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信長の草履を揃えた少年  作者: 灰庭


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2/6

常識は、役に立たぬ

雨は、夜半に降った。


市之助が目を覚ましたとき、城の屋根を叩く音はもう遠く、代わりに湿った冷気だけが残っていた。畳に触れた指先がひやりとする。

寝起きの体を起こし、身なりを整える前に、まず耳を澄ませた。


騒ぎは、ない。


それだけで胸が軽くなる。

この城では、朝の静けさが保証されている日は少ない。静かな日は、何も起きなかった日ではない。起きる前に、すでに決まっている日だ。


廊下に出ると、板の上にまだ水気が残っていた。昨夜の雨が、城の隙間から忍び込んでいる。

市之助は布で足元を拭きながら、昨日教えられたことを思い出す。


水の匂いも消せ。


桶の木の匂い。

そんなものを気にする人間が、この世にいるとは思っていなかった。だが、いる。しかも、それがこの城の主だ。


「市之助」


背後から声がかかり、反射で振り向いた。

古参の小姓だ。目の下に隈を作り、口元が固い。


「上様がお呼びだ。今すぐ来い」


「……はい」


理由は聞かない。

理由を聞く暇があるなら、動いた方がいい。


部屋へ向かう途中、城内の空気が昨日よりも張っているのが分かった。人の動きが速い。だが、音は小さい。

皆、口を結んでいる。


使いだ。


昨日、信長が通せと言った、稲生からの使い。

市之助は、稲生という地名を頭の中でなぞる。聞いたことがある。信長の弟、信行の動きが怪しいと、村でも噂になっていた。


襖の前で膝をつくと、すでに中から声が聞こえた。


「……それで、何を望む」


信長の声だ。低く、平坦。

感情がないわけではない。感情を、声に乗せないだけだ。


「は、はっ。兄上に、和睦のお考えがあればと……」


使いの声が震えている。

市之助は、襖一枚隔てた位置で、息を殺した。


「和睦、か」


信長が、わずかに笑った気配がした。

だが、その笑いに温度はない。


「お前は、何を見てきた」


「……は?」


「稲生の様子だ。兵の数、馬の動き、夜の火の数。何を見てきた」


使いは言葉に詰まった。

市之助には、それが手に取るように分かった。使いは、ただ言葉を運ぶためだけに来た。見る役目を、与えられていない。


「……恐れながら、そこまでは……」


「そうか」


信長の声が、少しだけ低くなった。


「では、お前は用がない」


市之助の背中に、冷たいものが走った。

用がない、その言葉が、この城で何を意味するか、昨日一日で嫌というほど見た。


使いが慌てて何かを言いかけた、その瞬間。


「斬れ」


短い命令だった。


一瞬、音が消えた。

次の瞬間、畳を擦る音と、鈍い衝撃。

血の匂いが、襖の隙間から流れ出してくる。昨夜の雨よりも、生温かい匂い。


市之助は、動けなかった。

頭の中で、理屈が追いつかない。使いは、何もしていない。言葉を運んだだけだ。


だが、役に立たなかった。


それだけで、ここでは十分なのだ。


「市之助」


信長の声が、襖の向こうから届いた。


「中へ来い」


足が、重い。

だが、遅れればそれも罪になる。市之助は膝を滑らせ、襖を開けた。


部屋の中は、思ったよりも静かだった。

使いはすでに引きずられ、畳の上には血の跡だけが残っている。家臣たちは誰も顔を上げない。


信長は、何事もなかったように座っていた。


「見たな」


「……はい」


「今の者は、使いとしては凡庸だ。だが、人としては悪くない」


市之助は、返事ができなかった。

悪くない人間を斬る理由が、分からない。


信長は、市之助の表情を一瞬だけ見て、続けた。


「だが、凡庸は役に立たぬ。役に立たぬ者は、敵よりも厄介だ」


市之助の胸が、きしんだ。

役に立つ。

その言葉が、昨日よりも重くなる。


「覚えておけ。情は、後で使うものだ。先に使えば、足を取られる」


信長はそう言って、立ち上がった。


「市之助。血を拭け。匂いが残る」


「……承りました」


布を持つ手が、わずかに震えた。

だが、震えは止めなければならない。信長は、震えよりも、遅さを嫌う。


畳を拭く。

血は、思ったよりも簡単に落ちた。雨上がりの湿気が、それを助けている。

人の命も、こうやって消えるのか。

そんな考えが浮かび、すぐに振り払った。余計な正義を持つな。


拭き終えた畳を見て、信長は満足そうでも、不満そうでもなかった。


「よい。次は、匂いだ」


市之助は深く頭を下げた。

理解したかどうかは、問題ではない。

命じられたことを、次は完璧にやれるかどうか。それだけだ。


部屋を出たあと、廊下の端で一度だけ、膝が崩れた。

誰も見ていない。今なら、息を吐いていい。


常識は、役に立たぬ。


この城で生きるための、新しい言葉が、胸に刻まれた。


市之助は立ち上がり、再び草履の並びを確かめに行った。

乱れはない。

それでも、もう一度揃え直す。


血の匂いが消えるまで。

自分が役に立たなくなる、その日まで。


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