夜が、静かすぎる
夜は、あまりにも静かだった。
市之助は、城の裏手に積まれた兵糧の袋を数えながら、その静けさが不自然であることを、骨の奥で感じていた。
虫の声が少ない。風が、途中で止まる。人の足音が、必要以上に抑えられている。
戦の前だ。
誰もが、それを口にしないだけで知っている。
知っているからこそ、余計な音を消す。
袋の口を結び直し、縄を締める。指先に残る米の粉が、白く浮く。
この米が、明日、誰の腹に入るのか。
それとも、腹に入る前に、血と土に混じるのか。
「市之助」
振り向くと、昨日とは別の家臣が立っていた。年は若いが、鎧の紐がすでに汗で湿っている。
「上様がお呼びだ。今すぐだ」
「……はい」
理由は聞かない。
だが、胸の奥で、何かが沈む。
案内されたのは、昼間とは違う小さな部屋だった。灯りは一つ。影が多い。
信長は、簡単な地図の前に立っている。紙の上には、墨で引かれた線と、いくつかの点。
「来たか」
「はっ」
信長は市之助を見ない。地図だけを見ている。
「これは、今川の陣だ」
指が、点の一つを叩く。
軽い音なのに、市之助の耳にはやけに大きく響いた。
「兵は多い。装備も整っている。誰が見ても、正面から当たれば負ける」
市之助は、喉が鳴るのを必死で抑えた。
負ける、と信長ははっきり言った。
「だが」
信長は、指を別の線へ滑らせた。
「奴らは、勝った気でいる。そこが、隙だ」
市之助は、地図の意味を完全には理解できなかった。
だが、信長の声に、迷いがないことだけは分かる。
負ける戦を語っている声ではない。
「市之助」
「はっ」
「今夜は、眠るな」
市之助は、一瞬、耳を疑った。
「……恐れながら、役目を頂ければ」
「役目だ」
信長は、初めて市之助を見た。
目が合った瞬間、背中が冷える。
「目を開けていろ。音を覚えろ。匂いを覚えろ。人の顔を、よく見ろ」
それだけ言うと、信長は視線を地図へ戻した。
眠るな。
見るだけ。
市之助は、深く頭を下げた。
分からない。だが、分からなくてもいい。役に立つかどうかは、あとで決まる。
部屋を出ると、城の中はさらに静かになっていた。
兵たちは、声を潜め、灯りを落とし、鎧の金具に布を巻いている。
音が消えるたび、心臓の音が大きくなる。
市之助は、廊下の端に座り、ただ見た。
槍を握る手。
縄を結ぶ指。
笑おうとして、失敗する口元。
誰もが、明日を知っているようで、知らない。
「……勝つんだよな」
小さな声が聞こえた。若い足軽だ。隣の男が、無言で肩を叩いた。
信長は、どこにもいない。
だが、その不在が、逆に城を支配している。
夜半。
風が、急に向きを変えた。
湿った空気が動き、草の匂いが濃くなる。
血の匂いは、雨の前に強くなる。
空を見上げると、雲が低く流れている。
月は見えない。
だが、不思議と、恐怖は薄かった。
代わりに、妙な落ち着きがある。
上様は、眠っていない。
それだけで、なぜか大丈夫だと思えた。
夜明け前、信長が姿を現した。
鎧は軽く、動きやすさを優先したもの。顔色は変わらない。
「行くぞ」
短い一言だった。
誰も、質問しない。
市之助は、信長の後ろを歩きながら、昨日と今日の違いを考えた。
昨日は、使いが斬られた。
今日は、誰も斬られない。
まだ、だ。
城門を出ると、風が強く吹いた。
草が揺れ、空気が動く。
信長は、立ち止まり、振り返らずに言った。
「市之助」
「はっ」
「生きていれば、あとで意味は分かる」
それだけ言って、歩き出した。
市之助は、その背を見つめた。
英雄の背中ではない。
だが、この背中について行けば、何かが変わる。
夜が、終わる。
静かすぎた夜が、ようやく、朝に溶けていった。




