第6章ⅩⅠ:迷走する想い
あれからどうやって部屋に戻ったのか、サーシャは全く覚えてなかった。
「…ジーフェス様…。」
…あの時、絶望に泣き崩れた彼女をポーとエレーヌが慌てて抱きかかえ、慰めながら必死で部屋へと連れていったのであった。
『サーシャ様、しっかりして下さい!』
『どうしたんですかサーシャ様あ?それに旦那様までー。旦那様あー!』
エレーヌがいくらジーフェスの部屋の扉を叩いても、何も返事は返って来なかった。
「……。」
部屋へと戻ったサーシャは、結局一睡も出来ずにベッドに横たわったまま、じっと伏せたままであった。
…ジーフェス様…。
“受け入れたい。貴方様の想いを、私は受け入れたいのです。
でも…、でも怖い…!”
サーシャは昨夜の彼の、過去の話をしていた時の狂気にも似た笑みと、自分を責めた時の怒りの様相を思い出して身体を震わせた。
“あんなジーフェス様は初めてだった。あんな、怖いジーフェス様を見たのは…。
本当にあれはジーフェス様だったの?いつもの優しいジーフェス様では無くて、本当に、殺人者のような、恐ろしい…!”
『貴女なら、俺の全てを受け入れてくれると思っていた…。』
“出来ない!怖い!
ジーフェス様が怖い!ジーフェス様の抱える闇の大きさに呑み込まれそうで、怖い…っ!”
『コンコン…』
ふとサーシャの耳に扉をノックする音が聞こえてきた。
「は、はい。」
「サーシャ様、起きてらっしゃいましたか。朝食の準備が出来ておりますが、如何されますか?」
外から心配そうなポーの声が聞こえてきた。
「あ、身支度を整えてから直ぐにそちらに行きます。」
「畏まりました。」
そしてぱたぱたと足音が遠さがっていった。
“…取り敢えず、食事にしましょう…。”
そう思い、サーシャは水差しの水で軽く顔を洗い、服を着替えるとダイニングに向かっていった。
ダイニングに着くと、そこにはポーやエレーヌの姿は見えるが、ジーフェスの姿は無かった。
「あ、おはようございます〜サーシャ様。元気になりましたかぁ?」
エレーヌが相変わらずの口調で、だけどちょっと嬉しそうにサーシャに挨拶をしてきた。
「おはようございますエレーヌさん、ええ、少しは元気になりました。」
少し笑みを浮かべながら答えると、エレーヌはほっとしたような表情を浮かべた。
「良かったです〜。けど、今度は旦那様のほうが何か変なんですよねー、昨夜の事もそうですし、今朝も食事に呼んでも何の返事もありませんからねー。
ねーサーシャ様、一体何があったんですかあ?」
「……。」
だが黙ったまま答えられないでいるサーシャ。と、
「エレーヌ、これを坊っちゃまの部屋まで持っていって頂戴。扉の前に置いておくだけで良いから。」
ポーが朝食一式の載ったお盆を持ってエレーヌに突き出してきた。
「えー!重そうなお盆〜。」
「ぐずぐず言わないの。さあ早く!」
はーい、と気乗りしない返事をしながらも、ポーからお盆を持ってエレーヌはぶつぶつ言いながらダイニングを出ていった。
エレーヌが居なくなって、ほっと安堵の息をついたサーシャに、ポーがそっと話し掛けた。
「サーシャ様、サーシャ様は坊っちゃまの過去の話を聞かれたのですね?」
「!?」
驚いたサーシャがポーを見返すと、彼女は黙って頷いた。
「やはりそうでしたか…、
坊っちゃまがかつて医師で暗殺者だった事は私とタフタ、そしてハックの三人は周知の事で御座います。
ただエレーヌは、あの子は一年前にここに来たばかりなのでその事は知らない筈です。」
「そうでしたか…。」
少し納得したように頷く。
「サーシャ様もさぞかし驚かれた事でしょう。坊っちゃまの過去には。」
「…ええ。」
“ならば今の状況が、ジーフェス様の過去の闇にジーフェス様と私が囚われて迷っていることも、解っていらっしゃるのかしら…。”
それきり黙ったまま俯く彼女に、ポーがぽつりと呟いた。
「サーシャ様が今、その御気持ちが迷われておられるのも解ります。
ですが、過去は過去の事であり、最早修正しようは無いのです。」
「…!?」
「私は御二人共に、過去の事に囚われる事なく、現在と、そして未来へと先を見つめる目を持って頂きたいです。」
そしてポーはふっと優しい笑みを浮かべながら続けて言うのであった。
「私は何よりも坊っちゃまとサーシャ様、御二人の幸せを心より願っております。」
「……。」
その言葉に、冷たい中にほんの少しの温かみを感じるような、何とも不思議な気持ちでサーシャはポーを見返した。
だが彼女はサーシャから視線を反らすと、いつものようにてきぱきと食卓の準備を始めたのだった。
「ポーさぁん、食事持っていきましたよー。やっぱり返事無かったから扉の前に置いてきましたー。」
「ご苦労様。」
エレーヌが戻ってくる頃には、すっかりいつものポーに戻っていた。
“過去に、囚われないで…、それは解っているつもりだけど、…でも…、”
サーシャは複雑な気持ちのまま、目の前の朝食に手をつけるのであった。
程無くして朝食を終えて自室に戻っていこうとしたサーシャは、ふとジーフェスの部屋の前で立ち止まった。
「……。」
エレーヌが持ってきた朝食はそのまま手をつけた風も無く、部屋の中からも何も聞こえてこない。
…ジーフェス様、今貴方様は一体何を思い、何をしていらっしゃるの…。
サーシャは恐る恐る手をあげて扉を叩こうとして、そして止めた。
「…っ!」
“駄目…、やっぱり、怖い…。”
サーシャの脳裏に、昨夜の彼の様子が浮かんできて、恐怖の余り震えてしまった。
そして逃げるようにして自分の部屋に入っていったのだった。
*
部屋に戻ったサーシャは何をする訳でも無く、ただソファーに座り、窓の外に見える厚い雲に覆われた灰色の空を見つめていた。
…ジーフェス様…、
まるでお互いの心の中のような、そんな景色を見ていたその時、
『コンコン』
と扉のノックの音が聞こえてきた。
「はい。」
「失礼致しますサーシャ様、ライザ様がおみえになってますが、如何されますか?」
「ライザさんが?!」
「はい、坊っちゃまにも御知らせ致しましたが、返事が無いものですから…、何でしたらまた後程お伺いして頂くようにいたしますが…、」
扉の向こうから申し訳なさそうなポーの声が聞こえてきた。
“ライザさん、昨日のことで心配になって来たのかしら…。”
「解りました。私が御相手しますので、客間に御通しして下さい。」
「それは…、畏まりました。」
少し躊躇いがちの返事が返ってきて、足音がぱたぱたと遠ざかるのを聞いてから、サーシャははあ、とため息をつき、身支度を整えて席を立った。
“僅か一日で、よもやこのような状況になっていようとは思いもしないでしょうけど…、”
皮肉混じりに笑いを浮かべて、サーシャは客間へと向かっていった。
客間のソファーに座っていたライザは、よもや来るとは予想もしなかったサーシャが現れたことに、酷く驚いた表情を浮かべた。
「サーシャ!?」
「おはようございますライザさん。」
驚くライザに軽く会釈をして、サーシャは彼女と向かい合うようにしてソファーに腰掛けた。
「サーシャ、何故貴女がここに…、ジーフェスは…?」
「…ジーフェス様は、お疲れの様子なので代わりに私が来ました。朝早くからわざわざ来て頂いて、ありがとうございます。」
驚きの表情のまま尋ねてきた彼女に、サーシャは落ち着いて答える。
予想していたより遥かに落ち着いた様子のサーシャに、ライザも少しずつ緊張を解いていった。
「サーシャ、その、昨日の事は…、」
「…手紙、読みました。
私、ジーフェス様とライザさん、御二人の関係を誤解してしまって、そしてライザさんに御迷惑をおかけしてしまい、本当にごめんなさい。」
サーシャは頭を深々と下げて、ライザに謝罪した。
「貴女のせいじゃないのよサーシャ!私のほうこそ謝らなくてはいけなかったのよ。
サーシャに説明しないで、勝手にジーフェスに健診して貰ったのが悪かったのだし…。
事情を知らないであんな姿を見たら、サーシャでなくても誰だって誤解してしまうわよ。本当に、ごめんなさいね。」
「いえ、そんな、私のほうこそ話を聞かないで勝手に誤解して怒ったりして…、ごめんなさい。」
「いいえ、私が悪かったのよ、本当にごめんなさい…。」
お互いに必死で謝るその様子に、逆に何だか可笑しくなって、サーシャはついくすっ、と笑みがこぼれてしまった。
「……。」
そんな彼女の様子を見たライザも最初は驚き、唖然としたが、やがてくすりと笑みを浮かべた。
「やだ、お互いに謝ってばかりで、可笑しいわね…。」
「そうですね…。」
二人はお互いに顔を見合わせてくす、と笑い、やがて声をあげて高々と大声で笑いだした。
「ああ、久しぶりだわこんなに笑ったのは。」
「私もです。」
ひとしきり笑って落ち着くと、二人は目の前にあったお茶に口つけた。
笑って乾いた喉を潤すと、ふっと息をついてライザが真面目な表情になってサーシャに問いかけた。
「サーシャ、貴女はジーフェスが医師をしていたことを知ったのよね。」
「!…ええ。」
一瞬驚きの表情を浮かべたが、やがて真面目な表情になって一言答えた。
「それで、その…、サーシャ、貴女ジーフェスのことをどう…、彼の、医師の事は…、ああっ、もうっ!何て言ったらいいの…、」
ライザの歯切れの悪い言い方に、だが彼女の言わんとする事を理解したサーシャは、真剣な眼差しを彼女に向けてきっぱりと言い放ったのだ。
「ジーフェス様が医師を目指した理由も、そして医師を辞めた理由も、全てジーフェス様本人から伺いました。」
「!…サーシャ。」
「ジーフェス様が一時期、暗殺者に身を堕とした事も…。」
「…そう…。」
そこまで聞いて、ライザはぽつりと一言返事をして、そこでやっとジーフェスが姿を見せない理由が何となく解った気がした。
暫くの間、二人は黙ったままお互いに視線を合わせず、そのまま時間が過ぎていったが、
「…で、サーシャ、今貴女はジーフェスの事をどう思っているの?」
いきなりライザから核心に触れられ、サーシャはびくっ、と身体を震わせた。
「……。」
無言のまま返事をしない彼女に、ライザはふう、と溜め息をついた。
「人殺しをしたジーフェスを赦せない?それとも恐ろしくて怖くなった?」
的を得たような答えにサーシャがびくっとなってライザの顔を見ると、彼女は少し怒ったような、真剣な表情でサーシャを見ていた。
「私は…、」
言葉に詰まらせる彼女を見て、ライザはゆっくりと俯いた。
「確かにそれは普通の反応だわ。信じて受け入れたいのだけど、表面上では信じていても、奥底では余りの事の大きさに信じられないで、受け入れる事が出来ない…。」
「ライザさん…。」
「解ってはいるの。解ってはいるのよ。実際、私もそうなのだから。
でもね、ジーフェスの事を心から好きだと言ってくれたサーシャ、貴女ならもしかしたら彼の全てを、彼の闇を受け入れてくれるのかと期待していたの…。」
「……。」
「でも、やっぱりサーシャも私達と同じだったのね。
それが悪い訳では無いのよ。悪い訳では無いけど、
…ごめんなさい。私、貴女に期待していたから、貴女ならきっとジーフェスを本当の意味で助けてくれるのでは無いかと期待していたの。
でも、貴女でも駄目だったのね…。」
そしてライザはソファーから立ち上がった。
「ごめんなさい、私、貴女に期待し過ぎたのね。今、私は貴女に対して失望してるわ。」
「え…!?」
「サーシャなら、貴女のジーフェスに対する純粋な想いなら、彼を救えるのかと期待していた。でも…、」
「ライザさん…。」
「ごめんなさいね。私、診療所に戻るわ。お茶御馳走様。」
それだけ呟き、ライザはサーシャと視線をあわせる事なく、客間から出ていってしまった。
「……。」
独り残されたサーシャは、暫くその場で考え込んでいたのであった。
“私、私は今でもジーフェス様のことが好き、なのよ。
でも、彼の闇が、過去の闇が、彼を変えそうで…、怖い!”
サーシャの脳裏には、先日まで彼女に向けてきた日だまりのような微笑みの姿のジーフェスと、昨夜の暗殺者としての狂気に満ちた不気味な笑みの姿が交互に浮かんできていて、それは彼女の気持ちをも交互に変えていった。
「私は、私は一体…、何をしたいの?何を、望んでいるの…?」
誰に問い掛けるとも解らず独り呟き、サーシャは暫し涙をこぼして伏せていた。
*
…あれから数日後、
あの日以来、ジーフェスは部屋に籠って必要な時以外は部屋から出ることも無く、自衛団も休む日々が続いていた。
当然だがサーシャとも会うことが無く、お互いに話も出来ない状態であった。
「昨日たまたま御不浄に出ていたらしい旦那様に会ってしまったんですけど、旦那様、すっかり風貌が変わってしまっていたんですよー、」
「……。」
ダイニングで独り昼食をしていたサーシャにエレーヌが話し掛けてきた。
「ずっと湯あみしてないから、髪や髭は伸びっぱなしで、しかもお酒臭くて、私が注意したら凄い形相で睨まれてしまったんですよー。
もう、あんな怖い旦那様初めて見ましたよー。本当、一体何があったんですかぁ?
ねーサーシャ様聞いてますかー?サーシャ様のほうからも旦那様に何か言ってあげて下さいよ〜。」
エレーヌの愚痴にも、サーシャは心あらずといった風にしか聞いていなかった。
「エレーヌ、無理を言わないの。サーシャ様にも都合というものがあるのですよ。」
「……。」
「でもポーさぁん、何とかしないと今のままじゃあ旦那様、本当に身体を壊してしまいますよー。」
「解ってますよ。さあさエレーヌ、貴女は庭の掃除をして頂戴な!」
「もうー!はいはいー、わかりましたよー!」
ポーは半ば強引にエレーヌを庭へと追い出してしまった。
「…ありがとう、ポーさん。」
ポーの心遣いに、サーシャはそっと礼を述べた。
「いえ、…ですがサーシャ様、エレーヌの言う事も尤もな事なのですよ。」
「…!?」
「今のままでは、坊っちゃまは身体どころか、精神までも壊れてしまいます。」
「それは…、」
サーシャは真剣な表情を浮かべてそう呟くポーを見て愕然とした。
“私も、解ってはいるの。このままではいけない事は。
でも、今のジーフェス様は怖い。私だけでなくエレーヌさんまで、まるで近付く者全てを傷付ける刃物のようで…。怖い!”
恐怖に怯え、俯き考え込むサーシャの姿を見て、ポーもまたふと思うのであった。
“…坊っちゃまを救えるのはサーシャ様、貴女様だけなのですよ。
坊っちゃまが心を許し、心惹かれたサーシャ様、貴女様だけが坊っちゃまを救うことが出来るのですよ。”
それは、未だ不安定な気持ちのままのサーシャに対して、重荷となる言葉故に、今の時点では言えない思いだった。
“どうか、どうかサーシャ様御気付き下さい。坊っちゃまと、そして御自身の御気持ちに…。”
そんな風に思っていると、微かに馬の嘶きと馬車の車輪の軋む音が聞こえてきて、そして玄関のベルの音が聞こえてきた。
「どなたなのでしょうね?」
突然の訪問者に首を傾げながら、ポーは玄関先に向かっていった。
「……。」
サーシャが待っていると、程無くしてポーが戻ってきた。
「サーシャ様、フェラク様がおみえですが、如何されますか?」
「フェラク様が?」
「はい、何でも先日からのお約束という事でと、如何いたしましょうか?」
そう言われて、やっとサーシャも思い出した。
“そういえば造園の為の庭師の募集の件でお伺いすると約束していたわ、それが今日だったのね。”
少し悩んでいたが、
「解りました。客間にご案内して。私が応対致します。」
「畏まりました。」
ゆっくり礼をして、ポーは再び玄関へと向かい、そしてサーシャは先に客間へと向かっていった。
*
「こんにちは、お久しぶりですねフェラク様。さあどうぞ。」
「こちらこそサーシャ様。ところでジーフェス様はどちらに?」
客間に現れたフェラクに笑顔を向けて挨拶を交わすサーシャ。するとフェラクは一人きりのサーシャに不思議そうな表情を浮かべて尋ねてきた。
「ジーフェス様は、ちょっと体調を崩していまして…、」
「それは大変ですな。どこか御病気でも?」
「ええ、まあ…。そうですわ、庭師の募集の件ですけど、こちらも忙しくて進んでいない状態なのです。」
何とも曖昧な答え方をして話をそらそうとする彼女に、フェラクは一瞬表情を歪めたが、直ぐに元に戻って応えていった。
「いや、その件ですけど、こちらで数人若手の者を確保致しましたので、良ければその者達を使って頂きたいとお願いにあがりましたのですよ。」
「そうでしたか。丁度良かったです。こちらもいろいろあって未だ手をつけていなかったので、助かりますわ。」
「そうでしたか。ではその者達にここの造園に携わるように話を進めても構いませんでしょうか?」
「ええ、是非ともお願いいたします。」
出来る限りにっこりと微笑み、サーシャは出されたお茶に口つけて更に続けた。
「そういえば庭といえば、先日読んだ本に珍しい花を見つけましたの。何でも東の国にだけ咲くという、雨の花というもので、晴れの日が数日続くだけで枯れてしまうものらしいですよ。」
…今は、これ以上フェラク様に心配掛けないように明るく振る舞わなくては…、
そんなサーシャの不器用なまでの気持ちが解ったのか、フェラクが話を聞きつつも表情を曇らせた。
「…何がありましたか、サーシャ様?」
そして突然彼女の話を遮るように声をかけてきた。
「…何が、って、別に何もありませんが…。」
まるで全て見透かしたかのような彼の眼差しに、サーシャはびくびくしながらそう答えるのであった。
「失礼を承知で申し上げます。今日のサーシャ様はどこかおかしいです。以前お逢いした時の純粋な明るさでは無くて、今のサーシャ様はそう、かつてアクリウム国に居た時の、偽りの仮面の被ったような微笑みをしていらっしゃる…。」
「!?」
「もしや、ジーフェス様がここに来られない事と関係しているのではありませんか?」
「……。」
“やはりフェラク様ですわね。ほんの少しの対応と会話だけで、今の私の状態を察したのですね…。”
黙ったままのサーシャに、あくまでもフェラクは優しく語りかける。
「やはりそうでしたか。
…もし宜しければ、何故このような事になったのか、お話して頂けますか?」
ここまでの応対で、ある程度の事情を悟ったように話をしていくフェラクだったが、サーシャは俯き、首を横に振った。
「申し訳ありません、それはお話出来ないのです…。」
震える声で小さく呟き、ぎゅっと両手を握り締めるその姿に、真剣な面持ちで再び尋ねてきた。
“言えない。フェラク様にジーフェス様が暗殺者だったなんて事は…!”
「もしや、サーシャ様はジーフェス様の事をお嫌いになられたとか…、」
不安になって聞いてきたその質問に、だがサーシャは顔をあげて、即座に首を横に振って否定した。
「違います!私は、私はジーフェス様の事が好きです。…ですが、…駄目なのです。」
「駄目、とは一体…、」
「……。」
だがその問いに、サーシャは答えず、ただ俯くだけであった。
“解らないのです。私は、何をして良いのか解らないのです…。
ジーフェス様の事は今でも好きです。けど、あの姿を見てしまった今は、…怖い…。”
暫く黙ったままでいた二人だったが、突然フェラクが話を始めた。
「サーシャ様、…素直におなり下さい。」
「…え!?」
驚いたように顔をあげたサーシャが目にしたのは、暖かな笑みを浮かべたフェラクの姿だった。
「サーシャ様、貴女様の、ジーフェス様に対する御気持ちに素直になって下さい。
何があったかは解りませんが、それでも貴女様はジーフェス様を想われています。
その御気持ちに揺るぎが無ければ、その御気持ちを貫くことが出来れば、今の困難をきっと乗り越えられると、私は信じています。」
「…でも…、」
戸惑うサーシャに尚も話を続ける。
「大丈夫です。どうかサーシャ様御自身を、そして何よりもジーフェス様を信じて下さいませ。そうすれば、きっと道は開けます。」
「…ジーフェス様、を、信じる…。」
その一言は、サーシャの心の中に染み渡り、彼女の奥底にある何かを変えていった。
“私、私は…、ジーフェス様を信じて、いた?”
そしていつの間にか、ぽろぽろと瞳から静かに涙を流していた。
“私は…、”
そんな彼女の脳裏に、ふとジーフェスの日だまりのように優しく微笑む姿が浮かび上がった。
『サーシャ殿。俺は貴女のことが、好きです…。』
…あの時、本当は嬉しかった。私を見てくれて、私を好きになってくれて。
そして、怒りに満ちた表情の彼の姿…、
『表面では憐れんでいても心の中では軽蔑し、恐れているのでしょう!』
…ああ、あの時、確かにジーフェス様の表情は、声は怒りに満ちていたけど、その翠の瞳は私に見放される事に怯え、哀しみに満ちていた…。
“気付いていたのに、それなのに私は自分の事だけで一杯で、自身を護る為に心を閉ざしてしまった…。
きっとジーフェス様は受け入れて欲しくて、信じて欲しくて私に全てを話されたのに…、
なのに、私はそれを裏切ってしまった…。”
ぽろぽろと止めどなく流れる涙をそのままに、サーシャはぽつりと呟いた。
「私、私…、ジーフェス様に、取り返しのつかないことを、してしまった…。」
そんな彼女の言葉を聞いたフェラクは、傍まで近寄り、ふわりと肩に手をかけた。
「大丈夫ですよ、サーシャ様。」
「フェラク、様…、」
フェラクはにっこりと微笑むと、黙って頷いた。
「その気持ちをジーフェス様に御伝え下さい。今のサーシャ様の、素直な気持ちを。
大丈夫ですよ。ジーフェス様はきっと貴女様を解って受け入れて下さいますよ。我等が神、ライアス様の瞳を持つ御方ですから。」
「…っ!」
…ジーフェス様…、
私は、貴方様が好きです。たとえどんな過去があっても、
たとえどんな闇を抱えていようとも…。
…ああ、今なら、素直に言える…。
「…フェラク、様…。」
両手で顔を覆い、嗚咽を洩らしながら泣き続けるサーシャを、まるで大切な孫を慰めるように、フェラクはそっと彼女の伏せた頭を優しく撫でているのであった。