第6章Ⅳ:嘘と真実の間
「…貴方はまだ生きるべきです。貴方はまだ神の身許に行くべき人間ではありません。」
…ここはライザが勤める診療所の中の小さな待合室。周りをライザやジーフェス、そして見知らぬ老女や中年の男女が見守る中、サーシャはソファーに座って同じく向かい合わせに座っている、ひとりの老人に優しくそう諭していた。
「おお…!」
「まだ貴方にはこの地でやるべき事が残っています。待っている者達がいます。」
その言葉に周りにいた老女や中年の男女達がうんうんと頷いた。
「そうですよおまえさん。まだまだあんたは死ぬべき人間じゃないよ。」
「そうだよ親父。こうやってわざわざ地母神イシター様の御使いが来てくださって、御告げをしてくださるんだからさ、ちゃんとライザ先生の治療を受けてくれよ。」
息子の言葉に、老人は目に涙を浮かべて頷いた。
「地母神様の御告げを聞けるとは、何と有り難き幸せ。儂が間違っておりました。どうか治療をお願い致します。」
老人は隣にいたライザに頭を下げてそう乞うた。
「ありがとうございます。では一度奥の診察室で身体を診察させて頂きますので、こちらに移動お願いします。
直ぐに終わりますので御家族の方はここでお待ち下さい。」
「はい。」
「ありがとうございます。」
ライザの言葉に老人達は素直に頷き、老人はゆっくりソファーから立ち上がってライザと一緒に奥の部屋へと入っていった。
「ありがとうございます御嬢さん。」
老人の姿が見えなくなると、老女はサーシャに向かって頭を下げて感謝した。
「いえ…、」
「いや、本当に助かりました。全くあの頑固親父、治療なんぞ受けないと強情張ってしまって困ってたんですよ。
だけど、こんなにイシター様に似ている御方がいるなんてなあ…、」
「本当に、ありがとうございます。」
と、先程の老人の身内の老女、中年の男女が揃ってサーシャに何度も頭を下げるものだから、当のサーシャは恥ずかしいやらいたたまれないやら…。
「あ、あの私、本当に何もしていませんから…、」
“こんな風に人に感謝されるなんて、私なんて神様どころか、みそっかすな王族なのに…。”
おろおろと焦るサーシャの様子を見ていたジーフェスは思わずくすくす笑いだしてしまっていた。
「皆さん、彼女は神様でも何でもありませんよ。
彼女はごく普通の女性で、俺の奥さんなのですよ。」
とジーフェスがやっとのことで助け船を出してきた。
「へえ?!団長さんの奥さんでしたかあ〜。そりゃ知らなかった。」
「全くお前さんは。この前噂になっていたでしょう?団長さんにアクリウム国から可愛いお嫁さんが来たって。御披露目会までしてたんだよ。」
「ああ、お前何か言ってたなあ。折角の御披露目会なのに仕事が入ったせいで行けないのどうとか…、」
そんな感じで話をしていると、かちゃりと診察室の扉が開いてライザと老人が姿を現した。
「親父っ!」
「あんた、…ライザ先生、どうですかうちのひとの具合は?」
心配そうな表情を浮かべる家族達に向かってライザは優しく微笑んだ。
「ちょっとした胃腸の乱れですね。大したことではありませんでしたよ。」
「おお…!」
その言葉に、皆がほっと安堵のため息をついた。
「良かったですね。」
サーシャも自分のことのように嬉しそうに微笑んだ。
「これもイシター様の御導きのお陰です。」
老人が礼を述べてサーシャに頭を下げた。
「…ただかなりの御年齢ですので、この程度の胃腸の乱れでも時として生命に関わる事もあります。
今回はこの薬の服用のみで大丈夫ですが、やはり定期的に診察に来て頂くことをお奨めいたします。」
ライザの真剣な言い方に、老人も家族の皆が頷いた。
「はい。検討いたします。」
その言葉にライザはほっと安心し、薬を老女に手渡した。
「この薬を御主人に1日3回、食事前に飲ませて下さい。薬が無くなってもまだ調子が悪い時はいつでも診察に来て下さい。」
「はい。ありがとうございました。」
薬を受け取ると、老女と家族は礼をして、ゆっくりと診療所を後にした。
「ふうーーっ、やあっと落ち着いたわねぇ〜。」
家族が出ていった後、ライザははあーっ、とため息をついて安心したように呟いた。
「全くだ、いきなりサーシャ殿に女神様になれとか言うから何事かと思えば…、」
呆れたような冷たい視線を向けながらジーフェスが文句を言う。
「だって仕方なかったのよ。朝一番であの家族がこの診療所に強引にあの老人を連れてきて、
お爺さんのほうは『医者の世話にはならん!』の一点張りだったし、
家族は家族で『一度は医者に診てもらわないと死んでしまうよ!』て、お互いに一歩も譲らず、まさに押し問答だったのよ。」
「でも、よくあれで落ち着いたな。」
「ここの家族は遥か南の土着神を深く信仰しているとは聞いていたの。
で、そこの一番の神様である地母神イシター様が白肌で銀髪の少女の姿をしていると聞いて、サーシャを思い出したのよ。」
「…で、サーシャ殿をそのイシター神に仕立てて、老人に御告げならぬ説得をして治療を勧めさせた訳か…。」
「そういう事。まさかここまで上手くいくとは思わなかったけどね。神様の力って凄いわよね。」
そして二人してちらりとサーシャを見つめた。
「いきなりでごめんなさいねサーシャ。でも貴女のお陰で本当に助かったわ。ありがとう。」
「い、いえ…、」
頭を下げて礼を述べるライザに、サーシャはちょっと複雑な気持ちだった。
「でも、いくら人助けとはいえ、神様のふりをして騙すことになってしまって…、」
“あのお爺さん、本当に私のことを神様と信じていたみたいだったし…、”
「嘘も方便よ。こういう嘘なら許される事よ。」
だがライザは軽くそう言い、くすっと笑った。
「でも…、」
“いくら人助けとはいえ、神の名を語って偽ることなど、彼等と一緒で赦されるべき事では無いわよね。”
以前聞いたワラフォーム教団のことを思い出し、サーシャは罪悪感で胸を痛めた。
「サーシャ殿、貴女の気持ちも解ります。
ですが真実のままであの老人に治療出来ずに体調を悪化させてしまうより、神の名を使って嘘をついてでも治療させて治して良かったと俺は思っています。」
「ジーフェス様…。」
「貴女はすべき事をしてくれました。それに対して誰も非難は出来ません。」
ジーフェスの言葉のひとつひとつがサーシャの胸に響き、それは今まで感じていた嘘への罪悪感を少しずつ和らげてくれた。
「…ありがとうございます。そうですね。そう考えると少しは楽になります。」
サーシャの言葉にジーフェスはほっと安心したようにため息をついた。
「何、貴方達。御披露目会の時も思ったけど、何でそんな他人行儀な話し方してるのよ?
貴方達夫婦なんでしょ?何でもっとこう、リラックスしたというか…、親密な話し方しないのよ?」
二人の会話を聞いていたライザが突然顔を歪めてそんな事を尋ねてきたものだから、二人してはっとなってしまった。
「え…、私は別に普通に話をしているつもりですが…、」
「俺も別に気にしてる程でも無いぞ。」
二人して否定するその様子に、ライザははあ、と呆れたように深くため息をついた。
「もしかしたらサーシャはそれが本質なのかもしれないけど…、ジーフェス、あんたはかなりサーシャに遠慮してるわね。」
…え!?
「…は?!」
その一言に表情を不快感に歪めるジーフェスに対して尚も続ける。
「あんたと私が何年つきあってると思ってるの?あんたのサーシャに対する態度は、まるで傷をつけないように大切にし過ぎている、壊れ物を扱うようなそのものじゃ無いの。それが心を許しあった人に対する態度?私から見たら可笑しいわよ。」
「!」
「…!?」
ライザのその一言はジーフェスの、そしてサーシャの心に深く刻み込まれ、そしてそれはある意味的を得ていた。
「ライザさん。ジーフェス様は私の為を思って優しくしてくださっているんです。アクリウム国から独りぼっちでジーフェス様のもとに花嫁として来た私に対して、不快な思いをさせないようにと…、」
「それでもちょっと可笑しいわよ。何でそこまで異常に気を遣う必要があるの?
私から見たら、貴方達って夫婦というより、他人の、ただの同居人しか見えないわよ。」
「…人の事についてお前にとやかく言われる筋合いは無い。
俺は仕事に行ってくる。直ぐに迎えが来る筈だからそれまでサーシャ殿を預かっていてくれ。」
「はいはい、相変わらず都合が悪いことは無視なのね…、良いわよ。」
そしてライザはちらりとサーシャのほうを振り向き、にっこり微笑んだ。
「サーシャ、これから私と一緒にお茶しましょうか。」
「え、あ、はい…。あの、ライザさんお仕事は?」
不思議そうにそう尋ねると、
「今日はお休み。さっきのような急患は受け付けるからこの場は動けないけど、基本はお休みよ。」
「そう、ですか。」
そんな中、ジーフェスはふっと彼女に笑いかけた。
「すみませんサーシャ殿、直ぐにタフタが迎えに来ますので、暫くの間ここで待っていて下さい。」
「はい…。」
それだけ言って、ジーフェスはゆっくりと診察室から出ていった。
「……。」
“…やっぱり、ジーフェス様は私に気を遣って下さっていたのですね。”
そう思うと、先日の告白もサーシャの中でなんとなく理由がついてくるのだった。
“やっぱり、あの時のジーフェス様の告白も私の事を気遣ってのものなのね。
恐らく、フェラク様からアルテリア兄様の事を聞いて、悲しむ私を慰めようとして、あのような事を言ってしまわれたのね…。きっと…。
そうよね、私なんか、アクリウム国の王族でもみそっかすな私なんかをジーフェス様が好きになる筈が無いわよね…。”
そう考えると、サーシャの心の内はどんよりと暗く悲しい気持ちになってきていた。
「さあ、こっちに来て。奥に小さいけど私の部屋があるのよ。」
そんなサーシャの様子を見たライザは何とも言えない表情を浮かべながらも、ゆっくりとサーシャを奥へと案内してお茶の準備を始めていった。
*
…診療所の奥にある小さな私室、
そこにある小さなテーブルの上には温かな湯気のあがる紅茶の入ったポットと手作りとおぼしきクッキーにタフィーの入った籠、そしてシンプルなデザインのティーカップが二つ並べられていた。
「大したお茶菓子が無くてごめんなさいね。」
紅茶をカップに注ぎながらライザがちょっと申し訳なさそうに呟いた。
「いえ、そんなことは無いですよ。」
にっこりと笑いながらサーシャはライザから紅茶の入ったカップを受け取り、ゆっくり口をつけた。
優しく温かな湯気がサーシャの鼻をくすぐる。
「美味しい。少しハーブを足しているのですね。」
「当たり、カモミールよ。心を落ち着かせる効果があるのよ。」
ライザも嬉しそうに微笑みながら紅茶に口つけた。
「カモミールは鬱の患者さんに効果があるから、裏の小さな庭で栽培してるの。他にもミントやベルガモットやレモングラスとかね。」
「そうなのですか…。」
…確かに、先程よりも何となくだが少しずつ心が落ち着くのを感じているサーシャ。
少しずつだが部屋の中を見回す余裕も出てきて、辺りを見回すと、大人びたライザの見かけによらず、可愛らしい人形や小物が沢山置かれていて、サーシャにはちょっと意外であった。
「とても可愛らしいお部屋ですね。」
サーシャがそう言うと、ライザはちょっと照れたような恥ずかしいような表情を浮かべた。
「少女趣味みたいな部屋でしょう。ほら私、見た目背も高くて、こんな男勝りみたいな顔立ちをしてるじゃない。だから小さい時からリボンやフリルとか、こんな可愛らしい小物が似合わない女だったのよね。」
ははは、と苦笑いしながら紅茶を一口すすった。
「そんな事は…、」
「だから小さい時からこんな可愛らしいリボンやフリルなどの小物が似合う、正にサーシャのような、お人形さんのような女の子に憧れていたのよね。」
「…え?!」
驚くサーシャに、ライザはにっこりと微笑んだ。
「いいわねサーシャは、本当に可愛くて華奢で、いかにも守ってあげたいっ!な感じが身体じゅうから出ていて。きっと故郷でも大切にされてきたんじゃない?」
「いえ、そんな事は…、」
だって私は、祖国アクリウムではいつもみそっかすのように言われてきたんですもの…。
『ジェスタ女王やメリンダ王女のような王族に相応しい風格も知性も無くて、おまけにアクリウム王族特有の“力”も無いとは…。本当に王族としての血を引いておられるのか?』
『全く、先代の巫女様からも忌み児と予言された御方だしな、こう言うのは何だがサーシャ様はアクリウム王族の恥だな。
まあ、“神託”で他国との王族なり豪族との政略結婚でその存在を示すくらいしか役に立たないかな。』
“私はアクリウム国にとっては、アクリウム王族にとっては必要の無い、恥ずべき存在だった。
そんな私がここフェルティ国ではジーフェス様をはじめ、ポーさんやエレーヌさん、そして他の皆さんからも大切にされている。
…でもそれは本当に私自身を大切にしているのだろうか?
皆さんは私自身ではなくて、アクリウム国の王女という肩書きだけを大切にされているのではないのかしら?
…ジーフェス様も、多分…。”
「……。」
昔と今現在の事を思い返してちょっと落ち込んでしまったサーシャに、ふとライザがぽつりと呟いた。
「ねえサーシャ、貴女は私をどう思っているか知らないけど、私は貴女が好きよ。」
「え?!」
いきなりそんな事を言われて驚く彼女に、ライザはくすっと笑って続けた。
「だってサーシャ、とても可愛くて華奢で愛らしくて、本当に優しくて、…何かこう、見ているだけでほわんと心が暖かくなって慰められるというか、癒されるのよね。」
「そんな、私なんてライザさんのように美人でも無いし、身体つきも子供っぽくてぼんやりしていて何の取り柄も無いし…、」
「そんな事無いわよ。貴女は私が持ってないものを全部持ってるわ。無償の優しさや居るだけで人を和ませることの出来る雰囲気、そして温かさ。
だから私は貴女がとても羨ましいのよね。」
「……。」
その言葉を聞いて、ふとサーシャはある人物の言葉を思い出した。
『サーシャ、貴女は貴女で良いところが沢山あるのよ。私には持っていない、可愛らしさや優しさ、そして暖かな微笑み。それは全部私が無いものであって、私にとって慰めであり癒しであって、そして必要なものなのよ。
だからサーシャ、自分がみそっかすだとか落ちこぼれなんて思う必要な無いのよ。貴女は貴女らしく堂々と自分自身を貫いて良いのよ。』
…メリンダ姉様。
“ああ、ライザさんは本当にメリンダ姉様に似ているのね。
私が欲しい言葉をくれて、私をちゃんと見てくれて、私の良い所を認めてくれているのね…。”
ジーフェスとはまた違った温かい優しさを感じて、サーシャはふとライザとメリンダとを重ねて見ていた。
…姉様のようにとても優しくて安心出来て、でも、姉様とは違う…。
「…サーシャ?!一体どうしたのサーシャ?」
「…え?!」
いつの間にか、サーシャは気付かないうちにその碧い瞳からぽろぽろと涙を溢していた。
その姿を見たライザは、いきなりの事で驚き、思わず上擦った声をあげてしまっていた。
「あ…、」
サーシャ自身もライザに言われるまで、自分が泣いている事に気付いていなかったらしく、頬を流れる涙に触れて、初めて自身の事を知った。
「私、私…っ…!」
「サーシャ、ねえサーシャ一体どうしたの?」
ライザの少し不安げな、だが優しい声が、サーシャの中の頑なな心の鎖をほどいていく。
…苦しい、悲しい。
こんな気持ち、もう、耐えられない…!
「ひっく、…私、解らない。どうしたいのか、ひっく、…ジーフェス様と、どうなりたいのか、全然、解らないの…っ!
苦しいの、悲しいの…っ!」
「サーシャ…、」
綺麗な涙をぽろぽろと溢しながら、サーシャはライザの前で嗚咽を洩らし、ただただ顔を俯いて泣き続けていった。