第6章Ⅷ:ジーフェスの闇(前)
「……。」
夜も更け、真夜中も過ぎようとするその時間、
ジーフェスは未だに眠る事なく、ほの暗い部屋で独りソファーに座り、じっと考え事をしていた。
“サーシャ殿は、あの手紙を読んだのだろうか?”
…あの手紙、
あの出来事から生じた誤解を解く為の手紙、
『ジーフェス、誤解を解く為にとはいえ、貴方が医師であることを書いてしまったけど…、』
『構わない。』
『でも、この手紙を読んでしまったら、もしかしたらサーシャは貴方に不信感を抱くかもしれないわ。
何故優れた技術を持った貴方が今は医師をしていないのか。』
『……。』
『そうなったら、貴方、あの‘過去’を話さなくてはいけなくなるかもしれないわよ。
それでも、良いの?』
『大丈夫だ。その点は俺自身がちゃんと説明する。』
…そうは言ったが、
ジーフェスはふう、とため息をついてローテーブルの上にあった酒の入ったグラスに手を伸ばした。
“俺の、俺の過去を知ったら、サーシャ殿はどうするのだろう?”
先日の、告白をした時のサーシャの様子を思い出してぞくりと背中を震わせた。
“俺を拒否する?無視する?俺を、軽蔑する!?
それならば、そうなるくらいならば、いっそ偽りの話で誤魔化して…、”
そこまで思って、はっと我に帰った。
「駄目だ、それは駄目だ!」
…たとえその場では誤魔化せても、いつかきっと綻びが生じて、真実を知られる日はやって来る。
“その前に、そう、今こそきちんと話さなくては。
でも…、”
ジーフェスの心の中に全てを話さなくてはいけないという義務感と、このまま隠し通したいという相反する気持ちがぶつかり合い、その気持ちを落ち着かせる為に手にしていたグラスの中身を一気に呷った。
そして派手な音をたてて空になったグラスをテーブルに置いた。
『コンコン』
それと同時に、小さくだが部屋の扉がノックされる音が聞こえ、ジーフェスはびくっと身体を震わせた。
“来たのか…。”
それが誰なのか薄々と感じ、ジーフェスはさほど驚きもせずに無言で立ち上がって扉に向かっていった。
「!?」
何も言わずに突然扉が開いたものだから、サーシャはびっくりした表情で目の前に現れたジーフェスを見てしまった。
「あ…、その、夜遅くにすみません。…もしかして、起きていらっしゃったのですか?」
真剣な表情の彼を見て、怒らせてしまったのかと心配になって少し頬を赤くして俯いてしまった。
「ええ、起きていました。」
昼間とはうって変わって意外にも落ち着いているサーシャの様子に、ジーフェスは少し驚いた。
そしてふと彼女の手に、あの手紙があることに気付き、声をかけた。
「その手紙、読まれたのですか?」
いきなりの質問にびくっとなったサーシャだったが、黙ったまま素直に頷いた。
少しの間、沈黙が続いていたが、思いきったようにサーシャが口を開いた。
「あの…、…少し、お話があるのですが、今大丈夫でしょうか?」
…!?
一瞬ジーフェスの心の中に動揺が走ったが、それを面に出さずにゆっくり頷いた。
「構いませんよ。どうぞ。」
そう言って、ジーフェスはサーシャを部屋の中へと案内していった。
サーシャも黙って彼に従い、部屋の中へと入っていった。
「…お酒、飲まれていたのですか?」
ソファーの傍のローテーブルに置かれた酒瓶とグラスが目に入って、思わずそう尋ねていた。
“普段滅多にお酒を飲まれる事は無いのに…、”
「ああ、ちょっと眠れなくてね…。」
それだけ呟き、ジーフェスはソファーの先程まで座っていた場所に腰掛け、酒瓶等をテーブルの端に移動させた。
サーシャも向かい合うように対面側のソファーに腰掛けた。
「……。」
“どうしましょう。ジーフェス様の事を聞きたくて部屋に来たのは良いけれど、一体どう言って話を始めたら宜しいのかしら…。”
“あの手紙を読んで、今のこの落ち着いた状態になったという事は、俺とライザの件での誤解は解けたと考えて良いのだろうな…。
…という事は、サーシャ殿は俺が医師だということを知ったのだな。
やはり、その事で疑念を抱き始めたのか…?”
お互いがお互いに思惑を抱きながらも、暫く黙ったまま視線を合わせる事なく俯いたままの二人であったが、
「…サーシャ殿。」
先に話したのはジーフェスのほうだった。
「は、はいっ…!」
いきなり話しかけられたから、驚き思わず上擦った声で返事をしてしまった。
「サーシャ殿は手紙を読んで、その、…俺とライザの事について、理解してくれましたか?」
「…はい…。」
暫く考えて、そしてサーシャは小さく返事をして、ゆっくりと頷いた。
「そうですか…、」
その言葉に、ジーフェスは安心したようにほっと一息ついた。
「事前に説明をしなくて申し訳ありませんでした。
ライザの身体の事は余り知られたくは無かったものですから…。
ですが、まさかこの事がサーシャ殿をここまで傷付けるとは思いもしませんでした。本当に、すみませんでした。」
そしてジーフェスはサーシャの前で深々と頭を下げた。
「い、いえ、気になさらないで下さい。
私こそ、話を聞かないでまるで子供のように駄々をこねてしまって、ジーフェス様やライザさん達に大変ご迷惑をかけてしまったし…。」
「いや、事情を知らずしてあのような光景を見たのならば、誤解されても当然です。」
…ここら辺りはライザの受け売りなのだが、敢えてその言葉を使ってしまう。
「サーシャ殿が理解してくれて、ライザも安心するでしょう。久しぶりにあいつが落ち込む姿を見てちょっと心配でしたしね。」
ジーフェスの一言に、サーシャははっとなって尋ねてきた。
「あの、ライザさんは…、」
「ああ、ライザなら診療所に戻りましたよ。明日は通常の診察日ですから、いつまでも診療所を閉めておくわけにはいかないと言って…、サーシャ殿に本当に申し訳ないと言ってましたよ。」
そしてはっとなったようにサーシャを見てから続けた。
「明日の朝一番にでも診療所に逢いに行きますか?」
「あ、そうですね。
…私、ライザさんには本当に申し訳ないことをしてしまったし、早く御会いしてお詫びしたいですわ。」
「じゃあ、出勤前に俺も一緒に行きますよ。」
「あ、ありがとうございます。」
…それっきり会話が途切れて、再び沈黙が二人を包んだ。
「……。」
“聞くべきなのかしら?
何故ジーフェス様が優れた医師なのに、今はその仕事をされていないのか?
何か、事情があってのこととは思うのだけど…、”
“あの出来事に対して納得している筈なのに、未だに部屋に戻られないのは、まだ俺に用事があるからだろうか?
何か聞きたい事があると言っていたし、
やはり、あの事なのだろうか…。”
「「あの…!」」
二人は意を決したように、同時に声を発して、そしてはっとなった。
「ジーフェス様から、どうぞ…、」
「いや、俺は急ぎの話でもありませんし、サーシャ殿からどうぞ。
その為に、ここに来られたのでしょう?」
「……。」
そう言われて、サーシャは暫く黙ったまま考えていたが、やがて口を開いた。
「ジーフェス様、この手紙に書かれている事が真実ならば、…ジーフェス様は優れた技術をお持ちになられた医師なのですね。」
「……ええ。」
ジーフェスは嫌な予感がして、微かに表情を歪めた。
「ならば、何故ジーフェスは今は医師をしていらっしゃらないのですか?
それほどまでの技術を有していながら、何故です?」
「!?」
…ああ!やはりその事だったのか…!?
予想していた事とはいえ、実際にそう問われてしまい、ジーフェスはすうっと血の気が引くのを感じていた。
“…今ならまだ誤魔化せる。まだ。
正直に話して、彼女から嫌われ、疎まれる位ならいっそ偽りで誤魔化そうか…。
だけど、だけど…。”
「ジーフェス様…、」
今までにない程青ざめ、深刻な表情を浮かべたジーフェスに、サーシャは心配し声をかけた。
“ジーフェス様がこんな表情をされるなんて…!
一体どういう事なの?!”
するといきなりジーフェスはテーブルの上にあった酒瓶を開け、中身をグラスに注ぐとそのまま一気に中身を飲み干してしまった。
「…!?」
いきなりの行動に驚くサーシャに対して、ジーフェスはふう、と一息ついてグラスをテーブルに置くと、サーシャと視線を合わせて、ぽつりと話を始めた。
「…俺は6歳の時、大病に侵され、生命の危機に曝されました。」
「…え。」
いきなりそんな話をされて、サーシャは少し戸惑った表情を浮かべてしまった。
「ほかの医師が最早治療は出来ないと匙を投げ見捨てる中で、俺を病から救った医師がいたのです。
それが、ライザの祖父である医師だったんです。」
「……。」
「九死に一生を得た俺は、俺の生命の恩人である、その医師と同じようになりたくて、その医師のもとに強引に弟子入りして、ライザと一緒に医学や薬学など、医師になるのに必要な勉強をしてきたんです。」
「……。」
「俺は何がなんでも師匠、ライザの祖父のことですね、のような医師になりたくて、いつか数多くの病人を救いたくて、必死で勉強してきました。
その甲斐あって、俺は17歳の時に、師匠から医師として正式に認められました。」
「17歳…!」
サーシャもアクリウム国でそれなりに若い医師を見たことはあったが、それでも17歳という若さの医師は流石に見たことは無かった。
「そんな若くから医師になっておられたのですか…。」
驚くサーシャに、ジーフェスは寂しそうに笑みを返すだけだった。
「医師になったとはいえど、知識だけでまだまだ実績が足りなかった俺は暫く師匠の指導の下で医師をしていたんです。」
そしてふう、とため息をひとつつくと、ふわりと優しい笑みを浮かべた。
「でも、俺の治療で人々が病気や怪我から治って元気になっていく姿を見て、そしてそんな人達が感謝の言葉を返してくれると、本当に医師になって良かったと思っていました。
丁度その頃にライザもエント兄さんと結婚して、本当に、本当にささやかだったけど、俺の周りにいた皆が本当に幸せだったんだ…。」
そう語るジーフェスの瞳は本当に幸せに満ちていて、暖かな笑顔さえ浮かんでいた。が、
「だけど、その幸せは長くは続かなかったんだ…、」
ジーフェスは今までの口調を変え、いきなり表情を苦悶に歪め、俯き唇を噛み締め、握り締めた両手は微かに震わせた。
「そう、あの日、あの忌まわしい出来事が起こったんだ。」
「忌まわしい、出来事?」
不吉な言葉を聞いて表情を歪めるサーシャに、ジーフェスはゆっくり頷いた。
“ああ、やはり隠してはいけない…。
今こそ、今こそきちんとサーシャ殿に話をしなくてはいけない。
…俺の、過去の闇を…。”
一時の間、硬い表情で黙ったままのジーフェスだったが、やがて意を決したようにぽつりと話を始めた。
「そう、俺の近所に住んでいた、大切だった兄さんと姉さんが、殺されたんだよ。」
「!?」
殺さたという言葉を聞いて、サーシャは一瞬恐怖に身体を震わせた。
「二人とも本当に優しくて近所の皆から慕われていて、俺にとっては本当の兄や姉みたいな頼れる存在だったんだ。
二人は幼馴染みで恋人同士で、もうすぐ結婚する約束も交わしていたんだよ。」
そう語る声は、哀しみに微かに震えていた。
「誰が、一体そんな酷い事を…?」
…そんな、ジーフェス様の話を聞く限りでは誰からも恨まれたり、殺されたりする事の無いような二人なのに?
サーシャの問いに、ジーフェスは暫く黙った後にぽつりと呟いた。
「…二人を殺したのはね、とある高位貴族の男だったんだよ。」
「高位、貴族…。」
そしてジーフェスは哀しみの表情を怒りに満ちたそれに変えていった。
「二人が殺された理由というのはね、…その高位貴族に逆らったからなんだよ。
その男は、姉さんを強引に自分のものにしようとして、だけど抵抗されて傷付けられたから、それだけの理由で殺したんだよ。」
「そん、な!」
「そして姉さんを殺したその男は、自分を問い詰めてきた兄さんに腹を立てて、兄さんまでも、…殺したんだよ!」
「!?」
余りの事に、サーシャは言葉を失ってしまった。
「あの二人は何も、本当に何もしていないんだよ。
ただ自分の身を守る為に抵抗したり、真実を知ろうとしただけなんだよ。
それだけで、…それだけであの二人は虫けらのように呆気なく殺されてしまったんだ。
…なのに、二人も殺したのに、その高位貴族の男はその身分故に罪に問われる事は無かったんだよ。」
「そんな…。」
「許せなかった。何の落ち度も無い、大切な兄さんと姉さんを無残に殺した男が何の罪に問われる事も無く、なに食わぬ顔でのうのうと生きていくなんて…!」
そう呟くジーフェスの表情は更に怒りに歪み、その澄んだ翠の瞳は強い憎しみの様相に満ちていた。
「ジーフェス、様…。」
いつもは穏やかな彼の、そんな激しい姿を見たサーシャは初めて見た彼のもうひとつの一面にぞくり、と恐怖に背中を震わせ、たじろいてしまった。
そんなサーシャの様子に気付き、ジーフェスははっと我に帰り、憎しみの表情を緩め、少し落ち着いた表情を浮かべた。
「申し訳ありません。つい感情的になってしまって、貴女を怖がらせてしまいましたね…、」
「いえ…、そんな事は…。そんな、辛いことがありましたら感情的になっても仕方ありませんわ。」
「すみません…。」
一言謝ると、二人とも再び暫く黙っていたが、
「…俺はどうしてもその男を許せなかった。
地位の高い者が何の罪の無い地位の低い者を蹂躙し殺すことがまかり通るこの世の中の、フェルティ国の中に蔓延している理不尽を許せなかった…。」
そしてふう、と一息つくと、ふとサーシャのほうを見て真剣な表情を浮かべた。
「ジーフェス様…。」
その翠の瞳の奥には、確固たる意志と、そして深い哀しみの色が浮かんでいた。
「…そして俺は恨みの余りに、医師として最大の禁忌を犯してしまったんだよ。」
「!?」
…医師としての、禁忌…、それって、一体…?
始めサーシャはそれが何か解らずに少し考えたが、先程までの会話の内容を思い返していくうちに、そしてそれが何なのか、薄々と感じてしまいその余りの事に表情を強張らせ、恐怖の眼差しを浮かべ身体を震わせた。
「まさか…、まさかジーフェス様…!?」
震える声でそう問いかけるサーシャに対し、ジーフェスは先程とはうって変わって、何故か穏やかな表情を浮かべ、だが残酷な一言を告げた。
「そう、俺は医師の技術を使って、その男を殺したんだよ。」