『どうせ喰い殺される』と嗤われ、人喰いと噂の辺境伯に厄介払いで売られた地味な私。〜死ぬ覚悟で嫁いだのに、国最強の旦那さまに蕩けるほど溺愛されて、実家が今さら縋ってきても、もう知りませんわ〜
一
「アイリス。お前の嫁ぎ先が、決まったわ」
継母ヴィオラの言葉に、私は縫い物の手を止めて、顔を上げた。
伯爵家の隅の、日の当たらない小部屋。そこが、私の居場所だった。実母を早くに亡くし、父が後妻を迎えてから、私はこの家の中で、いないも同然の扱いを受けてきた。
「嫁ぎ先、でございますか」
「ええ。とても、"名誉ある"お相手よ」
ヴィオラの隣で、異母妹のセシリアが、扇の陰で、くすくすと嗤った。美しく、社交界の華ともてはやされる娘。父の寵愛も、屋敷の贅も、すべてを一身に受ける、私とは正反対の存在。
「ヴァレンシュタイン辺境伯。――"人喰いの辺境伯"よ」
その名に、私は、息を呑んだ。
ジーク・ヴァレンシュタイン。
国境の地で、押し寄せる魔物の群れを、たった一人で屠り続ける、血染めの武人。その姿を見た者は、皆、あまりの凄惨さに震え上がるという。そして――噂では、これまで迎えた妻を、何人も"喰い殺した"と、まことしやかに囁かれていた。
「あの家に嫁ぐのは、死を意味する」
それが、社交界での、共通の認識だった。名門の令嬢は、誰一人として、彼のもとへ嫁ごうとはしなかった。だからこそ――厄介払いに、ちょうどよかったのだろう。私という、いてもいなくても同じ、地味な娘は。
「まあ、お前のような陰気な娘、他に貰い手もないものね。せいぜい、化け物の腹の足しにでもなりなさい」
ヴィオラが、冷たく言い放つ。セシリアが、それを聞いて、声を上げて笑った。
「うふふ、お姉さま、可哀想。でも、ちょうどいいわ。地味なお姉さまがいなくなれば、この家も、少しは見栄えがよくなりますもの」
父は、その場にいなかった。事前に、話は通されていたのだろう。娘の命よりも、辺境伯家との縁を結ぶ、その体裁を選んだのだ。それが、この家というものだった。
私は、静かに、目を伏せた。
悲しくは、なかった。ただ、少しだけ、疲れていた。
――ここには、私の居場所は、なかった。だから、どこへ行こうと、同じこと。
たとえそこが、死地であろうと。
「わかりました。お受けいたします」
私の、あまりに静かな返答に、ヴィオラとセシリアは、拍子抜けしたように顔を見合わせた。泣いて縋られるとでも、思っていたのだろう。
けれど、私には、縋る相手も、逃げる場所も、なかった。
数日後。私は、わずかな荷物とともに、辺境の地へと、旅立った。
見送る者は、誰も、いなかった。
二
辺境伯領は、王都から、馬車で幾日もかかる、遠い北の地にあった。
険しい山々に囲まれた、荒涼とした大地。その先に、古びた、けれど堅牢な城塞が、そびえていた。
(ここが……わたくしの、死に場所)
馬車を降りた私を、出迎えたのは、屈強な兵士たちだった。皆、どこか緊張した面持ちで、私を城の奥へと案内する。
大広間へと通された私は、そこで――彼を、見た。
漆黒の髪。獣のように鋭い、黄金の瞳。顔には、古い刀傷が一筋。見上げるほどに大きな体躯は、まとう空気だけで、人を圧倒した。
ジーク・ヴァレンシュタイン。人喰いと畏れられた、血染めの辺境伯。
なるほど、と、私は思った。この威圧感なら、確かに、噂も立つだろう。震え上がる者の気持ちも、わかる。
けれど――不思議と、私は、恐ろしくなかった。
死を覚悟してきたから、ではない。彼の、その黄金の瞳の奥に、なぜか、ひどく静かな――孤独の色を、見た気がしたから。
「……アイリス・ローウェル、か」
低い、地の底から響くような声。彼は、私を見下ろし、値踏みするように、目を細めた。
「怖くは、ないのか」
「――いいえ」
私は、まっすぐに、彼を見上げて、答えた。
「怖くございません、辺境伯さま」
その返答に、ジークの黄金の瞳が、わずかに、見開かれた。
「……ほう。強がりか。それとも、私が"人喰い"だと、知らぬわけではあるまい」
「存じております。歴代の奥さまを、喰い殺されたと」
私は、静かに続けた。
「けれど――このお城に来て、わたくし、気づいたのです。兵士の皆さまが、あなたを、心から慕っておられることに。城の方々の目に、恐怖ではなく、敬愛が宿っていることに」
ジークが、はっと、息を呑んだ。
「人を喰らう化け物を、あれほどまでに、人が慕うでしょうか。――わたくしには、そうは、思えませんの」
しん、と、大広間が静まり返った。
ジークは、しばらく、言葉を失ったように、私を見つめていた。まるで、生まれて初めて、そんなことを言われた、とでもいうように。
やがて、彼は、ぽつりと、呟いた。
「……お前は、変わった女だな」
その声には、先ほどまでの威圧は、なかった。ただ、戸惑いと――かすかな、温もりが、滲んでいた。
三
嫁いでからの日々は、私の想像とは、まるで違うものだった。
まず、"人喰い"の噂が、真っ赤な嘘であることを、私はすぐに知った。
歴代の妻を喰い殺した、という話。それは――敵国が流した、悪質な中傷だった。
ジークは、国境を脅かす隣国と、長年、戦い続けてきた。あまりに強く、あまりに国境を固く守るその存在は、敵国にとって、目の上の瘤だった。だから彼らは、彼の縁談を潰し、その武力を孤立させるために、「人喰い」という噂を、意図的に広めたのだ。
歴代の妻など、そもそも、存在しなかった。ジークは、ずっと、独りだった。噂のせいで、誰も彼に嫁ごうとせず、彼もまた、その孤独を、静かに受け入れていた。
「……なぜ、噂を、否定なさらなかったのですか」
ある夜、私が問うと、ジークは、少しだけ、苦い顔をした。
「否定したところで、信じる者などいない。それに――化け物と畏れられるほうが、敵は近づいてこん。都合が良かったのだ」
自分を犠牲にして、その悪評を、盾として使う。そういう、不器用で、優しい人だった。
「それに……このような醜い傷を持つ、血にまみれた男を、心から望む女など、いるはずもない」
彼が、頬の刀傷に、そっと触れる。その仕草に、私は、胸が締め付けられた。
私は、彼のもとへ、歩み寄った。そして、その大きな手を、そっと、両手で包んだ。
「醜くなど、ございません」
ジークが、驚いたように、私を見る。
「この傷は、あなたが、この国を守り続けてこられた、証です。誇るべきもので、隠すものでは、ありませんわ」
私が微笑むと、ジークの黄金の瞳が、大きく、揺れた。
そして、その日から。彼は、変わった。
「アイリス。今日は、南の市で、珍しい菓子を仕入れさせた。お前の好きな、蜂蜜のものだ」
「アイリス。冬が来る前に、暖かい毛皮の外套を、仕立てさせよう。この地の冬は、厳しいからな」
「アイリス。……その、なんだ。今日の髪型は、よく似合っている」
不器用に、けれど、あふれんばかりの想いで。彼は、私を、甘やかし始めた。
地味だと嗤われ、誰にも省みられなかった私を。この世の何より、大切そうに。
「アイリス」
夜、私の部屋を訪れた彼が、私の頬に、そっと触れた。
「お前が、この城へ来てから……私は、初めて知った。誰かと過ごす夜が、こんなにも、温かいものだと」
「ジークさま……」
「離したくない。もう、二度と。――お前が望むものを、すべて、私が叶える。何が欲しい。何が望みだ。言ってくれ」
その黄金の瞳に、これほどの熱で見つめられて。私の心臓は、痛いほどに、高鳴った。
「わたくしは……何も、いりません。ただ、あなたの、おそばに」
「アイリス」
彼は、私を、そっと、腕の中に抱き寄せた。壊れ物を扱うように、けれど、決して離すまいと。
「私も、だ。お前だけが、いい。お前でなければ、意味がない」
死ぬ覚悟で、嫁いだはずだった。
なのに、私は今、生まれて初めて――誰かに、心から、愛されていた。
四
季節が、巡った。
その年の冬、隣国が、ついに、大規模な侵攻を仕掛けてきた。国境の地に、押し寄せる、大軍。
ジークは、辺境伯軍を率いて、迎え撃った。
「必ず、帰る。――お前のもとへ」
出陣の朝、彼は、私を抱きしめて、そう誓った。私は、震える手で、彼の背を、送り出した。
そして――ジークは、勝った。
寡兵でありながら、彼は、その圧倒的な武と采配で、隣国の大軍を打ち破った。国境を守り抜き、王国を、侵略の危機から救ったのだ。
その報せは、瞬く間に、王国中を駆け巡った。
"人喰いの辺境伯"は、真の英雄だった。長年、たった一人で国境を守り、この国を支え続けてきた、王国の要。その武勲に、王は、最大級の栄誉を与えた。
そして――世間は、ようやく、知った。
「人喰い」の噂が、敵国の中傷であったこと。血染めの辺境伯が、本当は、この国で最も気高く、最も強い、守り手であったことを。
一夜にして、ヴァレンシュタイン辺境伯家は、王国で最も名誉ある家門の一つと、なった。
――そして、その頃。
私のもとへ、一通の手紙が、届いた。
差出人は、ローウェル伯爵家。私を、厄介払いに売り渡した、あの実家だった。
『愛しいアイリスへ。息災にしておりますか。母は、あなたのことを、片時も忘れたことはありません……』
白々しい、手紙だった。私を「化け物の腹の足し」と嗤った継母が、今さら、「愛しい娘」と、書いていた。
続く文面は、こうだった。辺境伯家との縁を、より深めたい。ついては、一度、実家へ戻ってきてほしい。妹セシリアも、辺境伯さまに、ぜひご挨拶を――と。
要するに、英雄となったジークとの縁を、利用したいのだ。私を通じて。
私は、その手紙を、静かに、読み終えた。
「――アイリス。どうかしたか」
私の様子に気づいたジークが、案じるように、声をかける。
私は、微笑んで、その手紙を、彼に見せた。
五
手紙を読んだジークの表情が、みるみる、険しくなっていった。
「……この者たちが、お前を、売り渡した実家か」
「はい」
「お前を、"化け物の腹の足し"と、嗤った者たちが。今さら、縁を深めたい、だと」
ジークの声に、静かな怒りが滲む。私は、彼の手に、そっと、自分の手を重ねた。
「ジークさま。この件は、わたくしに、お任せいただけますか」
「……お前が、決めていい。お前を苦しめた者たちだ。どうしたいか、お前が選べ」
私は、頷いて、ペンを取った。
そして、実家への返信を、したためた。
『ローウェル伯爵家の皆さまへ。
温かいお手紙を、ありがとうございます。おかげさまで、わたくしは、辺境伯領で、この上なく幸せに暮らしております。
一つ、思い出したことがございます。
わたくしがこの地へ発つ朝、どなたも、見送ってはくださいませんでしたね。「化け物の腹の足しにでもなれ」と。そう、お言葉を頂戴したことも、鮮明に、覚えております。
あの日、わたくしを"要らぬ者"として手放されたのは、皆さまです。
ならば――今、幸せなわたくしを、"欲しい"などと、どうか、仰らないでくださいませ。
一度捨てたものを、価値が出た途端に拾い直そうとするのは、あまりに、浅ましいことですもの。
セシリアさまのご挨拶も、ご遠慮申し上げます。夫は、わたくし以外の女性を、そばに寄せることを、好みませんので。
どうか、皆さまだけで、末永く、お幸せに。
もう二度と、お会いすることは、ないでしょう。
アイリス・ヴァレンシュタイン』
書き終えた手紙を、ジークが、横から読んで――ふ、と、口の端を、上げた。
「……いい返事だ」
「ふふ。少し、意地が悪かったでしょうか」
「いや」
彼は、私の頭を、大きな手で、そっと撫でた。
「当然の、報いだ。お前は、もっと怒っていい。お前を苦しめた者たちに、優しくする必要など、どこにもない」
その、あまりに真剣な言葉に、私は、思わず笑ってしまった。
「あなたは、本当に、お優しい方ですね」
「……お前にだけ、だ」
ジークが、ぶっきらぼうに、そっぽを向く。けれど、その耳が、ほんのりと赤く染まっているのを、私は、見逃さなかった。
後に、風の噂で聞いた。
ローウェル伯爵家は、私という縁を失い、辺境伯家との関係を築けなかったことで、社交界での立場を、大きく落としたという。英雄の"義理の実家"となる好機を、自らの過去の仕打ちによって、永遠に、閉ざしたのだ。
けれど――それは、もう。私の、知ったことでは、ありませんでした。
終
その夜、私は、城の露台から、満天の星を、眺めていた。
「――冷えるぞ、アイリス」
背後から、ジークが、暖かな毛皮の外套を、私の肩に、そっとかけてくれた。そして、後ろから、包み込むように、私を抱きしめる。
「星が、綺麗ですね」
「ああ」
「わたくし、まだ、信じられないのです」
私は、彼の腕の中で、ぽつりと呟いた。
「あの日、死ぬ覚悟で、この地へ来ました。誰にも必要とされず、居場所もなく……このまま、消えてしまってもいいと、思っていました。なのに、今は」
声が、震えた。
「今は、こんなにも、幸せで。あなたに、こんなにも、愛されて。……夢では、ないかと、時々、怖くなるのです」
ジークの腕に、力がこもった。
「夢では、ない」
彼は、私を、そっと、振り向かせた。黄金の瞳が、まっすぐに、私を見つめる。
「お前は、私が見つけた、たった一つの光だ。噂に怯えず、傷を醜いと言わず、この孤独な男に、初めて、温もりをくれた女だ。――お前を手放した者たちは、生涯、後悔すればいい。こんなにも得難い宝を、泥の中に埋めていたことを」
「ジークさま……」
「もう、離さない。何があっても。お前は、私の、妻だ」
彼の唇が、私の額に、そっと、落とされた。壊れ物を扱うような、けれど、確かな熱を込めて。
私は、こらえきれずに、彼の胸に、頬を寄せた。
地味だと、嗤われた。要らないと、捨てられた。誰にも省みられず、消えてしまってもいいと、思っていた。
けれど――違ったのだ。
私は、居場所がなかったのではない。まだ、本当の居場所に、辿り着いていなかっただけ。
私を、正しく愛してくれる人に、まだ、出会っていなかっただけ。
「ジークさま。わたくし、思うのです」
私は、彼を見上げて、微笑んだ。
「あの実家に、捨てられて――本当に、よかった、と」
だって、そのおかげで。私は、あなたに、出会えたのだから。
私を"宝"と呼んでくれる、たった一人の、この人に。
満天の星の下。彼の腕の温もりに包まれて。
私は、生まれて初めて――「生きていて、よかった」と、心から、そう思えた。
(了)




