーは祈る思いで、エレーヌ達と共に二人の様子を黙って見守っているのであった…。
「…どうして、こんな酷い事を。」
胸元を無理矢理開けさせられ、まだ幼さの残る緩やかな胸が半分近く露になった状態で、サーシャは再びジーフェスに両手首を掴まれベッドに押し付けていた。
「酷い事?何を言っているんだ。
俺の事が好きならば、どんな事をされても構わないのだろう?」
そう呟くと、ジーフェスは不気味な笑みを浮かべ、怯えるサーシャの身体の上に自らの身体を重ねていった。
「…や、いや…。」
足に腰に、ジーフェスの身体の重みと熱を感じ、サーシャは、だが恐怖の余り何ひとつ逆らう事も出来ずに、ぽろぽろと涙を流しながら彼から顔を背けるだけで、されるがままであった。
「俺達夫婦なんだよな。だったら、別にこんな事なんて、普通の事なんだよな。」
そう言うと、ぺろりと彼女の剥き出しの首筋を舐め、舌舐めずりをした。
「…っ!?」
生暖かく、少しざらついた舌の感触にサーシャはぞわり、と背筋が震え、嫌悪感がわき起こってきた。
「…お願い、やめて…。」
怖くて、とてもジーフェスと視線を合わせることが出来ずに、ただか細い涙声で懇願するしか無かった。
“嫌、怖い。怖くて、嫌…!逃げたい、逃げられるのならば、逃げたい、っ…!”
「…嫌なのでしょう?怖いでしょう?」
「…!?」
まるで今のサーシャの気持ちそのままを言葉にして、ジーフェスは不敵な笑みを彼女に向け、耳元に唇を寄せて囁いた。
「逃げれば良い。俺の腕を振りほどいて拒めば良い。俺は未だ本気じゃ無いから、ほんの少し、貴女が抵抗するだけで直ぐに逃げられますよ。」
「!?」
「…だけど、もしこのまま貴女が意地を張って俺を受け入れるというのならば、俺も本気を出しますよ。
そう、貴女のその綺麗な身体に嫌というほど、俺という男を味わって貰う事になりますよ…。」
ジーフェスの言わんとする事を理解したサーシャは、自らの置かれた状況とこれから起こるであろう恐怖にぞくり、とした。
「……あ…。」
“怖い怖い!ジーフェス様が怖いっ!
嫌!もう嫌っ!逃げたい、もう逃げたいっ…!”
恐怖と混乱の余り、サーシャは涙を流しながら身体を拘束する腕を振りほどこうと、抵抗しようとしたその時、
「…!?」
サーシャはふと、直ぐ目の前にいるジーフェスと目を合わせてしまった。
「…ジーフェス、様…。」
そしてサーシャは気付いたのであった。
申し訳ありません。今回で第6章が終了の予定でしたが、思い切り外してしまいました(涙)
次回できちんと完結する予定です(…多分(笑))。