第6章Ⅹ:ジーフェスの闇(後)
「アルザス義兄様の…?」
鸚鵡返しに尋ねるサーシャに、ジーフェスは黙ってこくりと頷いた。
「そうです。」
それから再び酒瓶の中身をグラスに注ぐと、今度はゆっくりと喉を潤すように飲み干した。
そしてふう、とすこしばかり安堵の息をついて再び語りだした。
「三年前、ルードベル国王陛下が病に倒れ、国王としての全権がカドゥース殿下に引き継がれた時、殿下は国の組織の大規模な改革を行われたのです。」
「大規模な、改革?」
「はい、王家の従者や官僚・大臣達の大幅な入れ替え等を行われたのです。
アルザス兄さんが殿下より宰相に任命されたのもその時です。」
「……。」
「その時に、カドゥース殿下は『闇陽』の全権をアルザス兄さんに与えられたのですよ。」
「な!?…それって。」
驚くサーシャに、ジーフェスは黙って頷いた。
「普通なら有り得ない事ですよね。代々国王陛下へと引き継がれてきた、王家の強力な懐刀とも言える『闇陽』をアルザス兄さんに、…しかも国王陛下夫妻を憎んでいる兄さんに渡すなんて。
兄さんが宰相に任命された事でも周りの反対が多かったけど、
『闇陽』の全権までも与える事については流石に殿下の御決断といえど、多大なる批判が集まったのです。ですがそれでも殿下は反対意見を抑え、半ば強引気味に改革を推し進めていったのです。」
「…何故、殿下はそのような事を?」
「俺にもはっきりとした理由は解りませんが、一番有力な理由としては、宰相となったアルザス兄さんを他の暗殺者から護る為と言われています。
様々な思惑が飛び交う中で、それでも『闇陽』の全権がアルザス兄さんに移ると、早速組織の改変を始めたのです。
国王陛下に忠実であった組織の長や古参の者は降格や除籍され、代わりに若い者、当時の俺と同じ様に今までの組織の在り方に疑念を抱いていた者が新たな長となったのです。」
それからふっと半ば自嘲気味に笑って付け加えた。
「そして俺は、半ば生ける屍同然だった俺は最早組織の役に立たないという事で、特例で組織から外されたのです。
いえ、外れるよう命じられたのです…。」
「……。」
『…酷い様相だ、まるで生きる屍だなジーフェス。』
『……。』
『それで闇の底に堕ちた気でいるのか?
笑止、お前にはまだ周りに光が在るのが解らないのか?』
『!…な、に…!?』
『お前の周りには、お前を信じて待つ者達が大勢居るのだぞ。お前は、このままその者達を信頼を裏切るのか?』
『……。』
『…お前まで、闇に堕ちる必要は無い。』
『……っ!』
「…やっと組織から抜けて、再び戻ってきた俺を、屋敷や街の人達、そしてライザは何も言わずに優しく迎えてくれたんだ。
皆を裏切った俺を、こんな、穢れきった俺を…っ!?」
「……。」
声を詰まらせ俯き涙を流す彼の様子を、サーシャはただ黙ってじっと見守っていた。
「けど、皆の所に戻れたとはいえ最早医師に戻れず、何をするわけでも無く日々を怠惰に過ごしていた俺に、当時自衛団の団長だったサンドル殿が声を掛けてくれたんだ。」
「そしてサンドル殿が勧めるがままに俺は自衛団に入団したんだ。
俺は今までの罪の償いをするかのように、自衛団で悪人を捕まえたり、見廻りとかをして、本当の意味で安心を、街の皆の安全を守ってきたんだ。
一年後には団長に任命されて、その時は不安だったけどそれなりに頑張ってきて、そして現在に至るんだよ…。」
袖口で涙を拭きながら、微かに笑みを取り戻してジーフェスはそう言い終えると、ふう、と安心したような満足げなため息をついた。
「サーシャ殿…、これが、俺の過去です。
かつての俺は医師でありながらその技術を人殺しに利用した、卑劣な暗殺者だったのです。」
「……。」
だがそんな話を聞きながらも、サーシャは未だに夢見心地の中に居た。
ジーフェスの話を信じられなかった。否、信じたくは無かった。
話を聞いている時も、まるでそれがひとつの大きな作り話かのようで、現実のものとは思えなかったのだ。
“…嘘、だと思いたい。ジーフェス様が、殺人者だったなんて…。”
だが、ふと昔初めて出逢った時の彼の言葉を思い出した。
『もし俺が、人としての道に外れた人間ならば、例えば、人を殺したことのある人間だったとしたらどうする?』
“あの時は、単に自分を例えたものだと思っていた。けれど、あれは本当の事を、この事を言っていたのですね…。”
知らず知らずのうちに、彼女の瞳からぽたりと涙が零れた。
それは彼を憐れむかのような、そして…、
「サーシャ殿…。」
彼女の様子を見たジーフェスは驚き、そして慰めるかのように片手をそっと彼女の頬に触れた。
「!?」
いや、触れようとした途端、サーシャはびくっと身体を震わせ、逃げるように思わず後退りをしていた。
「……。」
差し伸べた手を宙に浮かせ、固まったまま驚きと微かな哀しみの表情を浮かべる彼を姿を見て、サーシャははっとなった。
“私、今何を…!?”
…あの時、自分に差し伸べられた彼の手を見て、サーシャは一瞬、その手が血塗れのように見えてしまった。
まるで、人を殺めた直後の手のようで。
蝋燭の光の加減のせいなのか、当然そんな筈は無く、サーシャが我に帰って改めて見てみても、汚れの無い綺麗な、いつもの彼の、大きな普通の手であった。
彼の表情は驚きのものであったのがやがて唇の端を歪め俯き、そしてくくく…、と低い嗚咽に似た不気味な笑い声をあげた。
「ジーフェス、様…。」
「そうですよね、それが、普通の反応ですよね。
俺の穢れた過去を知ってもサーシャ殿、貴女なら、…貴女なら受け入れてくれると思っていた。
でも、そんな、傲慢な考えを抱いていた俺が、愚かでした。」
「いいえ、違います…、」
「何が違うと言うのです!今の貴女の、俺を見る瞳は恐怖に怯えている。それは貴女自身が俺に対して、暗殺者だった俺に対して恐怖を抱いているそれに他ならないではないですか!」
先程までとはうって変わって、その表情には強い怒りと、憎しみにも似た様相を浮かべて、彼女に荒い声で問い掛けた。
「違います!それは誤解です!」
「…貴女は酷い人だ。その純粋で無垢な笑顔で俺の心を乱れさせ、まるで俺に好意が有るように見せかけて、俺を翻弄させてきた。
そんな貴女に一時でも好意を抱いた俺の姿はさぞ滑稽だったでしょう?
そうやって俺を騙して、過去の傷をまんまと曝け出させて表面では憐れんでいても心の中では軽蔑し、恐れているのでしょう!」
「…それ、は…!?」
…違います!。
その一言が、今のサーシャには言えなかった。
ジーフェスの言う通り、今の彼女にとって彼は好きという淡い想いよりも、むしろ畏怖の存在にしか見えなかったのだ。
“私、私は…?!”
何も言えずに黙ったまま怯えたように自分を見つめるサーシャを見て、ジーフェスはますます表情を怒りに歪め、彼女の手を強引に取り、ソファーから立たせた。
「何を…!?」
驚くサーシャの手を強引に引っ張り、ジーフェスは部屋の扉を開けて彼女の身体をどんと部屋の外に突き飛ばした。
「ジーフェス様…!?」
突然突き飛ばされ、よろけながらも何とか後ろを振り向くと同時に、部屋の扉がばたん!と荒々しい音をたてて閉められた。
「ジーフェス様!」
サーシャが扉に手をかけるものの、内側から鍵が掛かっているらしく、扉はびくともしなかった。
「ジーフェス様!開けて下さいジーフェス様っ!」
夜中にも関わらず大声で叫び、どんどんと激しく扉を叩くが、それでも扉は開くことは無かった。
「ジーフェス様、っ!」
騒ぎを聞き付けたのか、下の部屋で眠っていたポーとエレーヌが眠たそうに目を擦りながらやってきた。
「何かありましたか、サーシャ様?」
「あれー?どうしたんですかあーサーシャ様ぁ?」
事情を全く知らない二人は、不思議そうにサーシャの様子を見ていた。
「ジーフェス、様…っ!」
だが、何も反応が無い状態が続き、叫び疲れ果てたようにサーシャは扉の前に崩れ落ちた。
「サーシャ様。」
「サーシャ様ー!どうしたんですかー!」
そんな彼女のただならぬ様子に驚き、声を掛ける二人。
だが、そんな二人を気にもせずにサーシャは顔を伏せて、ぽろぽろと涙を溢した。
「ジーフェス様…っ!違うのです。違うのです。
私は決して貴方様を騙してなんかいない。
私は、…あの時、本当は貴方様からの告白が嬉しかったのです。でも、怖くて、変わってしまうのが怖くて素直に貴方様の気持ちを受け入れなれなかっただけなのです…。」
「「……。」」
何の事か解らずに、黙ってサーシャを見守るポーとエレーヌ。
「…ならば、今の貴女は、俺の事を知った今の貴女は、俺を受け入れてくれるのですか?」
「!?」
「…!?」
扉ごしに聞こえたジーフェスの声に、サーシャと、何故かポーが反応した。
「…それは…、」
“好き、なの、だけど…、…だけど…、怖い!”
ふと、先程まで聞いていた彼の過去の話と話の最中に見せた狂気の姿、部屋を追い出される直前の怒りに満ちた表情を思い出し、サーシャは素直にジーフェスを受け入れられないでいた。
「…それは…、」
“受け入れたい、受け入れたいの!
ジーフェス様の全てを、受け入れたいのに…、
でも、その闇の大きさが、その闇の深さが、怖い、…全てを呑み込まれてしまいそうで、怖い…!”
「…やはり貴女も他の皆と同じなのですね。
心では心配しながらも、俺の持つその業の深さ故に、深く関わるのを避けようとする、他の皆と…。」
「ジーフェス様…、」
…どうしたら良いの。私は、一体どうしたら…。
サーシャが扉の前で哀しみに暮れる中でジーフェスもまた、扉の反対側で独り哀しみに堕ちていた。
“信じたかった。サーシャ殿が、俺の穢れきった過去を知っても、赦して受け入れてくれるのだと…。”
そしてきりきりと唇を噛み、拳を握り締めた。
“だけど、やはり彼女も他の皆と同じだった。表面では心配し、慰めてはくれるのだが、奥深くでは信用せずに、当たり障りの無い程にしか関わろうとしない…。”
「…それが、当たり前なのに。」
“だけど、サーシャ殿なら、俺の全てを受け入れてくれると思っていた。
俺が、好きになった、彼女なら…。”
…だけど、それは夢だった。
「何を、俺は期待していたのだ…。」
くくく、と独り自嘲気味に不気味に笑いながら、ジーフェスはぽたりと涙を溢した。
そしてそれ以上、二人は何も言葉を交わす事無く、ただただお互いに、孤独なまま哀しみに堕ちていったのであった。