狭間に、雷が落ちる
谷は、思っていたよりも狭かった。
低い丘と丘の間に、湿った草地が広がり、踏み固められた細道が一本、奥へと伸びている。
市之助は足元を見下ろし、胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。
ここで、人が死ぬ。
名のある合戦場と聞いて想像していた広さはない。
逃げ場も、隠れ場も、ほとんどない。
草は昨夜の雨を含み、踏むたびに音を吸い込む。
鎧の金具には布が巻かれ、槍の穂先も鈍く光を殺している。
これだけの人数が動いているのに、音がない。
静かすぎる。
市之助は、水の入った革袋を抱え、信長の背を追っていた。
剣は持っていない。
だが、今はそれでいい。斬る役目ではない。
風が谷を抜けた。
草の匂いが濃くなり、その奥に、別の匂いが混じる。
酒だ。
胸の奥で、何かが強く打った。
間違いない。人の気が緩んだ匂い。勝ったと思い込んでいる匂い。
丘の向こうから、かすかな笑い声が聞こえた。
鎧の擦れる音。
人数が違う。こちらより、はるかに多い。
今川の本陣。
「……多いな」
誰かが、ほとんど音にならない声で呟いた。
市之助は、その声を咎める気になれなかった。
恐怖は、誰の中にもある。
信長の背中を見た。
振り返らない。
足取りは軽く、迷いがない。
本当に、突っ込む。
逃げ道を探す考えが、頭の隅をかすめる。
だが、その考えを追いかける暇はない。
信長が、唐突に立ち止まった。
隊が、一斉に止まる。
草の揺れが、ぴたりと止む。
「ここだ」
低い声。
だが、その一言で、空気が張りつめた。
「合図は要らぬ。遅れるな。声を出すな」
それだけだった。
市之助の耳が、じんと鳴る。
合図がない。
つまり、考える時間はない。
一歩、前へ。
足が、勝手に動いた。
思考よりも先に、体が命令を受け取っている。
次の瞬間だった。
雷が、谷に落ちた。
「うおおおおっ!」
怒号が、爆発する。
今まで抑え込まれていた音が、一気に解き放たれた。
槍が突き出され、刀が抜かれる。
布で殺していたはずの金具がぶつかり合い、甲高い音を立てる。
市之助は反射で身を低くした。
誰かの足が目の前を駆け抜け、泥が跳ねて頬にかかる。
近い。
速い。
今川の兵たちは、完全に油断していた。
酒樽の横で立ち尽くす者。
鎧を半分しか着けていない者。
「敵だ!?」
叫びが上がるが、遅い。
織田の兵は止まらない。
数では劣っているのに、勢いが違う。
恐怖を、速度に変えている。
市之助は地面に膝をつき、必死で周囲を見た。
人が倒れる音。
刃が骨に当たる鈍い衝撃。
血の匂いが、一気に谷を満たす。
これが、戦。
足が震える。
逃げたい。
だが、目を逸らせば終わる。
逸らした先に、刃がある。
「市之助!」
側近の声がした。
「伏せろ!」
次の瞬間、矢が地面に突き刺さった。
市之助のいた場所から、指二本分。
心臓が喉まで跳ね上がる。
体が勝手に伏せた。
見るんだ。
音を覚えろ。
意味を考える暇はない。
体だけが、その命令を思い出していた。
そのとき、市之助は見た。
信長が、最前線にいる。
刀を振り回しているわけではない。
だが、誰よりも前だ。
敵の混乱を、さらに押し広げる位置。
逃げ道を塞ぐ位置。
この人は、戦を「形」で見ている。
人の命ではない。
流れだ。
奇襲は、短かった。
長く感じたが、実際には一息ほどの時間だったのかもしれない。
今川の陣に、完全な混乱が広がる。
命令が通らない。
逃げる者、戦う者、呆然と立つ者。
信長が、血の付いた刀を一度だけ振った。
「追うな」
その声は、戦場でもはっきり届いた。
「今は、これでよい」
市之助は、その言葉を聞きながら、地面に座り込んだ。
足が、言うことを聞かない。
生きている。
それだけが、分かる。
雨が、ぽつりと落ちた。
遅れて雷鳴が、空を割る。
血と雨が混じる谷で、市之助は悟った。
この人は、勝つために戦っているのではない。
負けない形を、最初から選んでいる。
信長の背中は、血に濡れていた。
だが、歩き方は変わらない。
市之助は立ち上がり、その後ろに続いた。
草履を揃える手では、もう足りない世界に足を踏み入れてしまったことを、はっきりと感じながら。




