第2章Ⅵ:劣等感と本音
『…シャ…、サーシャ…。』
アクリウム国の、花いっぱいの庭園で、誰かが呼んでいる。
『サーシャ、どうしたんだい?』
そこには、優しい微笑みを浮かべたひとりの若い男性がいた。
『帰りたいの。』
『?』
『帰りたいの、アクリウム国に。』
『どうして?』
『だって、ここでも、誰も私を見てくれない。皆、姉様と私を比較するの。』
『そうなの?』
『…お兄様、だけなの、私をきちんと見てくれるのは。だから、ここにいても良い?』
するとその男性は少し寂しそうな表情をした。
『駄目だよサーシャ、解っているだろう。僕はもう…。』
『……。』
『話をしてごらん。』
『?!』
『きちんと話をしてごらん。殻に閉じ籠って、勝手に想像だけで人を判断したら、前には進めないよ。』
『でも、怖い…。』
『大丈夫、君の旦那様は凄く良い人だよ。だって、彼はライアス様と同じ翠の瞳の持ち主だからね。』
『!』
『先ずはサーシャ、君が信じないとね。』
そう言って、その男性は優しく微笑みながら、ゆっくりとその姿を消していった。
周りの景色も、ゆっくりと消えていって。
そして…。
*
「……。」
サーシャが気付いた時は、外は夕方の空色に染まり、一番星が瞬きはじめていた。
ここ、は。
“ああ、そうか。ここはもうアクリウム国ではないのね。”
「……。」
『サーシャ。』
“優しい、お兄様。もう、二度と逢えない。”
現実に戻らされて、知らず知らずのうちに、サーシャの瞳に涙が浮かんできた。
「姉様、みんな…。」
サーシャが懐かしい故郷を思い出していたその時、
『コンコン』
と、小さく扉をノックする音が聞こえてきた。
はっと我に帰り、慌てて袖で涙を拭き取ると扉に向かって返事をした。
「は、はい。」
「サーシャ様、お目覚めでしょうか?」
扉の外から、ポーの心配する声が聞こえてきた。
“いけない!こんなところで落ち込んだりしていたら、アクリウム国の王女としての示しがつかないわ!”
サーシャは奮い立たせるようにぶんぶんと頭を振った。
「心配かけてすみません、疲れていて少し眠っていました。もう大丈夫です。」
「そうですか。もうじき夕食の時間になりますけど、如何いたしますか?」
「少し落ち着いたら、そちらに参ります。」
「了解いたしました。ではお待ちしてます。」
そこまで言って、ぱたぱたと足音が遠ざかるのが聞こえてきた。
「………。」
“しっかりしなきゃ。アクリウム国の為にも、姉様達の為にも。
アルテリア、お兄様の、為にも…。”
*
「どうでしたー?サーシャ様まだ眠ってましたか?。」
ダイニングに戻ってきたポーを、エレーヌが呑気に尋ねてきた。
「丁度お目覚めになったばかりでしたよ。もう暫くしてお食事にも来られますよ。」
「そうですか。良かったですねー旦那様。」
と、テーブルの端に座っていた、先に目を覚ましていたジーフェスに声をかけた。
「ん、ああ、そうだな。」
だが、ジーフェスは素っ気なく返事をするだけだった。
「もう!旦那様ったら。」
ぷうと膨れるエレーヌを横目で見ながら、ふとジーフェスはサーシャの言葉を思い出していた。
『帰りたい…。』
「……。」
*
程無くしてやって来たサーシャ、…先程までの落ち込んだ様子から一転、前の明るさを取り戻した…、はジーフェスと一緒に夕食をとり、お互いに湯を済ませてお互いの部屋に戻っていった。
「……。」
ベッドに横たわったジーフェスは、ふと昨夜のことを思い出した。
“昨日のように、また、やって来るのかな。”
だが、いくら待っていても、彼女が来る気配は無い。
「……。」
夜も更けて、少しうつらうつらしてきたジーフェスだったが、意を決したように起き上がって、部屋を出ていった。
「……。」
一方、サーシャのほうは、部屋の中で独り、考えにふけっていた。
“何を迷う必要があるの。私はアクリウム国王女としての役目を果たす義務があるのよ。”
だが、もう一方で、迷いがあった。
“でも、でもやっぱり、嫌、怖い…。”
「兄さま…。」
と、突然、
『コンコン』
と小さく扉のノックする音が聞こえてきた。
「?!」
「あ、サーシャ、殿。起きてますか?」
突然聞こえてきたジーフェスの声に、サーシャはびくっと身体を震わせた。
あの時の、アクリウム国で見た、交わりの儀式を思い出して…。
「あ…。」
…怖い…。私、どうしたら良いの!
サーシャは恐怖の余り、きゅっと身体を縮こませた。
『大丈夫、彼はライアス様と同じ、翠の瞳の持ち主だからね。
先ずはサーシャが信じないとね。』
ふと、サーシャの脳裏にあの時の言葉が浮かんできた。
「!?」
アルテリア、兄様。
兄様の言うことは、いつも私を光に導いてくれた。
「……。」
…信じないと、私が信じないと始まらないのね。
「はい、起きています。」
そう返事をしてから、扉を開けた。
「?!あ、あの。」
いきなり扉が開いたから、ジーフェスはちょっとびっくり戸惑ってしまった。
「あ、その、ち、ちょっと話があるけど、入っても良いかな?」
「あ、はい、どうぞ。」
高鳴る胸をおさえて、サーシャはジーフェスを部屋の中に案内した。
“どうしよう。私がもたもたしていたから、ジーフェス様のほうから来てしまったわ!”
どきどきしながらジーフェスの様子を伺っていたサーシャだったが、彼のほうは真っ直ぐにソファーに座り、はあ、と溜め息をついた。
「あ、べ、別に夜這いに来たわけではないから安心して。」
「夜這い?」
聞いたことの無い言葉に、ちょっと首を傾げてしまっていた。
「あ、知らない、のかな?とにかく、ちょっと二人きりで話がしたくて、ね。
心配しないで、その、昨夜サーシャ殿が言ってた『儀式』をやる訳ではないから。ちょっとここに座ってくれるかな?」
と、反対側のソファーを指した。
「あ、はい。」
そう言われて、サーシャは素直に指したソファーに腰掛けた。
「……。」
「……。」
…『儀式』をする訳でも無いみたいだし、一体何の話をするのでしょう?
暫くの間、お互い向かい合ったまま黙っていたが、ふとジーフェスが思いきったように尋ねてきた。
「サーシャ殿、貴女は本当はアクリウム国に帰りたいのではありませんか?」
「!?」
ジーフェスのその言葉に、…正にサーシャが思っていたままのその言葉にどきっとした。
「そ、そんな事はありません。私はアクリウム国の『神託』に従っているまで。それはアクリウム国の王家として当然のこと…。」
「確かに俺との結婚は『神託』に従ったものかもしれない。けど、俺が聞いているのはサーシャ殿、貴女自身の思いです。」
「!?」
「貴女自身は、本当はこの結婚が嫌なのではありませんか?本当は、アクリウム国に帰りたいのではありませんか?」
「それは…。」
「ここはアクリウム国ではありません。フェルティ国です。もしアクリウム国で言えない事があったとしても、ここフェルティ国では何でも言って良いのです。」
「あ…。」
「15歳で、突然に、しかもたった独りで貴女は全く見も知らぬ人達の所に、見も知らぬ土地に、見も知らぬ男のもとに花嫁としてやって来た。そんな中で、不安にならない筈が無い!辛くない筈が無い!違いますか?」
「それは、でも、もしここで結婚は嫌だ、アクリウム国に帰りたい、私がそう言えば、貴方様は私の望み通りにして頂けるのですか?」
恨みがましい、皮肉にも取れる言い方をして、少し嫌悪感の混じった瞳で睨みつけた。
予想もしなかったその反応に、ジーフェスははっとなり、そしてしまったという表情を浮かべた。
「すみません。つい、感情的になってしまいました。
申し訳ありません。この結婚が国同士の政略によるものである以上、俺の一個人の力では解消出来ません。
貴方を、アクリウム国に返すことも、出来ません。」
「……。」
「でも、今の貴女は完璧な、そう、正にアクリウム国の王家の鏡そのもので、言い方が悪いですが、まるで完璧な、造られた人形のようにしか見えないのです。」
「!?」
「その、これから、ここで過ごしていくのに、そんな造った人形のように良い人物を通していたら、そのうち、きっと壊れてしまうと思う。いや、きっと壊れてしまう。」
「何、を!?」
「俺が言えたことではないけど、どうか、少しでも良いから、自分をさらけだしてくれませんか。自分を、偽らないでくれませんか?
その、俺に言いにくいのならば、同じ女性のポーやエレーヌとかでも良いから、本当に、ちょっとした愚痴でも良いから。」
真剣な眼差しで、自分を見つめながらそう言うジーフェスの姿を見て、サーシャは一瞬、心が揺らいだ。
「ジーフェス、様。」
だが、サーシャの脳裏にあの時のことが浮かんできた。
『15歳、ですか。』
…あの時の、自分を見る瞳。
まるで、期待外れの、予想外のものを見るような、そんな残念そうな瞳。
『そなたは姉君とは似ても似つかぬ容姿だな。』
それが、本音なのですね。
「ジーフェス様のほうは、どうなのですか?」
「え?」
いきなり逆にふられて、ジーフェスはちょっと面食らった。
「ジーフェス様のほうこそ、私なんかとの結婚が嫌なのではありませんか?」
「!?」
「私なんかより、私のような、こんな女としての魅力なんて無いに等しい女よりも、姉上のような、綺麗で魅力的な女性との結婚を期待していたのではありませんか!」
「それは!」
そこで、初めてジーフェスはサーシャが何故落ち込んでいたのかを理解した。
“そうか、サーシャ殿は兄さんのあの一言を気にしていたんだ!”
「サーシャ殿、それは違います。」
「何が違うのですか?あの時、私が15歳だと知った時のジーフェス様の態度、まるで期待外れのような瞳で私を見ていた。」
「!違う、それは誤解…。」
「出ていって下さい。お願いですから、これ以上私に惨めな思いをさせないで下さい。」
「サーシャ殿。」
「出ていって!お願いだからもう私になんかに構わないで!」
ここに来て初めて、怒りと悲しみに満ちた激昂の姿を見せたサーシャ。
「……。」
そんな姿を見て、ジーフェスは戸惑いと、そして別の気持ちがあった。
「すみませんでした。貴女の気持ちをかき乱すような事をしてしまって。」
そう呟きながら、ソファーから立ち上がり、部屋の扉の前まで移動した。
「でも、これだけは聞いて下さい。
俺は、確かにサーシャ殿の年齢には驚きはしましたが、決して貴女の姉君と比べてなんかはいません。」
「……。」
「夜遅くにすみませんでした。おやすみなさい。」
それだけ告げると、一礼して静かに部屋を出ていった。
独り残されたサーシャは、余りの悔しさと悲しみに胸が張り裂けそうだった。
「…姉様、お兄様。嫌、もう独りは嫌…!帰りたい、帰りたいの…っ!」
涙は止めどなく溢れ、悲しみと寂しさがサーシャの胸を覆った。
「……っ!」
声が漏れないように、枕に顔を伏して、ただただ泣いた。
泣いて、ただひたすらその夜は泣き続けた…。