名を、呼ばれる者と呼ばれぬ者
城に戻ると、空気が変わっていた。
血と雨の匂いは、もうない。
代わりに、乾いた木と紙と、墨の匂いが満ちている。
戦は終わった。
だが、終わったからこそ、別の刃が振るわれる。
論功行賞。
その言葉を、市之助は廊下の端で初めて聞いた。
誰かが小さく息を呑み、誰かが無言で背筋を伸ばす。
「名が呼ばれるぞ」
低い声が囁く。
市之助は、柱の影から広間を覗いた。
畳は新しく敷き直され、血の跡はない。
そこに並ぶ家臣たちの背中は、どれも固い。
誇らしさではない。緊張だ。
信長が現れる。
戦のときと変わらぬ足取り。
勝者の歩き方ではない。
「始める」
短い一言。
それだけで、場が静まる。
書状が読み上げられる。
名、名、名。
褒美を受ける者。
役目を与えられる者。
一段、前へ出る者。
呼ばれるたびに、空気が動く。
呼ばれぬ者の周りで、空気が沈む。
市之助は、数え始めていた。
何人が呼ばれ、何人が呼ばれないか。
勝ったのに。
桶狭間で命を賭けた顔が、いくつも思い浮かぶ。
だが、その多くは、ここで名を持たない。
「……以上だ」
信長の声が落ちる。
それで終わりだった。
呼ばれなかった者に、説明はない。
ざわめきが、遅れて広がる。
小さな声。
視線の行き場を失った顔。
その中に、あの足軽の姿があった。
第三話の夜、「勝つんだよな」と呟いた男。
目が合った。
彼は、何も言わずに視線を逸らした。
名を呼ばれなかった。
それだけで、人はここから落ちる。
広間が片付けられ、人が散っていく。
勝者と、勝者でない者が、同じ場所に立っていたはずなのに、もう距離ができている。
「市之助」
背後から、信長の声がした。
「はっ」
振り返ると、信長は書状を手にしている。
「お前は、桶狭間で何を見た」
唐突な問いだった。
市之助は、一瞬、言葉を探した。
正解が分からない。
だが、嘘をつく意味もない。
「……混乱と、速さを……見ました」
信長は、目を細めるでもなく、頷きもしない。
「それだけか」
「……はい」
信長は、書状を畳み、言った。
「なら、よい。余計なものを見ていない」
その言葉が、褒めなのかどうか、市之助には分からなかった。
だが、否定ではない。
「これからは、私の近くにいろ」
市之助の胸が、強く打った。
「水と、布と、目。
それだけあればよい」
「……承りました」
信長は、それ以上何も言わず、去っていった。
残された市之助は、しばらく動けなかった。
名は呼ばれていない。
だが、役目は増えた。
名を持たぬまま、近づく。
それが、この城で生きる形なのだと、遅れて理解する。
廊下の向こうで、あの足軽が座り込んでいた。
鎧を外し、天井を見ている。
市之助は、声をかけなかった。
かける言葉が、ない。
名は、呼ばれる者と、呼ばれぬ者がいる。
それだけで、道は分かれる。
市之助は、草履を揃えながら、思った。
自分は、どちら側に立っているのか。
答えは、まだ、ない。




