第7話:休息
帝国歴1023年5月07日。
本当なら今頃はバウム小国に入国していたはずだった。
だが、比呂の存在もあり、思っていた以上のオグルの群れとの遭遇。
予定外の出来事によって時間が大幅に遅れて、そのため日が暮れると同時に野営の準備にはいった。
皇女が寝泊まりするテントは他のより一際大きく、それを中心にいくつものテントが密集して一つの村のように固まっている。
辺りには篝火が多く立てられており、モンスターがどこから来ても対処できるよう、四方で重装歩兵が四人一組となって警備していた。
比呂は息を白く染めながら夜空を見上げていた。
その背後のテントからリズがでてくる。
「どうしたの? 明日も早いから眠らないと……それとも、お腹が減った?」
比呂は横に首を振る。
「違うよ。星を見てたんだ」
他にも理由はあったが……。
「ヒロは星が好きなの?」
「そんなことはないよ。でも、こんなに間近で見たことがないから珍しくてね」
「そうなんだ」
息づかいが聞こえるほどの距離に彼女が立つ。
比呂は照れや動揺を隠すために、再び空を見上げた。
頂上付近のせいもあるだろうが、空気が澄みきり晴れた夜空に星々が煌めいている。
手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じる圧倒的な光彩。
吐いた息が白く染まるけれど、不思議と寒さを感じない。
「昔、お母様に聞いたことがあるわ」
リズの甘く澄み透った声が、心地よく耳朶に触れる。
「人は死んだら精霊に、精霊になった魂は星になり、精霊王と共に世界を見守り続けている。怖いと感じた時、悲しいと感じた時、寂しいと感じた時、空を見上げるの、そうすれば、一人じゃないことがわかるから」
「いいこと言うね」
「帝国民なら誰でも知ってる子守歌よ」
照れくさそうに笑ったリズの口元から白い歯が覗く
そして、リズは比呂の左手を握りしめた。
「さっ、風邪をひく前にテントに戻って寝るわよ」
比呂は照れる暇もなく引っ張られた。
「ま、待って! 待って! ダメだって!」
「どうして?」
「ど、どうしてって……年頃の男女二人が一緒のテントで寝るとか……」
そう、外にいた理由がそれだった。
テントを張り終えて、リズが放った言葉は「ヒロもここで寝るわよ」だった。
それは避けたいと考えた結果が、外で時間を潰して彼女が先に眠るのを待つという作戦。
しかし、無駄に終わったようだ。
「サーベラスもいるわ」
「いや、いるけども……」
テントの中ではサーベラスが既に就寝中だ。
「ほら、入って入って!」
背中を押された比呂は、たたらを踏みながらテントの中に入った。
テントの上部、ロウソクに火が灯されたランタンが吊り下げられている。
内部全体が見えるほどなので、暗くはないのだが、胸の鼓動が早くなるような艶を感じる明るさだ。
砂利が痛くないようにと、分厚い毛布が地面に敷かれている。
中央にはサーベラスが陣取り、その左側を見れば掛け布団らしき毛布が用意されていた。
「水浴びができれば良かったんだけど……汗臭かったらごめんね?」
「いや、さすがに一緒には寝られないよ」
「えっ、そんなに汗臭いかしら……」
すんすん、形のいい鼻を動かしてリズは自身の体臭を嗅ぐ。
――そういうことじゃない……むしろ、僕のほうが汗臭いだろう。
「自分の匂いってよくわかんないわね。だから、お互い気にせず寝ましょ」
「いや、僕は別のところで……やっぱり一緒に寝るのは――」
「もうっ、グダグダ言わない! 明日も早いって言ってるでしょうがっ!」
「ぐぶっ!?」
背中から強烈な衝撃を受けて、比呂は息を吐き出した。
一瞬、視界が黒く染まり、次に目を開けたときには、横になっていた。
視界の端でリズの顔が確認できる。
全身が彼女の温もりを感じているので、目でわざわざ確認しなくてもいいのだが。
「サーベラスは寝るとき抱かせてくれないの」
――だからって僕で代用しないで頂けませんか。
「ふわぁ……今日は早く寝付けそう……」
比呂は逆に寝ることができないほど心臓が大きく高鳴っていた。
「すー……んぅ……」
「………………寝付きすごくいいね」
――さて、これからどうしよう……。
早く羊が現れてくれたらいいが、現れるのは悪魔ばかりだ。
横を見たら邪な気持ちがわきそうだ。今でさえ危険だというのに。
比呂は次々と現れる悪魔を相手にしながら闇の中に落ちていった…………。
起きている時間ほど長く感じる時はない。
寝ている時間ほど短く感じる時はない。
皆が起きてテントを片付けている間も眠っている男がいた。
――比呂だ。
「サーベラス。よく寝てると思わない?」
『わんっ』
「かわいそうだけど起こさなきゃね」
『わんっ!』
そんなやり取りが聞こえて、瞼は重いけれど、比呂の意識が闇の中から引き出される。
まだ、この温もりと幸福に身を委ねておきたい、そう言いたげに毛布を頭までかぶった。
そのとき――、
「ぐぼぉおおおおお!?」
腹から全身に行き渡る衝撃で比呂の目は飛び出した。
「あれ……思ってた反応と違うなぁ」
激痛が襲う腹を押さえて転がりたい、痛みを紛らせたいのに身体が動かない。
比呂は陸に打ち上げられた魚みたいに、口をパクパクさせるしかなかった。
「ふふっ、あはは、ははははは」
鈴をふるわすような笑い声がするほう、比呂は涙が溢れる目を向けた。
「ひ、ひろ……な、なんて顔してるのよ。朝からあたしを笑わせてどうしたいの?」
腹を抱えて楽しげな表情を浮かべるのはリズだ。
「こ、こっちのセリフだよ……なにしてんの?」
彼女は比呂の腹の上に跨がっていた。
ジンジンと痛みが伝わってくる場所だ。
この痛みの元凶は彼女で確定だろう。
なぜ、こんな暴挙にでたのか聞きたいところだ。
「だ、だって起こしたかったんだもん」
「いや、だからって、もうちょっと穏便な起こし方ってものが――」
と、比呂は最後まで言えなかった。
なぜなら、テントの入り口に鬼が立っていたからだ。
「……こ、小僧。なにをしておる……」
筋骨隆々、熊のような体躯をしたトリスだ。
「こ、これは違うんです!」
見ようによっては、いかがわしい感じだが、本当はそんな色気のある話ではない。
リズがきょとんとした顔で比呂を見た。
「なにが違うの?」
「ややこしくなるからキミは喋らないでくれないかな!?」
これは比呂の生死に関わる一大事だった。
トリスがドスドスと熊のような足音で近づいてくる。
「よもや、そのような顔をして獣だったとはな……姫様、離れてくだされ。こやつは叩っ斬らなくては」
腰からするりとでてきた刃が鈍く光る。
空気が読めていないリズは首を傾げる。
「よくわかんないけど……出発の準備は整ったの?」
「……それはできておりますが」
「なら、朝食を食べたら、すぐに出発しましょ」
比呂の上から重みが消えて、リズが立ち上がった。
「ヒロ。朝食はパンとスープだけど、食べられる?」
「あっ、うん……大丈夫だけど」
「なら、さっさと食べてバウム小国に入るわよ! トリスもぼうっとしてないで、さっさと朝食を食べてきなさい!」
「し、しかし、ぐぬぅ――小僧、姫様に免じて許してやろう……」
完全に勢いを殺されたトリスは、肩を落としてテントを出て行った。
比呂は胸を撫で下ろすとリズが運んできた朝食に手をつけた。
少し固いパンを噛みながら、スープを一口、鶏肉が入っており塩がよくきいていた。
物欲しそうにサーベラスが目の前に座っている。
そして視線をずらせばリズが着替えていた。
「うん? きがえ――ぶほぉっ!?」
吐き出された朝食が、サーベラスの顔に思いっきりかかったが、それどころではなかった。
「な、げほっ、なにを、げほげほっ、なにし、てるんだよ!?」
「何って、着替えてるんだけど?」
「なんで着替えてるの!?」
「水浴びはできないけど、せめて下着ぐらいは変えたいでしょ?」
「いや、そうだろうけど、僕がいるんだよ」
「なにか問題でもあるの?」
リズが首を傾げて不思議そうに見てくる。
昨日の夜の件もそうだが、この娘は疎いというより、そういった知識が完全に抜け落ちている。
皇女だから仕方がないのかもしれない。
けれど、それはとても危ういことだ。
――主に僕の命が……。
さすがにこの場面を見られたらトリスに殺されてしまうだろう。
「僕が今から言うことを、よく聞くんだよ」
「着替えてからでいい?」
「ま、待って、待って! やっぱいいから待って!」
「もうっ、なんなの!?」
「僕が後ろを向いておくから、その間に着替えてくれるかな?」
「別にいいけど……どうして?」
「いいから、深い意味はないんだ。僕は後ろを向いてるから! いいね!?」
「……よくわからないけどいいわよ」
比呂が後ろに向いてから、テント内は布のこすれる音だけが支配していた。
まるで滴が水たまりに落ちて波紋が広がっていくかのようだ。
一秒がとても長く感じ、拷問にも等しい時間が過ぎ去るのを、比呂は黙って待っていた。
「もういいわよ」
「ふぅ……」
ドッと汗が噴き出した、長時間走り続けたような疲労感に襲われる。
目の前では人の気も知らないリズが朝食を食べ始めていた。
「……とりあえず、僕もご飯食べなきゃ」
比呂はようやく朝食にありつけると思ったが、サーベラスに残さず食べられていた。