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信長の草履を揃えた少年  作者: 灰庭


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3/10

夜が、静かすぎる

夜は、あまりにも静かだった。


市之助は、城の裏手に積まれた兵糧の袋を数えながら、その静けさが不自然であることを、骨の奥で感じていた。

虫の声が少ない。風が、途中で止まる。人の足音が、必要以上に抑えられている。


戦の前だ。


誰もが、それを口にしないだけで知っている。

知っているからこそ、余計な音を消す。


袋の口を結び直し、縄を締める。指先に残る米の粉が、白く浮く。

この米が、明日、誰の腹に入るのか。

それとも、腹に入る前に、血と土に混じるのか。


「市之助」


振り向くと、昨日とは別の家臣が立っていた。年は若いが、鎧の紐がすでに汗で湿っている。


「上様がお呼びだ。今すぐだ」


「……はい」


理由は聞かない。

だが、胸の奥で、何かが沈む。


案内されたのは、昼間とは違う小さな部屋だった。灯りは一つ。影が多い。

信長は、簡単な地図の前に立っている。紙の上には、墨で引かれた線と、いくつかの点。


「来たか」


「はっ」


信長は市之助を見ない。地図だけを見ている。


「これは、今川の陣だ」


指が、点の一つを叩く。

軽い音なのに、市之助の耳にはやけに大きく響いた。


「兵は多い。装備も整っている。誰が見ても、正面から当たれば負ける」


市之助は、喉が鳴るのを必死で抑えた。

負ける、と信長ははっきり言った。


「だが」


信長は、指を別の線へ滑らせた。


「奴らは、勝った気でいる。そこが、隙だ」


市之助は、地図の意味を完全には理解できなかった。

だが、信長の声に、迷いがないことだけは分かる。

負ける戦を語っている声ではない。


「市之助」


「はっ」


「今夜は、眠るな」


市之助は、一瞬、耳を疑った。


「……恐れながら、役目を頂ければ」


「役目だ」


信長は、初めて市之助を見た。

目が合った瞬間、背中が冷える。


「目を開けていろ。音を覚えろ。匂いを覚えろ。人の顔を、よく見ろ」


それだけ言うと、信長は視線を地図へ戻した。


眠るな。

見るだけ。


市之助は、深く頭を下げた。

分からない。だが、分からなくてもいい。役に立つかどうかは、あとで決まる。


部屋を出ると、城の中はさらに静かになっていた。

兵たちは、声を潜め、灯りを落とし、鎧の金具に布を巻いている。

音が消えるたび、心臓の音が大きくなる。


市之助は、廊下の端に座り、ただ見た。


槍を握る手。

縄を結ぶ指。

笑おうとして、失敗する口元。


誰もが、明日を知っているようで、知らない。


「……勝つんだよな」


小さな声が聞こえた。若い足軽だ。隣の男が、無言で肩を叩いた。


信長は、どこにもいない。

だが、その不在が、逆に城を支配している。


夜半。

風が、急に向きを変えた。


湿った空気が動き、草の匂いが濃くなる。


血の匂いは、雨の前に強くなる。


空を見上げると、雲が低く流れている。

月は見えない。

だが、不思議と、恐怖は薄かった。


代わりに、妙な落ち着きがある。


上様は、眠っていない。

それだけで、なぜか大丈夫だと思えた。


夜明け前、信長が姿を現した。

鎧は軽く、動きやすさを優先したもの。顔色は変わらない。


「行くぞ」


短い一言だった。

誰も、質問しない。


市之助は、信長の後ろを歩きながら、昨日と今日の違いを考えた。

昨日は、使いが斬られた。

今日は、誰も斬られない。


まだ、だ。


城門を出ると、風が強く吹いた。

草が揺れ、空気が動く。


信長は、立ち止まり、振り返らずに言った。


「市之助」


「はっ」


「生きていれば、あとで意味は分かる」


それだけ言って、歩き出した。


市之助は、その背を見つめた。

英雄の背中ではない。

だが、この背中について行けば、何かが変わる。


夜が、終わる。

静かすぎた夜が、ようやく、朝に溶けていった。

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