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信長の草履を揃えた少年  作者: 灰庭


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5/6

勝ちの匂いは、しなかった

戦は、終わっていた。


だが、市之助には、それがいつ終わったのか分からなかった。

雷が去ったあと、急に音が戻り、気づけば谷には人の声が溢れていた。


呻き声。

命乞い。

怒鳴り声。


雨は細かく降り続き、血を薄めながら地面に染み込ませていく。

草は踏み荒らされ、さっきまで隠していた匂いを、もう隠さなかった。


市之助は、革袋を抱えたまま立ち尽くしていた。

足が、まだ震えている。


「動け」


誰かに肩を叩かれ、はっとする。

生き残った者は、次の役目に移らなければならない。


谷の一角に、首が集められていた。

布の上に、無造作に並べられる。

顔と顔が、互いに見合うような位置で止まる。


これが、勝ちの証。


だが、市之助の鼻に届くのは、喜びの匂いではなかった。

血と泥と、雨に濡れた皮革の匂い。

勝ちの匂いは、しない。


「名のある首は、丁寧に扱え」


家臣の声が飛ぶ。

今川義元の名が、低く、慎重に口にされた。


市之助は、視線を落としたまま、命じられた通りに水を運ぶ。

傷口を洗うための水。

血を拭うための布。


水の匂いも消せ。


ふと、あの言葉が胸をよぎる。

今は、消せない。

どれだけ水を使っても、血の匂いは残る。


首実検が始まった。


信長が、現れる。

鎧は汚れ、袖には血が乾きかけている。

だが、顔色は変わらない。


一つ一つ、首を見ていく。

目は鋭いが、感情は乗らない。

名を確かめ、頷き、次へ。


数えている。


市之助は、そう思った。

勝利の実感ではない。

結果の確認だ。


やがて、信長の足が止まった。


布の上に置かれた、一つの首。

今川義元。


周囲の空気が、さらに重くなる。

誰もが息を詰める。


信長は、その首をしばらく見つめたあと、短く言った。


「……世は、変わるな」


それだけだった。


歓声は、上がらない。

万歳もない。


市之助は、その一言を聞いて、背中がぞくりとした。

勝ったから喜ぶのではない。

勝ったから、次へ進む。


この人は、終わりを見ていない。

始まりしか、見ていない。


信長が、ふいに市之助を見た。


「水を」


「……はい」


市之助は、革袋から水を注ぐ。

器は欠けていない。

だが、どれだけ気をつけても、血の匂いが混じる。


信長は一口飲み、器を置いた。


「よい」


その一言で、市之助の肩から力が抜けた。

生き残った、と実感する。


首実検が終わると、兵たちはようやく声を上げ始めた。

勝った。

生きている。


だが、市之助の胸は、妙に静かだった。


谷を出るころ、雨は止みかけていた。

空が、少しだけ明るい。


市之助は、最後にもう一度、振り返った。

血と雨と、倒れた草。

そこに、英雄の姿はない。


英雄は、物語の中にしかいない。


信長は、すでに前を見て歩いている。

振り返らない。


市之助は、その後ろに続いた。

草履を揃える手で始まった役目は、もう戻れない場所まで来てしまった。


だが、不思議と、足は止まらなかった。


勝ちの匂いは、しなかった。

それでも、歴史は、確かに動いていた。


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