第13章Ⅵ:人身御供
投稿が大変遅れてしまい、申し訳ありませんでした。
ーー老舗商会のひとつであるリンブドル商会が破綻したとの噂は瞬く間に王都フェルティを駆け抜けた。
街の人々は突然の商会の破綻に驚いたが、かの商会と関係のあった者達は以前より商会の衰退ぶりを把握していて、時間の問題だったとさして驚く様子もなかった。
一時期、一部の間ではこの件が騒ぎとなったが、所詮他人事、やがて目新しい話題に徐々に人々の記憶から薄れていった。
*
「…シャ、サーシャ!」
「?!」
「もう、サーシャったら、上の空になってどうしたの?」
ーーとある休息日。サーシャは診療所が休みのライザと共に今流行りのカフェへと来ていた。
「ごめんなさい、ぼうっとしてしまって…」
「ぼうっとって…大丈夫サーシャ?具合が悪いとかじゃあ…」
「違うわ。本当にぼうっとしていただけよ。本当に素敵なカフェね」
気を取り直して必死の笑顔を向けて話すサーシャの姿に、やっとライザはほっと安堵の息を漏らした。
「でしょ、此処は最近開店したばかりなんだけど、紅茶とシフォンケーキか美味しいって噂で平民だけでなく貴族の間でも人気でよく訪ねてくる店なのよ」
ライザの言う通り、このカフェにはサーシャやライザのような若い女性から裕福な商人のマダムに男女の連れ合い、更に貴族とおぼしき女性までもが来店していて、常に席が埋まった状態であちこちから姦しい声が聞こえてくる。
「さあさあ、折角来たんだから何か注文しましょう。あ、私紅茶とシフォンケーキのセットで。サーシャは何にする?」
「あ、じゃあ私も同じもので」
「かしこまりました」
店の女性が注文を聞き取り、奥へと入っていくのをサーシャはぼんやりと眺めていた。
“素敵なカフェ。エリカさんを連れて来たらさぞかし喜んだでしょうね”
ーーリンブドル家のお茶会での騒動の後、結局サーシャはエリカに逢えないまま、ジーフェスから半ば強引に自宅へと連れて帰らされたのだった。
翌日タフタに頼んでこっそりとリンブドル家に来たものの、屋敷は無人の状態で鍵が掛かっており中には入れず、更に屋敷自体が既に競売にかけられていて、エリカはおろか主人であるパナケアも従者の姿も誰一人無かった。
近所の人にエリカ達の行方を聞いてみたが、皆一様に知らないと答えるだけであった。
“エリカさん、一体何処に居るのかしら?何をしているのかしら?”
「サーシャ、私ちょっと不浄に行ってくるわね。もしケーキが来たら待っててくれる?」
「あ、は、はい」
内容が内容だけに、ライザがサーシャにひそひそ声でそう言うと直ぐに席を外してしまった。
独り残されたサーシャははあ、と深いため息をついて辺りを見回した。
“あの日からジーフェス様もポーさんもエレーヌさんも、周りの人が皆私に気を遣ってくれている…”
お茶会以降、サーシャは折角出来た友人と逢えなくなり、落ち込み塞ぎがちになっていた。
ジーフェスやポー達が外に誘ったり美味しいお菓子やご馳走を作ったりして何とか慰めようとしているのが解り、サーシャも落ち込みながらも皆の気持ちが嬉しくて、少しずつだが傷が癒えようとしていた。
“そうね、いつまでも落ち込んでたらいけないわ。今日は折角ライザさんが素敵なカフェに連れて来てくれたのだから、楽しまないとね”
前向きな気持ちでいたサーシャに、隣の席に座っていた、恰幅の良い中年の婦人達のお喋りが聞こえてきた。
「それにしてもリンブドル商会の破綻は驚きましたわ」
「でも主人の話では、かなり前から経営が危うかったとのことですわ」
「そうそう、うちの所も早めにあの商会から手を引いたからそこまでの損害は出ませんでしたけど、中にはかなりの額を回収出来ない所もあるとか」
「まあ、それは不幸中の幸いで御座いましたね」
何処ぞの商会の夫人の集団らしく、今は殆ど話題にならなくなったリンブドル商会の話に花を咲かせている。
サーシャは聞いてはいけない、聞きたく無いと思いながらもつい耳を傾けてしまう。
「そうそう、リンブドル家のご主人、破綻してからすっかり呆けてしまいましてね、今は何処ぞの病院に居るとのことですわ」
「それなら私も聞きましてよ。莫大な債務の返済を迫られてご主人が狂ってしまい、奥様はショックで寝込んでしまったままだとか。確かあそこには妙齢の娘さんがいらっしゃった筈…」
話がエリカの事になると、サーシャは胸を高鳴らせながらも更に夫人達の話に耳を傾ける。
“エリカさん!エリカさんはどうしているの?”
「ああ、あそこの娘さんね、大人しくて目立たない方でしたわねぇ」
「可哀想にねぇ。家がそんな事になってしまって。さぞかしご苦労なさっている事でしょう」
「いやね、噂なんですけど、その娘さんが債務の形に身売りされたと伺いましたわ」
…え?!
「まあ!それは本当ですの!」
「ええ、主人の知り合いの話では、債務の一部を肩代わりするという約束で娼婦になって高級娼婦街に行ったと聞きましたわ。それでも未だ莫大な債務が残っているとか」
「お可哀想に…家の為とはいえ」
「でも運良く大富豪かもしくは何処ぞの王族辺りが身請けして下さったら儲けものよ。一気に債務を返して頂いて可愛がって頂けるのだから」
「そうね。若さ故に出来る事よね。でもいくらお金か有ってもハゲでデブな殿方は嫌だわ」
「そうそう、うちの旦那のような男に当たったら最悪ね」
夫人達はエリカの事を少しも憐む様子も無く、他人事のように勝手に話して笑い者にするのだった。
“エリカさんが、娼婦に?!高級娼婦街に連れて行かれたですって!”
最後まで話を聞いていたサーシャは余りの内容に身体を震わせた。
“確か高級娼婦街って、以前エレーヌさんが言っていたけど、高貴な御方の為の遊び場所とか…”
流石に世間知らずなサーシャも娼婦街がどのような場所で、遊戯がどういうもの位は理解している。
だからこそそこでのエリカの扱いを想像してしまい、ふしだらさに表情を強張らせた。
“そんな、いくら実家の債務を返済する為とは言っても、何故エリカさんがそんな場所に行かなくてはならないの!エリカさんが何をしたっていうの!他に方法は無いのかしら…”
「…逢わなくては、一度エリカさんに逢って話を聞かないと」
サーシャは無意識のうちに椅子から立ち上がり、賑やかな店内をふらふらと歩きながら店を出ると、独り真っ直ぐに娼婦街へと向かうのであった。
「ふう、お客さんが多いと不浄も待たされるわねえ、サーシャお待たせ」
ライザが不浄場から戻ってきた時には、席には既にサーシャの姿は無く、注文していたケーキのセットが二つ並べられているだけであった。
「あら、サーシャ、何処に行ったのかしら?」
“不浄かしら?でも私がここに戻る時には会わなかったけど…”
「ねえ、ここにいた少女が何処に行ったか知ってる?」
ライザは近くを通りかかった店の女性に聞いてみたが、
「いえ、私が品を持って来た時には既に居ませんでしたが…」
「そう」
やはり不浄に行ったのかと思い再びそこに向かってみたが、サーシャの姿は見当たらない。
慌てて店の中に周りを見回してみたが、やはり彼女の姿は何処にも無い。
「ちょっと…嘘でしょう、何処に行ったのサーシャ!とにかくジーフェスに知らせないと!」
ライザは会計もそこそこに慌てて店を飛び出すと、ジーフェスの居る自衛団庁舎へと駆け出していった。
*
ーー一方、こちらはサーシャのほう。
エリカの事を聞いてつい店を飛び出して独り娼婦街へと向かったのだが、入り口付近まで来て足を止めてしまった。
“ここが、娼婦街…”
先程までライザと一緒に歩いていた通りとは全く異なり、昼間だというのに人通りはまばらで薄汚れた建物の片隅には物乞いとおぼしき者達が蹲り、ある者は酒瓶を片手に声荒く叫び、ある者は虚な瞳で辺りを見てはぶつぶつと呟いている。
「……」
そんな様子の娼婦街を見て、サーシャは以前自分の身に起こった出来事を思い出していた。
『調教師に渡す前に味見しようかな…』
いやらしい目つきをした中年男の顔を思い出して、サーシャはその場で恐怖に震え出した。
“怖い、またあんな目に遭うのはもう嫌!”
過去の忌まわしき事件を思い出し、暫くサーシャは恐怖の余り身体を震わせてその場に立ち尽くしてしまっていた。
“やはり駄目。怖くて動けない…”
恐怖の余りいよいよ諦めてしまいそうになったサーシャの脳裏に、ふとエリカの笑顔が浮かんできた。
『初めてのお友達嬉しい!』
『こんなに楽しい時間を過ごしたのは初めてだわ!』
それはつい最近のエリカとの楽しかったお茶会の様子。サーシャの脳裏に浮かぶエリカの姿は優しい笑みを浮かべたもの。
“エリカさん…”
だが今の彼女は莫大な借金の為に娼婦街へと身売りされた。それが意味することが何であるかはサーシャにも解る。
“エリカさん。今彼女はどんな目に遭っているのかしら”
以前の自身の忌まわしき出来事とエリカの姿が重なって、サーシャは身体を震わせた。
“そうよ、またあの優しいエリカさんの笑顔を見る為に、私が頑張らなくてはいけないの。何としてもエリカさんを娼婦街から連れ出さなくてはいけない!”
無謀な事だと知ってか知らずか、サーシャは震える身体を押さえて、意を決したように娼婦街へと足を踏み入れたのだった。
*
ーー所変わって、此処は娼婦街の中。其処は街の中心に位置する建物、石造りの巨大な朱塗りの建物はこの街の最高位に君臨するマダム=ローゼスの居城でもあった。
「で、あやつの行方はどうなっているのかい?」
建物の奥、とある豪華な一室では此処の主人でもある女主人、マダム=ローゼスが厳しい顔付きで目の前にいる男を睨みながらそう問い質していた。
「は、その、未だに奴は見つけられずにいまして…」
主人の前に鎮座する屈強な男は、主人の厳しい視線に怯えたように身体を縮こませて言葉を吃らせている。
そんな男の様子にマダムははあ、とため息を吐いて冷やかな視線を向けた。
「全く、お前達は一体どんな仕事をしているのだい。それでもあたしの直属守人部隊かい。あたしゃお前達にタダ飯を食わせる程慈悲深く無いよ。そうだねぇ、仕事が出来ない無能な奴は始末するしか無いかねぇ」
にやりと意味有り気に微笑むマダムの姿に、男はこれからの身の振り方を想像して、その姿からは有り得ない程に恐怖に身体を震わせた。
「まあ、あやつの性格からお前如きで何とかなる相手では無いか…仕方ないねぇ…もう良いわ、お下がり」
「ぎ、御意」
しっしと邪魔者を払うかのような仕草に、屈強な男は安堵の息を吐くとまるで逃げるように部屋を後にするのだった。
独り部屋に残ったマダムは暫し黙ったままその場にじっとしていたが、やがて傍にあった煙草に火を付けて咥え始めた。
“確かに奴がそう簡単に捕まるとは思わないが、しかしこのまま逃げられるのも癪だね。何とか一泡吹かせたい処だが…”
ふと女の脳裏に浮かんだのはひとりの男の姿。
“やはりあれの力を借りないと駄目かねぇ。だが最近めっきりあれも此処には近寄らなくなったからね…まあ仕方ない事だが…何とかしてあれを動かす手立ては無いものか…”
珍しくマダムが真剣な面持ちで暫し考え込んでいると、突然扉を叩く音。
「誰だい」
先程の件もあって、やや不機嫌気味に返事をすると、扉の外から先程とは違う男の声がした。
「失礼致しますマダム。先程街を見廻っていた守人から報告がありまして…」
男の言葉に、マダムは独り表情を不機嫌に歪めた。
「何だい、街がどうかしたんかい?まあ良いわ、とにかくお入り」
マダムの許可に、扉が開くと先程とは別の、だがやはり屈強な身体つきをした若い男が入室してきた。
因みに男の言う街とは一般の娼婦街を指しており、基本的にそこでの揉め事等はマダムは関与しない事になっている。だがそれを無視してマダムにまで報告が行くと言う事は、街中の者達では対処出来ない事態になっているという事だ。
「失礼致しますマダム様」
男は不機嫌を露わにしているマダムなど気にしていない風に無表情のままマダムの前まで近付くと恭しく頭を下げた。
「で、何だい。街で何があったんだい?」
「は、先程街の西地区にてサーシャ様を御見かけしたと報告が御座いました」
「…はい?!」
マダムが如何にも信じられないといった風に、機嫌悪そうに言葉を返すが、男は慣れているのか全く動じず淡々と話を続けていった。
「街の中にて自衛団団長ジーフェス様の細君であられるサーシャ様を御見かけしたとの報告が御座いました。共の者をつけずに独り歩いて居られたと」
「お前、ちょっと頭が可笑しくなったのかい?何故あのサーシャ王女がこんな街になんてやって来るんだい?そりゃお前の部下の見間違いさ」
半ば呆れた口調で語るマダムに、男は首を横に振った。
「わたくしの信頼する者からの報告に御座います。しかもサーシャ様はここ高級娼婦街に向かっておられるとの報告もありました」
「高級娼婦街へかい。…お前それは本当なんだね」
「間違い御座いません。如何致しますか?」
はっきりとした男の言葉に、マダムも話が虚偽では無いと察し、暫し考え込んだ。
「ふむ…」
“サーシャ王女がこの街にねぇ…先日、街の馬鹿から酷い目に遭ったというのに懲りずにまたのこのこやって来るとは。高級娼婦街に向かって来ているということは何か訳有りなのか、それともよっぽどの世間知らずの阿呆なのか、一体何方なんだろうねぇ…”
ふとそこまで考えて、マダムはある妙案を閃いた。
“待てよ、サーシャ王女が此方の手の中に入れば、あの男を呼び寄せる絶好の機会になるね!ふふ、サーシャ王女が絡めばあの男も動かざるを得まい…”
突然不気味に笑みを浮かべるマダムの姿に、流石の男も少し寒気がした。
「お前、直ぐに配下の者を使ってサーシャ王女をわたしの所まで連れて来なさい。くれぐれも王女に対して失礼の無いように、丁重に扱うのだよ。
ああ、あと一筆書くから、彼奴のもとに届けておくれ」
「彼奴、とは…よもやかの御方で……、御意」
マダムの言葉に男は一瞬、驚いたようにマダムを見返したが、女の鋭い視線に直ぐにそう答えると一礼して部屋を後にするのだった。
「くく…全く都合の良い時に現れるものだねぇ…サーシャ王女、せいぜい奴との交渉に利用させて貰おうかね」
独り残った女は先程とは打って変わって上機嫌な笑みを浮かべ、傍にある煙草に火を付けるのであった。
*
ーー一方、此方は娼婦街の中。
“どうしよう、何処に行けば良いのか…”
思い切って中に入ったのは良いが、何処へどうすれば良いか解らないサーシャは不安な中で独り、ただひたすら朱塗りの建物目指して道を歩いていた。
昼間ということで街を歩く人の数は少ないのだが、その人々皆がこの場に相応しくないサーシャの姿に好奇な視線を向けていた。
「あの娘、何者だい」
「あの身形からして貴族様じゃない?何で貴族の娘がこんな所に居るのかしら」
「可愛い娘じゃないかい。ちょっと引っ掛けたら面白いかも」
「ありゃなかなかの上玉だな。売ればかなり儲かるだろうな…」
「ありゃもしかして、以前アレが手を出したお嬢ちゃんじゃあないのか?」
「間違いないな。あのお嬢ちゃんに下手に手ぇ出したらゲールとヤンの二の舞だぜ。くわばらくわばら」
好奇と欲望と、何故か一部では畏怖の視線を感じ、その様子に恐怖に怯えながらもサーシャはただひたすら歩き続けた。
“あの中の誰かに訊ねたら、この街の長に逢えるかもしれない。けど…”
遠巻きに自分を見つめる人々の姿に、王都とは全く異なる嫌な視線に嫌悪感と恐怖を感じて結局サーシャは誰にも声をかけられずにいた。
「おいそこのお嬢ちゃん、こんな所で何しているんだい?」
そんな中、突然一人の薄汚れた格好をした中年の男がサーシャの前に立ち塞がった。
「あ…」
「お嬢ちゃん、こんな所で何しているんだい?何か捜しているのかい?」
サーシャが思わず立ち止まると男、誘人はその隙を狙っていやらしい笑みを浮かべながら彼女に近付くとその手をがしっと掴んだ。
「あ、の…」
男の姿が、態度が以前の忌まわしき記憶を思い出させ、サーシャは恐怖で体が震えてしまい、身動き出来ずにいた。
「なあに心配するな。俺様がお嬢ちゃんを良い所に連れて行ってやるよ。まるで天国のようにとっても良い所さ…」
へへ、と下品な笑い声をあげながら、男はサーシャの手を引いて強引に近くの建物へと連れ込もうとした。
「や…いや…」
心では拒絶しているのだが、余りの恐怖で体が震えて声も出せず抵抗も出来ずに、ただ男のされるがままに連れて行かれようとした。
“主人の、危機…見逃すわけには、いかない…”
二人の様子を陰で見ていた黒ずくめのひとりの女ーーサーシャの護衛である“闇陽”の女、が危険を察して短剣を手にし、主人を助けようと姿を現そうとしたその時、
「?!」
突然女の背後に何者かの気配を感じ、と同時に女の頭に強い衝撃が走った。
“しまった…?!”
女は声を上げることなくあっさりと気を失い、その場に崩れ落ちていった。
「サーシャ様の護衛か。“闇陽”のようだが、我等にやられるとは大したことも無いな」
気を失った女の周りに、屈強な体格の男三人が集まってきた。
「この女はどうする?」
「俺が一先ずマダム様の屋敷へ連れて行き指示を仰ぐ。引き続きお前達はサーシャ様を頼んだ」
「「了解」」
男のひとりは気を失ったままの女を軽々と抱え、素早くその場から立ち去っていった。
「さて我々も行くとするか」
その場に残った男達はお互い顔を間合わせ頷くと、無言で誘人に絡まれているサーシャのもとに向かって行くのだった。
*
「は、離して…」
恐怖の余り、小声でしか抵抗出来ないサーシャに、男は更に調子に乗って彼女を無理矢理近くの建物へと連れて行こうとする。
「今日は朝からついてるぜ。何せこんな上玉が簡単に手に入るなんてな…これで俺もがっぽり丸儲けだぜ」
誘人の男はサーシャの目を気にするどころか本音丸出しにそう言いながら彼女を強引に引っ張っていく。
“嫌、怖い、誰か、誰か助けて!”
サーシャは声にならない声で周りに助けを求めるよう視線を向けるが、誰一人として動こうとする者は居ない。
「あーあ、やっぱり悪質な誘人に捕まったか…」
「まああのお嬢ちゃんも独りでこんな所に来るから、自業自得だよな」
「あれも馬鹿だな。よっぽど守人から私刑されたいらしいな…」
周りの人々が思い思いに呟いていると、二人の前に突然屈強な体格の男二人ーー先程サーシャの護衛を一撃で倒した者達、が現れた。
「?!」
「な…守人かよ…」
守人、それはこの娼婦街に於ける用心棒的存在。
彼等は雇い主ーー各々の娼婦館の女将や他の店の主人、や彼等の持つ建物や財産の護衛、娼婦や男娼・調教師等の脱走防止の監視、果ては敵対・反逆者への私刑や暗殺までも行う、娼婦街内のみに存在を許された私の用心棒。
一般の娼婦街の守人はそこそこの腕力と知性しか無い者が大半だが、高級娼婦街の守人になると軍人に匹敵する程の能力を持つ者が殆どで、特に最高権力者のマダム=ローゼス直属の守人はその全員が軍最強人物に匹敵する程の腕力を持ち、官僚クラスの頭脳を持ち、中には暗殺部隊“闇陽”以上の暗殺能力を持つ者がいると言われ、フェルティ国最強の部隊とさえ噂されている。
突然の事で驚く二人を前に、屈強な体格の男達はサーシャを見て、それから誘人の男に視線を向けた。
「貴様、誘人のようだが、この御方に何をしている?」
「へ…な、何って…只の女のスカウトですよ。俺の仕事なんですから…別に悪いことはしてませんよね」
誘人の男は始めこそ屈強な体格の男達、守人にびびってはいたが、守人が落ち着いている様子に気を取り直して飄々とした態度で接してきた。
「そうだな。我々はお前の仕事の邪魔はしない。只、お前の連れている御方、サーシャ様を此方に引き渡して貰おうか」
「…へ?!」
男達は呆気に取られる誘人を無視して、今度はサーシャへと視線を戻した。
「サーシャ様、我々は高級娼婦街から参りました。我等が主人であるマダム=ローゼス様の命により、貴女様をマダム様のもとに御案内致します」
「…え、高級娼婦街、それにマダム=ローゼス様って…」
“其れって、もしかして以前エレーヌさんが話してくれた、この娼婦街の最高責任者であるマダム=ローゼス様の事かしら?でも何故マダム=ローゼス様が私を連れて行くのかしら?”
「え、サーシャ様、って…まさか、まさかだけどこのお嬢ちゃん、『あの』サーシャの事…じゃ無いよな…それにマダム=ローゼスって…まさかあんた達…?!」
サーシャの名前を聞いて、誘人の顔から見る見るうちに血の気が無くなり、表情が恐怖に歪んでいく。そんな男に向かって守人の男のひとりが睨みをきかせた。
「これ以上の詮索は無用、余計な事を知る前にとっとと立ち去れ」
「ひ、ひいいっ!!」
守人の睨みに男は腰を抜かしながら慌てふためいたようにその場を脱兎の如く逃げ出していった。
「…」
男が去って思わず安堵の息を漏らしたサーシャ。だが、目の舞には未だ屈強な男達が居る。
まだ恐怖に震えるサーシャに、守人の男が優しく語りかけてきた。
「御安心下さい。我々はあの下劣な輩とは違います。貴女様に害なす事は決して致しません」
「我等は主人であるマダム様の命に従うもの。サーシャ様、どうか我等と共に高級娼婦街へお越し下さいませ」
守人の男二人は静かな口調でそう言うとサーシャの前で膝をつき恭しく頭を下げるのであった。
「あの…」
男達の物腰の柔らかい様子を見て、サーシャは今までの恐怖が少しずつだが薄れ、落ち着いた様子で改めて二人を観察してみた。
“この方達、先程の男性と比べたら確かに見た目は怖いけど、話し方に品はあって振る舞いも洗練されているわ…もしかしたら本当にマダム=ローゼス様の遣いかもしれない”
恐怖の中でも冷静にそう判断していたが、やはり未だ半信半疑の思いで迷っているサーシャ。
“どうしましょう。このまま彼等について行くべきか、それとも独りで行動すべきか…もし以前の様に私を騙していたら、私はあの時の様に酷い目に遭うかもしれない!でも彼等の話が真実ならば、此処の最高責任者に逢えるのよね。そうなればエリカさんの事も話が出来るかもしれない…”
先程から娼婦街を歩いていた彼女、だがエリカを救う良い解決案が見出せずにいて半ば困っていた所に、この状況である。
“そうよ、迷ってはいけないわ。折角の機会ですもの、乗らない手はないわ”
暫くの間迷っていたがサーシャだったが、やがて意を決したように顔を上げて二人の守人達を見返して告げた。
「解りました。マダム様の所へ連れて行って下さい」
「御意、御協力感謝致します」
「御意、では此方へ」
二人の守人は恭しく礼をするとサーシャを近くに停めてあった馬車まで連れて行くのであった。