第18話:紅い華
東の空がうっすらと明るみを帯び始めて、かろうじて周辺が視野で確認できる時刻。
けれど、その必要がないほど荒野の一部で圧倒的な光源を放つ場所がある。
そこはリヒタイン公国軍の陣地だった。
今はその体を成しておらず、無残に破壊されているばかりか、炎に呑み込まれている。
大勢の兵士が事切れた状態で燃えて、鼻にまとわりつくほどの異臭が空気を汚染していた。
乗り手のいない馬が辺りを彷徨うように駆け回っている姿が見え、地獄の様相を呈している中央には黒髪の少年が、すでに形骸化した幕舎を見つめていた。
そこに一頭の馬が駆けてきて少年――比呂の横で急停止、跨がっていた少女が紅髪を踊らせながら飛び降りる。
「ヒロ!」
どこか焦りを含んだ顔で飛びついてくる少女――リズは、あちこちを触りながら比呂の身体を調べた。
「怪我はない? どこも痛くない?」
ぺたぺたと、顔まで触り始めた彼女に、比呂は頬を赤く染めると苦笑する。
「大丈夫だよ。この通りなんともない」
両腕を掲げると、その場で左右に身体を捻って無事なことを証明する。
リズの目尻が和らぎ、安心したのか息をついた。
「よかった――けど、どうしてひとりで行っちゃうのよ!!」
ぐわっと目にもとまらぬ速さで手が飛んでくる。
「むぐぅ」
片手で両頬を掴まれた。
「ひゃっれ、ずがんむぅなかったから」
「何を言ってるのか全然わかりません! あたしは謝罪を要求します!」
細い指から送られる力によって、ギチギチと顎が悲鳴をあげ始めた。
そもそも、これでは説明することもできず、まともに謝ることもできない。
「これからは敵陣に突撃するときは言いなさい。あたしだって一緒に戦えるんだからね」
「ふぁい」
素直に何度も頷く比呂を見て、リズはようやく手を離してくれた。
痛む頬を撫でていると、何か思いついたかのように「あっ」とリズが声をあげた。
「そういえば……ヒロって剣を扱えたのね」
比呂のベルトに縛り付けられた〝 天 帝 〟、リズはしゃがみ込むと値踏みするような視線を送る。
「ほわ~……よく見ると綺麗な剣ね。あたしの〝 炎 帝 〟も可愛いけど、こっちは美人さんね」
リズは腰に差していた〝 炎 帝 〟を抜き放って、鑑定するかのように見比べはじめた。
比呂の額には脂汗が浮いている。どう説明すればいいのかわからない。
否――説明できるはずがない、今では失われた剣とか大層なことになっていて、1000年前の英雄の剣なんだよ。なんて言えるわけがない。
ええいままよ――と心の中で叫んでから比呂は嘘をつくことにした。
「リズと別れたあとさ、なんか道端に落ちてたんだよね」
「えっ……コレ、落ちてたの?」
「う、うん。なんか綺麗だったから拾ってきたんだ」
「へぇ~、こんなのが落ちてるなんて、バウム小国の近くだからかしら?」
「そ、そうじゃないかな!」
誰が聞いても嘘だとわかろうものなのに、純粋なのか天然なのか知らないが、彼女は信じてくれたようだ。
しかも「強い精霊の力を感じる……。ここには特別な何かが……ううん、精霊王の影響が強いせいかも。だから――」なんて真剣に悩み始めた。
比呂としては鎧の隙間からリズの胸元が丸見えなのが悩みになりつつあった。
一難去ってまた一難とは、こういうことを言うのかもしれない。
身体を揺らしながら〝 天 帝 〟を見るものだから、いくら薄い胸とはいえ、その柔軟性がわかるほど形を変えている。
白い柔肌から流れ落ちる汗が情欲を掻き立て、整った容姿に押さえきれない欲望を吐き出したくなる。
これ以上はダメだと思い、視界からリズを消して、その背後の大きな影をみた。
「こ、小僧……さぞかし見晴らしが良いだろうなッ」
一気に熱が冷めていくのを感じた。
馬に乗った熊のような筋骨隆々の男が視界を覆う。
その手にはキラリと光を放つ剣、ぷるぷる震えているのは理性が必死に殺意を抑えているせいかもしれない。
「ち、ちがうんです」
「何が違う? 姫様を跪かせて鼻の下を伸ばしている不埒な男よ!」
「跪かせてなんかないです!」
「黙れぇぃ、旅の始まりから貴様は姫様の貞操を狙っておったのだろう!」
「話が飛躍しすぎです! 待ってください! 話を聞いてください!」
そこでリズが立ち上がってトリスに振り返った。
「ふたりが仲良しなのはわかったから落ち着きなさい。それより戦況はどうなってるの?」
「む、むぅ……な、仲良し? 姫様それはちが――」
「さっさと報告しなさい。ここは敵陣なのよ?」
「ぐぬぅぅ! そ、その小僧のおかげで、ご覧の通り、こちらの勝利は間違いないでしょう」
比呂はまず道中に捨ててきた馬の回収を指示した。
さすがに全ては無理だったので、60頭ばかりを集めると3つの班に分けて三方向からの突撃を仕掛けた。
馬に乗っているのは先頭の数名だけ、あとは馬上に主がいないため、途中で逃げ出すこともある。
それが日中なら失笑と嘲笑に晒されるが、それが暗闇だったならば笑えないことになる。
闇に包まれた静かな荒野に響く馬蹄の轟きは、あたかも大人数のような錯覚を起こさせる。
昼間の戦いで敵兵は憔悴しきっていた。冷静な判断ができないところに奇襲である。
頭蓋骨を粉砕するような蹄鉄に立ち向かう勇気ある歩兵は少数だろう。
「それと同士討ちにより逃げた敵は数えるほどしかおりますまい」
比呂は数名の歩兵に敵兵の格好をさせると、混乱に乗じて敵陣に潜り込ませて攻撃を指示した。
それはすぐに効果がでる。指揮官が軍議にでていないため雑兵は慌てふためいた。
誰もが死にたくはない、なんとしてでも生き残りたい。
だからこそ疑心暗鬼に陥った敵勢は、味方同士で殺し合うことになる。
あとは各部隊長が混乱を収束させないように比呂が本幕を襲撃した。
「そう……ご苦労様。警戒は怠らないでね。敵兵が潜んでる可能性があるもの。一度、周囲を探ったあと、皆をここに集めてちょうだい」
「はっ!」
トリスは胸に手をあてると馬首をめぐらせて陣地を駆けていく。
それを見届けたリズが比呂に振り向いた。
「ヒロはどうだったの?」
「…………」
比呂は無言で炭と化した幕舎を指さす。
「死んだの?」
「うん」
「そっか……」
二人の間に沈黙が落ちること数秒、リズが困った顔をして口を動かした。
「あたしね、わからないんだ。仇が死んで喜ぶ自分もいるし、それを空しく感じる自分もいる。この感情を、どうしたらいいのか……わからない」
「いつか……わかる時がくるよ」
僕のように、と比呂は胸の中で呟いた。
彼女は良くも悪くも純粋すぎる。
それは時として残酷な結果を生んでしまう。
もし、あの場にリズがいたなら投降を受け入れたことだろう。
第6皇女という重い枷のせいで、自分の気持ちを押し殺していたはずだ。
それは比呂の考えであって彼女の気持ちを聞いたわけではない。
自分の都合のいいように物事を考えて判断する、人はこれを傲慢というのかもしれない。
けれども、ひとりで本幕を襲撃したのを間違いだと思わない。
(不幸の芽は出来る限り早く摘まなければいけない)
東の空から眩しい日差しが降り注ぐ中、物悲しい空気を切り裂くパァンと大きな音が鳴り響く。
比呂は目を丸くして、音の発生源――頬に両手を当てた少女を見る。
瞼を閉じて痛みを堪えていたリズが、
「うんっ! もう悩むのはおしまい!」
すっきりした顔で言った。
「ヒロ、伯父様に会いに行くわよ!」
荒野に咲く一輪の紅い華、それはどんな宝石よりも尊く美しい。
(余計な心配だったかな……。やっぱりキミの子孫なことなだけあるよ)
苦笑を浮かべた比呂だったが、
「まずは、お礼ね!」
ガバッと飛びついてこられて狼狽する。
「えっ? えっ?」
「ヒロ、あなたのおかげで、あたしは生きることができました。この恩は一生忘れない!」
頬に柔らかい感触、何が触れたのか気づいた時には、彼女の身体は離れていた。
「これからもよろしくね!」
「ははっ……。うん、よろしく」
――やはりキミには笑顔がよく似合う。