血の匂いは、雨の前に強くなる
血の匂いは、雨が降る前に強くなる。
市之助はそれを、十三の春に覚えた。
尾張の空は朝から重く、雲の腹は低い。湿った風が城下の土と藁と、人いきれの匂いを混ぜて、鼻の奥にまとわりつく。
清洲の城門が見えたとき、胸がひとつ、ひゅっと縮んだ。
ここで、生き残れ。
それだけを、頭の中で繰り返した。
故郷の村を出るとき、母は泣かなかった。泣けば、縁が切れないからだ。代わりに、手のひらに小さな布切れを押し込んだ。古い守り袋。薬草の匂いが少しだけ残っている。
「口を利くな。目を離すな。余計な正義を持つな」
送り出してくれた叔父は、そう言った。城に上がった小姓は、忠義でなく、手際で生きる。名前でなく、仕事で覚えられる。
仕事で覚えられなければ、消える。
城内に入ると、足元の板がひやりと冷えた。磨かれた廊下は、雨の気配を先回りして、薄く湿っているように見える。すれ違う者たちの袖から、油の匂い、汗の匂い、鉄の匂い。
市之助は息を浅くして、周りの動きだけを追った。
案内役の古参の小姓が、低い声で言う。
「今日からお前は、上様の側に付く。余計なことはするな。質問もするな。言われたことだけを、早く、静かにやれ」
「……はい」
返事の声が、自分の耳にやけに大きく響いた。
喉が乾いている。舌の上に、鉄みたいな味がする。
曲がり角で、唐突に空気が変わった。
人が息を止めるときの空気だ。誰もが、音を小さくする。足の裏が板に触れる音まで、ひとつ遅れて聞こえる。
「おい」
前方の部屋から声が飛んだ。怒鳴っているわけでもない。だが、その一言だけで背中が固くなる。
市之助は、視線を上げないまま、廊下の端に膝を付き、頭を垂れた。教えられた通りに。
「顔を上げよ」
息が詰まった。
恐る恐る顔を上げると、そこに男がいた。
織田信長。
派手な装いをしているわけではない。むしろ軽い。袖の短い小袖に、肩の力が抜けた立ち方。だが、目だけが動かない。視線が人を測る。刃物の角度を確かめるように。
市之助の喉が鳴った。
その音さえ聞かれてしまう気がして、慌てて唇を噛んだ。
信長は廊下の先を見たまま、淡々と命じた。
「草履を揃えよ。ここは武家の家だ。脱ぎ散らかすのは野の犬のすることだ」
言われて初めて、市之助は足元を見た。
部屋の入口に草履が乱れている。大人の草履、泥の付いた草履、紐の切れかけた草履。先ほどまで出入りしていた家臣のものだろう。
市之助は一瞬だけ考えた。
草履を揃える? こんな時に?
だが、その疑問が頭を持ち上げる前に、体を動かした。
膝を滑らせ、草履を一足ずつ揃える。踵を並べ、鼻緒の向きを合わせ、入口から見て右に寄せる。
畳に指が触れると、ほんの少し湿っている。湿気が木の匂いを強くしている。
草履の内側に、血の点があった。乾きかけて黒い。
視線を止めるな、と自分に言い聞かせる。余計な正義を持つな。
市之助は血を見なかったことにして、草履を揃えた。
最後の一足を置いたとき、頭上から足音が近づいた。
影が伸び、信長の足が市之助の視界に入る。草履に足を通す、その動きが迷いなく滑らかだった。
「名は」
「市之助にございます」
「……市之助」
その声に感情はない。だが、今、市之助の名前が口にされた。
胸の中が、薄い紙一枚ぶんだけ軽くなる。
信長は、揃った草履と、乱れの消えた入口を一瞥して言った。
「手が早い。よい」
褒められた、と理解するのに一拍遅れた。
ただし、その「よい」は温かさではない。道具の切れ味を確かめるような声だ。
信長が部屋に戻ろうとしたとき、奥から家臣の声がした。焦りが混じっている。
「上様、稲生から使いが……今すぐお目通りをと」
信長は立ち止まりもしない。
「通せ。話を聞く」
その瞬間、市之助は知った。
この男は、城の中の湿気や草履の乱れや血の点すら、自分の都合に合わせて並べ替える。
人も、同じように。
部屋の襖が閉まる寸前、信長がふいに市之助へ振り返った。
「市之助」
「はっ」
「水を用意せよ。冷やすな。常温だ。器は欠けのないものを選べ」
命令は短い。だが、細かい。
市之助は反射で頭を下げ、廊下を走らずに速足で離れた。走れば叱られる。遅ければ消える。その間の速度が、生きる速度だ。
台所へ向かう途中、心臓が喉まで上がってくる。
常温。欠けのない器。
そんなこと、誰でも言える。だが、言われた通りにできるかどうかで、人は生き残る。
水桶の水に手を入れる。冷たい。だが、冬の冷たさではない。雨の前の冷たさだ。
市之助は桶の蓋を閉め、別の水を探す。かまどの近く、温い水が置かれている。そこから柄杓で汲み、欠けのない器を選んで、両手で抱える。
器の縁に映った自分の顔は、薄汚れて、目だけが大きい。
怖いなら、手を止めるな。
叔父の声が、背中を押す。
部屋へ戻ると、襖の向こうから声が漏れていた。
誰が何を言っているのかは分からない。ただ、空気が張りつめているのだけは分かる。言葉の端が、刃のように尖っている。
市之助は襖の横で膝をつき、声を殺して言った。
「……水を、用意いたしました」
「入れ」
襖を開けた瞬間、匂いが変わった。
汗と墨と、少しの香の匂い。そして、さっき廊下で見た血の点と同じ、乾きかけた鉄の匂い。
信長は上座にいる。目線は書状の上。周りの家臣たちは、口元が固い。
市之助は畳の上を音を立てずに進み、水を置く位置を一瞬迷った。近すぎれば無礼、遠すぎれば手間。
そういう迷いが、命取りになる。
だが信長が、指先で畳を一度だけ軽く叩いた。
そこだ、と言っている。
市之助はその位置に器を置き、頭を下げた。
背中に視線が刺さる。何本も。
逃げたい。胃が縮む。だが、息を荒くしてはいけない。
「市之助」
信長が、器に手を伸ばしながら言った。
「次からは、水の匂いも消せ。桶の木の匂いが移る」
市之助は一瞬、意味が分からなかった。
だが、分からない顔を見せるのが一番危険だと、体が先に知っている。
「……承りました」
信長は器の水をひと口飲み、何事もなかったように書状へ戻った。
褒めも、叱りもない。たった一言の指摘。
だが、市之助の胸に、その一言が刺さったまま抜けない。
水の匂い。
桶の木の匂い。
そんなものまで見ている。
市之助は静かに下がり、襖の外で息を吐いた。
肺がやっと空気を受け入れる。掌が汗で濡れている。畳に落とせば跡が残る。慌てて袂で拭った。
廊下へ出ると、外が暗くなっていた。
雨が来る。
湿った風が、どこからともなく鉄の匂いを運んでくる。
市之助は、入口に整然と並ぶ草履を見下ろした。
たかが草履。たかが水。
それでも、ここではそれが、命の重さになる。
今日、名前を呼ばれた。
それだけで、明日まで生きられる気がした。
遠くで雷が鳴った。
市之助は背筋を伸ばし、もう一度、草履の向きを確かめた。
雨が降る前に。
血の匂いが強くなる前に。
自分の手で、世界を揃えておかなければならない。




