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信長の草履を揃えた少年  作者: 灰庭


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1/6

血の匂いは、雨の前に強くなる

血の匂いは、雨が降る前に強くなる。

市之助はそれを、十三の春に覚えた。


尾張の空は朝から重く、雲の腹は低い。湿った風が城下の土と藁と、人いきれの匂いを混ぜて、鼻の奥にまとわりつく。

清洲の城門が見えたとき、胸がひとつ、ひゅっと縮んだ。


ここで、生き残れ。


それだけを、頭の中で繰り返した。

故郷の村を出るとき、母は泣かなかった。泣けば、縁が切れないからだ。代わりに、手のひらに小さな布切れを押し込んだ。古い守り袋。薬草の匂いが少しだけ残っている。


「口を利くな。目を離すな。余計な正義を持つな」


送り出してくれた叔父は、そう言った。城に上がった小姓は、忠義でなく、手際で生きる。名前でなく、仕事で覚えられる。

仕事で覚えられなければ、消える。


城内に入ると、足元の板がひやりと冷えた。磨かれた廊下は、雨の気配を先回りして、薄く湿っているように見える。すれ違う者たちの袖から、油の匂い、汗の匂い、鉄の匂い。

市之助は息を浅くして、周りの動きだけを追った。


案内役の古参の小姓が、低い声で言う。


「今日からお前は、上様の側に付く。余計なことはするな。質問もするな。言われたことだけを、早く、静かにやれ」


「……はい」


返事の声が、自分の耳にやけに大きく響いた。

喉が乾いている。舌の上に、鉄みたいな味がする。


曲がり角で、唐突に空気が変わった。

人が息を止めるときの空気だ。誰もが、音を小さくする。足の裏が板に触れる音まで、ひとつ遅れて聞こえる。


「おい」


前方の部屋から声が飛んだ。怒鳴っているわけでもない。だが、その一言だけで背中が固くなる。

市之助は、視線を上げないまま、廊下の端に膝を付き、頭を垂れた。教えられた通りに。


「顔を上げよ」


息が詰まった。

恐る恐る顔を上げると、そこに男がいた。


織田信長。

派手な装いをしているわけではない。むしろ軽い。袖の短い小袖に、肩の力が抜けた立ち方。だが、目だけが動かない。視線が人を測る。刃物の角度を確かめるように。


市之助の喉が鳴った。

その音さえ聞かれてしまう気がして、慌てて唇を噛んだ。


信長は廊下の先を見たまま、淡々と命じた。


「草履を揃えよ。ここは武家の家だ。脱ぎ散らかすのは野の犬のすることだ」


言われて初めて、市之助は足元を見た。

部屋の入口に草履が乱れている。大人の草履、泥の付いた草履、紐の切れかけた草履。先ほどまで出入りしていた家臣のものだろう。


市之助は一瞬だけ考えた。

草履を揃える? こんな時に?

だが、その疑問が頭を持ち上げる前に、体を動かした。


膝を滑らせ、草履を一足ずつ揃える。踵を並べ、鼻緒の向きを合わせ、入口から見て右に寄せる。

畳に指が触れると、ほんの少し湿っている。湿気が木の匂いを強くしている。


草履の内側に、血の点があった。乾きかけて黒い。

視線を止めるな、と自分に言い聞かせる。余計な正義を持つな。

市之助は血を見なかったことにして、草履を揃えた。


最後の一足を置いたとき、頭上から足音が近づいた。

影が伸び、信長の足が市之助の視界に入る。草履に足を通す、その動きが迷いなく滑らかだった。


「名は」


「市之助にございます」


「……市之助」


その声に感情はない。だが、今、市之助の名前が口にされた。

胸の中が、薄い紙一枚ぶんだけ軽くなる。


信長は、揃った草履と、乱れの消えた入口を一瞥して言った。


「手が早い。よい」


褒められた、と理解するのに一拍遅れた。

ただし、その「よい」は温かさではない。道具の切れ味を確かめるような声だ。


信長が部屋に戻ろうとしたとき、奥から家臣の声がした。焦りが混じっている。


「上様、稲生から使いが……今すぐお目通りをと」


信長は立ち止まりもしない。


「通せ。話を聞く」


その瞬間、市之助は知った。

この男は、城の中の湿気や草履の乱れや血の点すら、自分の都合に合わせて並べ替える。

人も、同じように。


部屋の襖が閉まる寸前、信長がふいに市之助へ振り返った。


「市之助」


「はっ」


「水を用意せよ。冷やすな。常温だ。器は欠けのないものを選べ」


命令は短い。だが、細かい。

市之助は反射で頭を下げ、廊下を走らずに速足で離れた。走れば叱られる。遅ければ消える。その間の速度が、生きる速度だ。


台所へ向かう途中、心臓が喉まで上がってくる。

常温。欠けのない器。

そんなこと、誰でも言える。だが、言われた通りにできるかどうかで、人は生き残る。


水桶の水に手を入れる。冷たい。だが、冬の冷たさではない。雨の前の冷たさだ。

市之助は桶の蓋を閉め、別の水を探す。かまどの近く、温い水が置かれている。そこから柄杓で汲み、欠けのない器を選んで、両手で抱える。


器の縁に映った自分の顔は、薄汚れて、目だけが大きい。

怖いなら、手を止めるな。

叔父の声が、背中を押す。


部屋へ戻ると、襖の向こうから声が漏れていた。

誰が何を言っているのかは分からない。ただ、空気が張りつめているのだけは分かる。言葉の端が、刃のように尖っている。


市之助は襖の横で膝をつき、声を殺して言った。


「……水を、用意いたしました」


「入れ」


襖を開けた瞬間、匂いが変わった。

汗と墨と、少しの香の匂い。そして、さっき廊下で見た血の点と同じ、乾きかけた鉄の匂い。


信長は上座にいる。目線は書状の上。周りの家臣たちは、口元が固い。

市之助は畳の上を音を立てずに進み、水を置く位置を一瞬迷った。近すぎれば無礼、遠すぎれば手間。

そういう迷いが、命取りになる。


だが信長が、指先で畳を一度だけ軽く叩いた。

そこだ、と言っている。


市之助はその位置に器を置き、頭を下げた。

背中に視線が刺さる。何本も。

逃げたい。胃が縮む。だが、息を荒くしてはいけない。


「市之助」


信長が、器に手を伸ばしながら言った。


「次からは、水の匂いも消せ。桶の木の匂いが移る」


市之助は一瞬、意味が分からなかった。

だが、分からない顔を見せるのが一番危険だと、体が先に知っている。


「……承りました」


信長は器の水をひと口飲み、何事もなかったように書状へ戻った。

褒めも、叱りもない。たった一言の指摘。

だが、市之助の胸に、その一言が刺さったまま抜けない。


水の匂い。

桶の木の匂い。

そんなものまで見ている。


市之助は静かに下がり、襖の外で息を吐いた。

肺がやっと空気を受け入れる。掌が汗で濡れている。畳に落とせば跡が残る。慌てて袂で拭った。


廊下へ出ると、外が暗くなっていた。

雨が来る。

湿った風が、どこからともなく鉄の匂いを運んでくる。


市之助は、入口に整然と並ぶ草履を見下ろした。

たかが草履。たかが水。

それでも、ここではそれが、命の重さになる。


今日、名前を呼ばれた。

それだけで、明日まで生きられる気がした。


遠くで雷が鳴った。

市之助は背筋を伸ばし、もう一度、草履の向きを確かめた。


雨が降る前に。

血の匂いが強くなる前に。

自分の手で、世界を揃えておかなければならない。

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