常識は、役に立たぬ
雨は、夜半に降った。
市之助が目を覚ましたとき、城の屋根を叩く音はもう遠く、代わりに湿った冷気だけが残っていた。畳に触れた指先がひやりとする。
寝起きの体を起こし、身なりを整える前に、まず耳を澄ませた。
騒ぎは、ない。
それだけで胸が軽くなる。
この城では、朝の静けさが保証されている日は少ない。静かな日は、何も起きなかった日ではない。起きる前に、すでに決まっている日だ。
廊下に出ると、板の上にまだ水気が残っていた。昨夜の雨が、城の隙間から忍び込んでいる。
市之助は布で足元を拭きながら、昨日教えられたことを思い出す。
水の匂いも消せ。
桶の木の匂い。
そんなものを気にする人間が、この世にいるとは思っていなかった。だが、いる。しかも、それがこの城の主だ。
「市之助」
背後から声がかかり、反射で振り向いた。
古参の小姓だ。目の下に隈を作り、口元が固い。
「上様がお呼びだ。今すぐ来い」
「……はい」
理由は聞かない。
理由を聞く暇があるなら、動いた方がいい。
部屋へ向かう途中、城内の空気が昨日よりも張っているのが分かった。人の動きが速い。だが、音は小さい。
皆、口を結んでいる。
使いだ。
昨日、信長が通せと言った、稲生からの使い。
市之助は、稲生という地名を頭の中でなぞる。聞いたことがある。信長の弟、信行の動きが怪しいと、村でも噂になっていた。
襖の前で膝をつくと、すでに中から声が聞こえた。
「……それで、何を望む」
信長の声だ。低く、平坦。
感情がないわけではない。感情を、声に乗せないだけだ。
「は、はっ。兄上に、和睦のお考えがあればと……」
使いの声が震えている。
市之助は、襖一枚隔てた位置で、息を殺した。
「和睦、か」
信長が、わずかに笑った気配がした。
だが、その笑いに温度はない。
「お前は、何を見てきた」
「……は?」
「稲生の様子だ。兵の数、馬の動き、夜の火の数。何を見てきた」
使いは言葉に詰まった。
市之助には、それが手に取るように分かった。使いは、ただ言葉を運ぶためだけに来た。見る役目を、与えられていない。
「……恐れながら、そこまでは……」
「そうか」
信長の声が、少しだけ低くなった。
「では、お前は用がない」
市之助の背中に、冷たいものが走った。
用がない、その言葉が、この城で何を意味するか、昨日一日で嫌というほど見た。
使いが慌てて何かを言いかけた、その瞬間。
「斬れ」
短い命令だった。
一瞬、音が消えた。
次の瞬間、畳を擦る音と、鈍い衝撃。
血の匂いが、襖の隙間から流れ出してくる。昨夜の雨よりも、生温かい匂い。
市之助は、動けなかった。
頭の中で、理屈が追いつかない。使いは、何もしていない。言葉を運んだだけだ。
だが、役に立たなかった。
それだけで、ここでは十分なのだ。
「市之助」
信長の声が、襖の向こうから届いた。
「中へ来い」
足が、重い。
だが、遅れればそれも罪になる。市之助は膝を滑らせ、襖を開けた。
部屋の中は、思ったよりも静かだった。
使いはすでに引きずられ、畳の上には血の跡だけが残っている。家臣たちは誰も顔を上げない。
信長は、何事もなかったように座っていた。
「見たな」
「……はい」
「今の者は、使いとしては凡庸だ。だが、人としては悪くない」
市之助は、返事ができなかった。
悪くない人間を斬る理由が、分からない。
信長は、市之助の表情を一瞬だけ見て、続けた。
「だが、凡庸は役に立たぬ。役に立たぬ者は、敵よりも厄介だ」
市之助の胸が、きしんだ。
役に立つ。
その言葉が、昨日よりも重くなる。
「覚えておけ。情は、後で使うものだ。先に使えば、足を取られる」
信長はそう言って、立ち上がった。
「市之助。血を拭け。匂いが残る」
「……承りました」
布を持つ手が、わずかに震えた。
だが、震えは止めなければならない。信長は、震えよりも、遅さを嫌う。
畳を拭く。
血は、思ったよりも簡単に落ちた。雨上がりの湿気が、それを助けている。
人の命も、こうやって消えるのか。
そんな考えが浮かび、すぐに振り払った。余計な正義を持つな。
拭き終えた畳を見て、信長は満足そうでも、不満そうでもなかった。
「よい。次は、匂いだ」
市之助は深く頭を下げた。
理解したかどうかは、問題ではない。
命じられたことを、次は完璧にやれるかどうか。それだけだ。
部屋を出たあと、廊下の端で一度だけ、膝が崩れた。
誰も見ていない。今なら、息を吐いていい。
常識は、役に立たぬ。
この城で生きるための、新しい言葉が、胸に刻まれた。
市之助は立ち上がり、再び草履の並びを確かめに行った。
乱れはない。
それでも、もう一度揃え直す。
血の匂いが消えるまで。
自分が役に立たなくなる、その日まで。




