第5章Ⅳ:交差する気持ち
ここ何日間か激しい雨の日が続き、時折雷鳴が空に響き渡る中、
「ここはこうやって、ああ、そうではなく、もっとしっかりと…、」
台所では、ハックがサーシャにお菓子の作り方を教えていた。
「はい。」
「そうそう、なかなか上手です。」
長雨の為に庭の手入れもままならず、暇をもて余していたサーシャを見かねてついハックが声をかけたのであった。
「サーシャ様ー、今日のお菓子は何ですかぁ?」
掃除をしていたエレーヌがひょこっと顔を出してきた。
「今日はシフォンケーキを作っています。」
にっこり笑って答えると、エレーヌは嬉しそうに呟いた。
「わ、久しぶりー。ハックさんのシフォンケーキは絶品なのよねー、サーシャ様、期待してますよー♪」
「これ!エレーヌっ!さぼっていないで早く掃除を済ませなさいっ!」
「うわ…、はーい。」
脇から聞こえてきたポーの叱責に、慌ててエレーヌは掃除を再開しはじめた。
「うん、上出来ですよサーシャ様。初めてでここまで出来るとは、なかなか筋が良いですよ。」
「ありがとうございます。ハックさんの教えが上手なおかげです。」
「ははは、いやいやサーシャ様に才能があるからですよ。さて、今から焼き始めましょう。」
「はい。」
型に流した生地を温めておいたオーブンに入れて蓋をした。
「これで1時間程一定の温度で焼くと出来上がりますよ。」
「楽しみですね。」
そう言って、ふとサーシャが聞いてきた。
「…やっぱり、甘さが控えめのシフォンケーキでもジーフェス様は召し上がらないのでしょうか?」
甘いものが苦手と聞いていたので、せめてクリームやジャムで甘さを補うシフォンケーキそのものならどうかと思い、敢えてハックに頼んで作ってみたのだが…、
「あー、だからこれにこだわっていたのですね。でも旦那様、多分シフォンケーキも駄目ですよ。」
だがハックの答えにサーシャはがっくりと肩を落とした。
“シフォンケーキなら大丈夫かと思っていたけど…、苦手なら仕方がないですわね。”
「…だったらちょっと難しいですけど、旦那様も食べられるお菓子を作ってみますか?。」
「え?」
驚くサーシャに、ハックはにやりと笑ってみせた。
「良いのですか?」
恐る恐る、だけどちょっと嬉しそうにサーシャが答える。
「勿論。…しかし自分もあんまり得意ではないから、失敗したらすみません。」
そしてお互いに顔を見合せながらくす、と笑った。
*
「ご馳走さん。」
仕事から戻り、サーシャと一緒に夕食をとっていたジーフェスは満足したように手を合わせた。
「どうでしたか、今夜の食事は?」
「ん、旨かったぞ。」
「それは良かったです。」
そしてハックはサーシャのほうを見て、にやりと笑みを浮かべた。
「実はですね旦那様、今日サーシャ様が旦那様の為にデザートを作られたのですよ。」
「…?」
首を傾げるジーフェスのもとに、ハックは食後の紅茶と、小さなデザート皿を主の前に差し出した。
デザート皿の上には、ちょっといびつな形をした、黒くて小さな、一応丸い物体が3個のっていた。
「…トリュフか?」
「はい、旦那様のお好みのオレンジピール入りです。自分も久しぶりに作ったのと、サーシャ様もお手伝いされた事もありまして、少しばかし不都合はありますけど…。」
控えめに呟くハック。
ふと見ると、サーシャも少し恥ずかしそうに、緊張した面持ちでジーフェスを見ていた。
「サーシャ殿も作るのを手伝ったのですか?」
「は、はい。…思っていた以上に難しくて、上手く出来なかったのですけど、良ければ食べてみて下さい…。」
「……。」
俯きがちに顔を赤くしてぽつりと呟く彼女が余りに可愛くていじらしくて、ジーフェスは不覚にもどきっとしてしまった。
“…か、可愛い…。”
「…あの、ジーフェス様?」
余りに見とれていたのか、不思議な表情を浮かべてサーシャが声をかけてきた。
「あ、いや…、いただきますね…。」
照れ隠しのように、彼女から視線を反らして慌ててトリュフを口に入れて、一口で食べてしまった。
「……。」
その様子をじっと見守るハックとサーシャ。
「……美味い。」
「え?」
「いや、美味しい。久しぶりに食べた、こんな美味しいトリュフは。」
ジーフェスのその一言に、ハックもサーシャもほっとしたような嬉しそうな表情を浮かべた。
「良かった。ジーフェス様が喜んでくれて。」
「いや、本当に美味しいです。初めて作ったとは思えませんよ。
サーシャ殿もひとつどうです?」
と皿を彼女のほうに差し出した、が、何故かサーシャは恥ずかしそうに顔を赤くして俯き、首を横に振ってしまった。
「?」
不思議に思っているところに、傍にいたエレーヌが割り込んできた。
「旦那様ぁ、サーシャ様は昼間に試食として召し上がったのですよー、」
そこまで言ったエレーヌは、何故か少し笑い顔になっていた。
「エレーヌさん…!」
そしてサーシャのほうは少し慌てたような、怒ったような荒げた声を出した。
「?」
「かなりの量のブランデーを使っていたせいなのかサーシャ様、ひとつ召し上がっただけで酔っぱらってしまわれたのですよ〜。」
「……。」
「もう!恥ずかしいから内緒にして下さいと言ったのに…!」
恥ずかしがるサーシャとは対照的に、エレーヌやハック、果てはポーまでもがくすくすと笑みを浮かべていた。
「いや、あの時のサーシャ様は面白かったですよ。
お酒に弱いのか、トリュフひとつで真っ赤になられてほわんとした表情をされて…、」
とハックはその時の様子を鮮明に話し出す。
「そうそうー、それに凄く饒舌になってしまって、旦那様のことをいっぱい話していましたよー!」
「…?」
「え、エレーヌさんっ!!」
不思議に首を傾げるジーフェスと、何故か真っ赤になって恥ずかしがって怒りだすサーシャ。
だがエレーヌは意地悪く、にやにやしながら尚も続ける。
「『ジーフェス様、このトリュフ気に入って下さるかしら?』とか、
『出来たら一緒にシフォンケーキ食べたかったです。』とか、
サーシャ様それはそれはもう、旦那様への愛、でいーっぱいの事を話してましたよー♪」
「……。」
「……!!」
その内容に驚いたようにジーフェスがサーシャを見ると、彼女はその視線から逃げるように、いよいよ真っ赤になって下を向いてしまっていた。
「あの、サーシャ殿…、」
「…わ、私、先に部屋に戻ってますっ!」
慌てたように椅子から音をたてて乱暴に立ち上がると、サーシャはそそくさとジーフェスと目を合わせる事もなく、その場から部屋に戻っていった。
「……。」
「貴方達、ちょっとからかい過ぎですよ、全く…、」
そう窘めるポーも、少し表情が緩んではいるが。
「だってサーシャ様、すっごく可愛いじゃないですか〜。まさに旦那様らぶらぶって感じで…、
あ、旦那様も顔が赤いですよー♪」
にやにやと意地悪な、ちょっと小悪魔的な笑みを向けてエレーヌが呟く。
「な…、俺はただ単にトリュフのアルコールにあてられただけだ!」
ジーフェスはちょっと照れ隠しに少し怒鳴り気味にそう言うと、残りのトリュフを口に入れて紅茶を飲んだ。
“サーシャ殿が、俺のことを…、”
…もしかしてもしかしなくても、サーシャ殿は…、
まさか!?
ある思いが頭に浮かんで、嬉しいような、だが信じられないような、そんな複雑な気持ちがジーフェスの心の中を占めていった。
…一方、部屋に戻ったサーシャのほうも複雑な思いのまま、身体をベッドに突っ伏した。
「もう!エレーヌさんったら…!」
どきどきどき…、
“…ジーフェス様…、”
話を聞いた時のジーフェス様の表情、
驚いたような、少し呆れたような…、
“恥ずかしいっ!何て思われたのだろう…、
何をしているのだろうと呆れたのかもしれないわ…”
…でも…、
『美味しいです。』
…ジーフェス様が、褒めてくれた…、
その時の事を思い出して、サーシャは心の中が熱くなるのを感じていた。
…喜んでもらえて、嬉しい…。
サーシャは恥ずかしながらも嬉しそうに独り微笑んで、そっと胸に手を当てた。
*
…王家の食事会まであと2日となったその日、
ずっと降り続いた雨が止み久しぶりに青空が広がる中、エレーヌは嬉しそうに裏庭に洗濯物を干していた。
「うわー、久しぶりの青空〜♪洗濯のやりがいもあるわー。」
裏庭一杯に洗濯物を干して屋敷に戻ろうとした彼女に、ふと1台の馬車の姿が見えた。
「…?」
…何だろう?
首を傾げながらも様子を見守っていると、予想通り馬車は屋敷の前で停まると、中からひとりの女性が現れた。
「あれ?あの人たしか…。」
エレーヌがそう呟くか、その女性は何やら大きな荷物を抱えて屋敷へと向かっていった。
『ちりりん』
屋敷の呼び鈴が鳴り、掃除をしていたポーが顔をあげた。
「はい。」
扉を開けると、そこには先日ドレスの作成の為にサーシャの採寸を行ったお針子のパードが大きな荷物を持って立っていた。
「突然で失礼いたします。先日依頼のありましたサーシャ様のドレスが出来上がりましたので、最終確認も兼ねて、出来たら後試着お願いしたいのですが、宜しいでしょうか?」
「左様ですか。わざわざ御苦労様です。サーシャ様に確認いたしますので、中で御待ち頂けますか。」
突然の来客にも動じず、ポーは客人を丁寧に客間へと案内しようとした。
「ありがとうございます。」
「エレーヌ、エレーヌ!」
「はーい!」
ポーに呼ばれて、エレーヌは慌てて外から戻ってきた。
「お客様がおみえになってるのでサーシャ様を御呼びして頂戴。先日のドレスを持ってみえられてますよ。」
「はーい。」
*
「ただいま。」
昼前だというのに、何故かジーフェスが自衛団の庁舎から自分の屋敷に戻ってきていた。
「おや旦那様、随分と早いお帰りですな。」
だが、そんなジーフェスを迎えてくれたのは、ポーでもエレーヌでもなく、台所からお茶のセットを持って出てきたハックだった。
「ハックか、いや、ちょっと用事で近くまで寄ったら屋敷の前に見慣れない馬車が目に着いたから気になってな、…誰か客人か?それにポーやエレーヌは?」
きょろきょろと辺りを見回してそう尋ねると、ハックはああ、という風な表情をした。
「あー、先程から王宮のお針子さんがお見えになっていて、何でもサーシャ様のドレスが完成して持ってきたんで、今お部屋でポーとエレーヌが付き添いの中、試着されてますよ。」
「ドレスの?!」
「はい。今からちょっとお茶を持っていくところですけど、旦那様も行かれますか?」
「……。」
ハックに聞かれる間もなく、ジーフェスは真っ直ぐにサーシャの部屋に向かっていった。
…部屋の近くまで来ると、エレーヌの高い声や聞き慣れない女性…恐らく宮中のお針子の、声が聞こえてきて、時折サーシャの話す声もする。
「おーい…、」
ちょっと控え目に声をかけて扉を叩いてみたが、反応が無い。
「……。」
その間に、お茶とお菓子の載ったワゴンを押してハックがやってきた。
「おや旦那様、何されてるんですか?」
「いや、呼んでも反応が無くてな…、」
するとああ、という風にハックは頷き、
「任せて下さいな。」
と小声で言うと、コンコンと扉をノックして一声、
「皆さん、一息ついてお茶でも如何ですか?マフィンもあります…、」
そう言い切るか否か、ばたばたと足音が聞こえてきてばん、と扉が開くと、案の定、エレーヌがにこにこと現れた。
「マフィンだってー!、て、あれ、何でここに旦那様がいるんですかー?」
ハックの隣にいたジーフェスの姿を見て不思議がるエレーヌ。
「仕事のついででちょっと近くまで寄ったんだよ。見慣れない馬車があったから何事かと思って…!」
そう言っていたジーフェスの視線が部屋の中に移って、そこで目にしたものに言葉を失い、目を見張った。
そこには、上質な絹で作られ紫色をベースとし、裾にいくにつれて濃いグラデーションとなっていく、肩を剥き出しにした上半身のラインを優しく浮かび上がらせたドレスを着ているサーシャの姿があった。
普段、フリルやレース等のあどけなく可愛らしさを強調した服装のとは違い、目の前の彼女は、あどけなさは多少残ってはいるものの、上半身は淡い胸の膨らみを持つ、女としての身体の線をあからさまに見せ、細い剥き出しの肩は仄かな色気さえも見せていた。
「……。」
普段とは違う彼女のその姿に、ジーフェスは微かな動揺とときめきを感じていた。
「おや坊っちゃま…?!」
サーシャの着付けを手伝っていたらしく、彼女の傍にいたポーが驚いたように声をかけた。
「…ジーフェス、様…?」
その声に気付いたのか、少し驚いた表情を浮かべてサーシャがその碧の瞳をジーフェスに向けて呟いた。
その表情すら、普段とは違う少し大人びた雰囲気を匂わせていて、ジーフェスを更にときめかせた。
「どうして今の時間にここに?お仕事は一体?」
「あ、いや…。」
“な、何を俺はどきどきしているんだ!?”
サーシャに見とれてしまった余りに、ジーフェスはその質問にさえまともに答えられなくなっていた。
「旦那様は仕事で屋敷の近くまで寄ったのですよ。
ささ、皆さんお茶を入れましたので一息ついて下さいませ。」
そんな彼の様子を見ていたハックはにやにやしながら代わりに質問に答えて、皆にお茶を勧めた。
「はーい♪私疲れましたよー。皆さんもちょっとひと休みしてお茶しましょうよー。」
ねーねーと、エレーヌがすがるようにお願いするものだから、他の皆は半ばその姿に苦笑いしながらも頷いた。
「そうですね、少しひと休みしましょうか。パード様もお茶どうぞ。」
ポーの一言に、サーシャの裾がもぞもぞと動いて、ちょうど彼女の足下の裏から中年の女性が姿を現した。
「お誘いありがとうございます。ですが補正箇所の印付けも終わりましたので、明日までに間に合うよう今から仕事場に戻って早急に補正いたしますね。
ああ、サーシャ様ありがとうございます。服は脱いで頂けますでしょうか?」
「あ、はい。」
それからちらり、と中年の女性、パードはジーフェスのほうを振り向いた。
「ジーフェス様、この場で失礼致します。サーシャ様のドレスの補正を行っておりました次第です。」
パードが恭しく礼をしながらそう告げた。
「あ、いや、ご苦労様。
…き、着替えるのならば、俺達は外に出とくとしようか。」
慌てたように照れ隠しにジーフェスが隣にいたハックを引っ張って部屋から外に出ていって扉を閉めた。
「……。」
ハックは驚いたように主人を見て、そしてにやりと笑いを浮かべた。
「旦那様、顔が赤いですよ。」
その一言に、ジーフェスははっ、となって口元を手で隠した。
「…な!何を…?!」
「サーシャ様お綺麗でしたよね。普段のあどけなくて可愛らしい様子とは違って、大人びた雰囲気で、ほんのりと女性らしい色気も見せるような…、」
「……!」
意味深な、にやにやしたハックの視線に思わずジーフェスは目を反らしてしまった。
「改めて惚れ直しましたかな、旦那様?」
「…っ!し、仕事に戻るっ!」
相変わらずにやにや笑うハックを睨み付け、だけど何も言い返せずにジーフェスは逃げるようにその場を後にした。
「…若いですねー。」
腕組みをしながら、ハックは主人の後ろ姿を見送りながらそう呟いた。
「……。」
『惚れ直しましたか?』
歩いて自衛団の庁舎に向かっていたジーフェスは、ハックのその一言が頭の中でぐるぐると渦巻いていた。
“惚れ直した、だと…?
まるで俺がサーシャ殿のことを好きだと言うような言い方ではないか…!”
そして、ふと足を止めた。
…サーシャ殿を、好き…!?
“俺が、サーシャ殿を…!?”
ジーフェスの頭の中を、ぐるぐると様々な事柄が渦巻いて、更に彼を混乱させた。
…好き、なのか…?俺は、本当にサーシャ殿が好きなのか…?