第6章Ⅲ:歪み
「……。」
その日、ジーフェスは仕事場である自衛団の庁舎でひたすら黙ったまま目の前にある書類に目を通し、印を押したり脇に置いたりして仕事をこなしていた。
「なあ、団長どうしたんだ?」
「わからん。何か変だよな最近の団長は。」
脇にいた若い団員達は普段とは全く違ったジーフェスの様子を珍しそうに、そして少しおっかなびっくりに遠目で眺めていた。
「団長、これで目を通すべき書類は終わりになります。」
「ありがとう。」
副団長サンドルの手から最後の書類を受け取ると、ジーフェスは再びひたすら書類に目を通した。
「……。」
だが書類に目を通す間も、ジーフェスはあの時の事が忘れられずにいた。
“…あの時のサーシャ殿の表情…、驚いたような、怯えたような…。”
…あの日…、
『俺はサーシャ殿、貴女のことが好きです。』
…ただ一言、一言で彼女に対する自分の想いの全てを彼女に告げた。
多分、多分彼女も、最近の態度から見て俺のことを少なからず想っていてくれている筈。
だから、拒んだり嫌がることは無いだろう。
…そう、俺は思い込んでいた。
けど、それは思い込んでいただけだった。
『……。』
彼女の反応は意外なものだった。
俺の告白を聞いた彼女は、驚いた表情を浮かべて俺を見たかと思うと、直ぐにその顔を伏せ、弱々しい声で呟いた。
『…なさい。』
『?』
『ごめん、なさい。私、私…っ!』
そして彼女は俺の手を振りほどいて踵を返すと、振り向きもせずに逃げ出すかのように部屋に戻ってしまった。
『……。』
“何故なんだ?何故彼女は逃げてしまったのだろう?”
あの時以来、サーシャはジーフェスとまともに会話をする事も無くなり、ずっと部屋に籠ってしまって必要最低限しか姿を見せなくなっていた。
“もしかしたら俺がいきなり告白してしまったから、サーシャ殿は戸惑っているのかもしれない。
いや、本当はサーシャ殿は俺の事なんか何とも想ってなくて、いきなり告白した俺を怖いと思っているのかもしれない。
彼女の気持ちを考えてない俺のことを嫌いになったのかもしれない…!”
ぐるぐると、ジーフェスの頭の中でいらぬ妄想が次々と浮かんできてしまい、思わず手にしていた羽ペンをばきっと握り潰してしまった。
「団長、どうしましたか?」
サンドルの声にジーフェスははっと我に帰り、周りを見回した。
「…大丈夫ですか団長。いきなりこんな大量の書類を整理したから疲れているのではありませんか?」
「あ、いや、大丈夫だ…。」
“しっかりしろジーフェス!俺らしくないぞ!仕事に私情を挟むなんて、最低じゃないか!”
気合いを取り戻すように、ジーフェスはぶんぶんと頭を振って椅子から立ち上がった。
「すまない、ちょっと見廻りも兼ねて出掛けてくる。夕方までには戻ってくるから。」
「解りました。こちらのほうは私がみておきますので、団長は少し気分を変えて海のほうにでも見廻りに行ってみて下さい。」
サンドルの遠回しの気遣いに、他の団員もうんうんと頷いていた。
「ありがとうございます、サンドル殿。」
ジーフェスは副団長達の気遣いに感謝しつつ、庁舎から出ていった。
*
一方、屋敷の自室に居るサーシャ、
「……。」
あの時以来、サーシャはジーフェスと二人きりになるのを避けてきていた。
“…ジーフェス様…。”
サーシャははあ、とため息をついた。
“何故、あんな事をしてしまったのかしら…。”
あの時の事を思い出し、サーシャはますます重いため息をついた。
『好きです、サーシャ殿…。』
あの時、本当は嬉しかった。
ジーフェス様が、自分の事を見ていてくれて、そして自分の事を好きになってくれて…。
でも、あの時のジーフェス様の瞳、
あれは寂しそうな、そして少し躊躇いの混じった瞳…。
“でももしかしたら、ジーフェス様はフェラク様からアクリウム国での過去の私の話を聞いて、単なる同情で私のことを好きになっているだけかもしれない…!”
…怖かった。それを知るのが怖くて、思わず逃げてしまった。
サーシャは苦しくて胸元辺りをぎゅっ、と握り締めた。
“好き、私もジーフェス様が好き。でも、…怖い。何故か、何か全てが変わってしまいそうで、それが嫌で、怖い…!”
サーシャは得も知れぬ恐怖に襲われていた。
“ずっと、このままでいられたら良かった。普通に接していられるだけでも…、普通に他愛も無い話をして、食事して笑って…、
でも、やっぱり嫌だった。もっと、もっと自分を見て欲しい。自分を知って欲しい。自分を、自分だけを、好きに、なって欲しい…。
でも怖い、このまま変わってしまうのが怖い。もうもとに戻れなくなるのが、怖い…。
どうしたら良いの?一体私はジーフェス様に何を望んでいるの?”
サーシャの胸の中には、嬉しい気持ちと未知への恐怖の気持ちと、相反するふたつの気持ちが支配していて、それは今の彼女を不安に陥れているのであった。
『コンコン』
突然聞こえてきたノックの音に、サーシャはびくっ、と身体を震わせ、我に帰った。
「は、はいっ!」
「サーシャ様、御手紙が届いておりますが…。」
ポーの意外な言葉に、サーシャは驚き、急いで部屋の扉を開けた。
「私に、ですか?」
「はい、こちらに。」
そう言うと、ポーは持っていた1通の手紙をサーシャに渡した。
「…?!」
手紙を受け取り、一体誰からだろうと思いながら封筒の裏側を見たサーシャは、その差出人の名前を見てぱあっと表情を明るくした。
「メリンダ姉様からの手紙だわ!ありがとうポーさん!」
それは祖国にいる姉メリンダからの手紙であった。
「いえ、では失礼いたします。」
手紙を渡し終えたポーは喜ぶサーシャの姿に口元を緩め、一礼すると部屋を後にした。
「久しぶりだわ!姉様、元気でいらっしゃるのかしら!」
ソファーに座るとサーシャはわくわくしながら封を切り、中身を取り出して広げてみた。
『親愛なる妹サーシャへ、
元気でいますか?私は元気にしています。
こちらは相変わらずの日々が続いています…、』
障りの無い文章から始まったその手紙は、だがサーシャの心に暖かさとアクリウム国への懐かしさを思い出させた。
“姉様…、私もここの生活に慣れるのに精一杯で連絡ひとつして来なかったわね…、ごめんなさい姉様。”
『…まだはっきりとは決まってませんが、近々仕事の関係でそちらの国へ行くことになりそうです。』
「え…!?」
思いもよらない文面に、サーシャは思わず声を出してしまった。
『…そちらの国で仕事を終えたら、貴女とジーフェス殿に逢いに行こうと考えております。その際はよろしくお願いね。』
「ええっ!」
そして思わず大声で叫んでソファーから立ち上がってしまった。
「嘘、姉様がここに来るの!」
みるみるうちに表情を明るくして、にっこりと笑みを浮かべると嬉しさの余り恥ずかしげも無くその場を跳び跳ねてしまった。
「姉様、姉様!嬉しいっ!姉様に逢えるのねっ!」
手紙を抱きしめながら、サーシャは暫くの間嬉しさに部屋を飛び回っていたのであった。
*
一方、こちらはジーフェス。
彼は今海辺では無く、王宮の裏、北の森の木々が深くおい茂る、とある場所に来ていた。
「……。」
人気の全く無いその場所で、ジーフェスは独り草むらに寝転がって木々の間から射し込む陽の光を見ていた。
“俺は何がしたいのだろう?俺は何を望んでいるのだろう?”
「…サーシャ…、」
…彼女が笑っている姿、怒って拗ねている姿、感情に任せて怒り叫ぶ姿…、
陽射しの中で浮かんでくるのは、どれも彼女のことばかりだった。
“…彼女の行動から、大丈夫かと思っていた。もう一歩進んでみても大丈夫かと思っていた。
けど、…まだ早過ぎたのだろうか?”
あの時の、想いを告白した時、躊躇ってるような、怯えたような表情をしたサーシャの事を思い出し、ジーフェスは胸を痛めた。
“あんな表情をするなんて思わなかった。あんな、怯えたような…、
…俺は勘違いしていただけなのだろうか?サーシャ殿に好かれていると、独り勝手に誤解していただけなのだろうか?”
そして傍らにあった草をぎゅっと握り締め、引きちぎった。
“言わなければ良かった。こんな状態になる位なら、いっそのこと胸の内に秘めたまま過ごしてしまえば良かった。
…でも、もう引き戻れない。
どうしたら良いんだ?俺はどうしたら良いんだろう…?”
…結局結論が出ないまま、ぐるぐると澱んだ感情を抱いたまま、ジーフェスはただただ空を見上げているだけしか出来なかった。
*
「ただいま。」
夕方近くに屋敷に戻ったジーフェス。
「お帰りなさいませ。」
「お帰りなさい。」
「!?」
久しぶりの出迎えに、ジーフェスはびっくりしてサーシャのほうをまじまじと見てしまった。
ジーフェスの目に映ったサーシャは、とても嬉しそうな笑みを浮かべて、一目で何か良いことがあったとありありと解る程だった。
「何がありましたかサーシャ殿?そんなに嬉しそうにして。」
驚いたままの表情でジーフェスが質問すると、サーシャは嬉しそうな表情のまま答えた。
「はい、今日メリンダ姉様から手紙が来たのです。」
「メリンダ殿から?!」
「はい、手紙の内容に、近々仕事の為にここに来るとの事が書かれていたのです。」
飛び上がらんばかりの嬉しさでサーシャは話をしていたが、次には何故か少し遠慮がちな瞳で続けていった。
「それで、是非姉様をこの屋敷に呼びたいのですけど、…その、この屋敷に泊めさせても、宜しいでしょうか?」
そんなサーシャの様子がちょっと可愛らしくて、思わずジーフェスはぽっとなってしまって見とれてしまった。
「別に構いませんが、逆にこの屋敷で良いのですか?
ここは王宮と全く違って小さく手狭ですから、メリンダ殿に充分なもてなしが出来るかどうか…。」
逆に不安げにジーフェスのほうが問いかけてしまった。
「それは大丈夫です。姉様も私と一緒にここでゆっくり話をしたいと書いてましたし、何より姉様はジーフェス様にお逢いしたいみたいですよ。」
「……。」
そんな事を言われると何と返事して良いか解らず、思わず複雑な表情を浮かべてしまった。
“お逢いしたい、ね…。”
噂では仕事上でひとまわり近く歳上であるアルザスと同等に張り合える程非常に高い知能と、王族に相応しい凛とした堂々たる態度と美貌の持ち主と言われているメリンダ。
そんな彼女がジーフェスを見た時の反応を考えてると、何となく想像がついてちょっとげんなりとしてくるのであった。
「俺は構いませんよ。サーシャ殿も久しぶりに姉妹水入らずで過ごされると良いですよ。」
その言葉を聞いて、サーシャはぱあっと表情を明るくした。
「ありがとうございますジーフェス様!」
数日ぶりに見た彼女の笑顔に、ジーフェスもつい笑みが溢れてしまう。
“良かった。彼女も少しは気分が変わって明るくなって…。”
だが安心していた二人の間に、思わぬ邪魔が入ってしまった。
「あ、おかえりなさい旦那様。サーシャ様もお出迎えなんて久しぶりですね〜。仲直りしたんですかあ?」
にやにやしながら傍を通りかかったエレーヌが言った一言に二人ともびっくりし、特にサーシャは顔を赤くしてジーフェスから離れていった。
「あ、す、すみません。その…、失礼します。」
再び今までのことを思い出したように、サーシャは恥ずかしげに俯きながら駆け足で自分の部屋に戻ってしまった。
「……あ。」
「……。」
あとに取り残されたジーフェスとポーはただただ絶句。
「…あれ?、私、何か余計な事を言ってしまった、かな…?」
今更ながら自分の失言に気付いて苦笑いしているエレーヌ。
そんな彼女を見て、ジーフェスとポーははあ、と深くため息をついてしまったのであった。
*
翌日、
相変わらずよそよそしい態度で朝食をとっているジーフェスとサーシャ。
お互いに何とも会話も出ずに、ただただ黙々と食事をするだけである。
“…このままではいけないとは解っているけど…。”
サーシャは食事の最中にも、ジーフェスの事が気になって仕方がないのであった。
「…ごちそうさま。」
そっけなくそう呟き、椅子から立ち上がるとジーフェスはちらりとサーシャを見て、くるりと後ろを振り向いて部屋から出ていってしまった。
「……。」
“…何やっているんだ俺は。
何か話をすれば良いのに。何か、些細な出来事でも話せたら良いのに…。”
「……。」
そうは思っていても、何も言えずに仕方なく職場に行く準備をして、玄関に向かっていた時、
『ちりりん』
と玄関のベルの音。
「誰だ?」
丁度玄関付近にいたジーフェスは、何の疑いも無くそのまま玄関の扉を開けた。
そして目の前にいたその人物を見て、微かに表情を歪めた。
「何でお前がこんな所にいるんだ?」
ジーフェスの目の前にいたのは、普段着の、ちょっと困ったような表情を浮かべているライザの姿だった。
「朝早くからごめんなさいね。サーシャは居るかしら?」
「居るけど、何の用だ?」
サーシャの名前を聞いて、今までの苛立ちもあってか、ちょっと八つ当たり気味に不機嫌に答えると、ライザはそんな彼の様子を気にすることも無い風であった。
「大至急サーシャに頼みたい事があるの!お願い、サーシャをちょっと連れ出しても良いかしら?」
本当に困った表情を浮かべ、切羽詰まったように懇願するライザの様子に、流石のジーフェスもその深刻さを感じ、真面目な顔付きになった。
「何があった?」
その時、丁度都合良くサーシャが他の用事で玄関付近を通りかかったものだから、それを見つけたライザはジーフェスを押し退け真っ直ぐにサーシャのもとに駆け寄っていった。
「おいっ!」
突き飛ばされて危うく転びそうになったジーフェスは思わずそう叫んでしまった。
「サーシャっ!」
「!?ラ、ライザさん、こんな朝早くから一体どうしたのですかっ!」
いきなりのライザの登場にびっくり仰天のサーシャはついつい大きな声が出てしまった。
だが、ライザはびっくり驚いているサーシャの両手をがしっと掴むと頭を下げて懇願してきた。
「サーシャ、今すぐに私と一緒に診療所に来てくれない!」
「…は、あ。」
いきなりの事で曖昧な返事しか出来ないサーシャに向かって、更にとんでもない事を言い放った。
「お願いサーシャ!今すぐに女神様になって!」
「「……は!?」」
その一言にサーシャも、そしてジーフェスも愕然としてしまい、開いた口が塞がらなかった。