38話--遺跡1日目--
ダンジョンには基本的に、そのダンジョン固有のモンスターしか出現しない――それが、私が知っている常識だ。
ただし、あくまで「基本的に」であって、例外はいつだって、こちらの都合なんてお構いなしに顔を出す。
屋外型のダンジョンであったり、ごく稀に、元々そこに住み着いていた“野生の”モンスターが入り込んでいたり。
ゴブリンに捕らえられ、粗末な縄で縛られているエルフだとか。
森の影に紛れてうろつく、ダンジョン外で生息していた魔物だとか。
どこからどう見ても、ただの猪にしか見えない生き物が、全身に火を纏って突進してきたときは、さすがの私も目を疑った。
あれはさすがに衝撃だったな……燃える猪って何……と、真剣にツッコミを入れながら避けたのをよく覚えている。
そういう「本来の予定にない」モンスターから身を隠すためにも、野営装備がないときは――木の上に登って眠るのが一番安全だ。
当然、寝心地という概念は木の根元に投げ捨てることになるけれど、命あっての快眠だ。
私は3人に携帯食料と水を配り、軽く振ってみせてから言う。
「ほい、これ。今のうちに食べといて。お腹が空いてからだと余計に辛いからね」
自分の分も開封して、一口齧る。
……相変わらず、ひどい味だ。甘いのかしょっぱいのか、よく分からない上に、ねっとりと舌に絡みついて離れない。口の中の水分が一瞬で持っていかれていく。
(ああ、懐かしい……ダンジョンの味だ……)
視線を横に流すと、沙耶は眉間に皺を寄せて思い切り顔をしかめていた。
七海はというと、口に咥えたまま動きが止まっている。完全にフリーズしている。
小森ちゃんだけは、ひどく苦そうな顔をしながらも、しっかり噛み砕いて水で流し込んでいた。
(順応性で言えば、小森ちゃんが一番かもしれないな……)
「先輩、これ何すか??」
ついに、七海が耐えきれずに口を開いた。
「甘いけどしょっぱいし、口の中の水分は持っていくけどねっちゃりしてるっす……」
「美味しそうに聞こえない食レポありがとう」
私が肩をすくめると、三人分の視線が少しだけ柔らぐ。
「人体が1日で必要な栄養素の半分が入ってる、味と食感さえ目を瞑れば完全無欠な携帯食料だよ」
「味と食感って食事に一番大切な部分なんだよなぁ……」
沙耶が心底うんざりした声でぼやく。
「沙耶ちゃん、七海ちゃん……お腹に入れば全部一緒だよ……こんなに食べてて楽しくないものは初めてです……」
小森ちゃんが、虚ろな目でそんなことを言った。
褒めているのか貶しているのか判別不能だが、少なくとも好意的ではないのは確かだ。
(酷評っぷりは、回帰前と全く変わらないな……。これでも何種類か食べ比べて、一番マシなのを選んでるんだけど)
全員が、最終的には諦めたように携帯食料を飲み込んでいく。
水で無理やり押し流し終えた瞬間、三人同時に、これ見よがしなため息が漏れた。
これを食べると、決まって恋しくなるのは――湯気の立つ温かいご飯。
人間って本当に、ないものを欲しがるようにできている。
「さあ、気を取り直して――3人はそこの木に登って寝ること。見張りは私に任せて」
「うへぇ……聞きはしてたっすけど、今回はマジで苦行っすね……」
口では文句を言いながらも、三人はちゃんと指示に従ってくれる。
一人が幹をよじ登り、次に登る子の腰やお尻を押し上げて手伝っているあたり、息は合ってきた。
(このダンジョンが終わったら、さすがに少し休もうか……。一回、ちゃんとリフレッシュさせてあげないと)
木の中腹、太い枝のところで、三人が思い思いの体勢で身を丸める。
やがて、葉擦れの音に紛れて、小さな寝息が聞こえ始めた。
私は彼女たちが寝ている木の根元に背を預け、深呼吸を一つしてから目を閉じる。
魔力増加法――魔力を取り込み、練り、全身に巡らせる呼吸。
痛みはもう、ほとんどない。ただ、筋肉の奥がじんわりと熱を持つような感覚だけが残る。
ゴブリンが生活する遺跡からは、十分に距離を取っている。
音も臭いも、ここまでは届かない。
少なくとも、今夜中にここまで偵察が来る可能性は低いだろう。
辺りが少しずつ、紫色に沈んでいく。
空の色が青から群青に、そして墨を垂らしたような闇へと変わる頃合いを見計らって、私は三人を順番に揺すって起こした。
眠りが浅かったのか、普段は寝起きの悪い沙耶が、一番最初にぱちりと目を開けた。
「ん……くぁ……」
大きなあくびを一つしてから、木の幹に手をつき、慎重に降りてくる。
続いて七海、小森ちゃんも、まだ夢の名残を瞼に残したまま、ぎこちない足取りで地面に降り立った。
「くぁ……。んで、先輩。夜に狙撃って言ってたっすけど、どの辺からやるんすか?」
「寝る前に沙耶が魔法を使った場所辺りからかな。二百メートルくらい? 正確な距離は【計測】で測ってね」
「うす! パーフェクト七海ちゃんの実力見せるっすよー!」
七海が肩をぐるぐると回しながら、いつもの決め台詞を口にする。
仕事中もよく言っているらしい、この自称パーフェクト宣言。
これを言うと、何故かいい方向に転がることが多い、と本人が豪語していた。彼女なりのルーティンなのだろう。
いつの間にか、日が完全に沈みきっていた。
一筋の月光も、街灯の明かりもない、純度百パーセントの暗闇。
鈴虫のような虫の高い鳴き声だけが、夜の森の静けさを薄く彩っている。
「うっわ……本当に何にも見えないんだね……」
沙耶がぽつりと漏らした。
私を先頭に、一列で手を繋ぎながらゆっくりと進んでいるが、彼女たちには、私の背中ですら影にしか見えていないだろう。
暗くなる前に目を瞑っておけば、闇に目が慣れる――そんな話もあるけれど、それはあくまで「光がある前提」の話だ。
文字通り一切の光源が存在しない場合、そんな気休めは何の意味も持たない。
だから私は、視覚を諦めて、別の感覚に頼る。
虫の鳴き声、木々の軋む音、自分の指で作る微かな音。それが返ってくる反響。
回帰前に、真っ暗闇の中を動けるようになるまでしつこく訓練しておいたのは、この瞬間のためだ。
(前の私、よく頑張ったな……本当、助かってる)
そんなことをぼんやり思いながら、足元の根を避け、草を踏みしめて進む。
「ストップ」
足を止め、後ろに合図を送る。
繋いでいた手が、そのまま順に止まる感触が伝わってくる。
「七海、ここから遺跡の周囲で松明を持ってるゴブリンを射れる?」
前方には、遠く小さなオレンジ色の灯りがいくつも揺れている。
それは暗闇の中でコントラストが強すぎて、逆に滑稽なくらい目立っていた。
「この暗闇で光を灯すとこんなにも分かりやすいんすね……【計測】、うっす。二百八メートルで、風は向かい風一メートル……たぶん行けるっす」
「任せた。やれれば、連射で的確に頭を射ってね」
「さらっと無茶な事言うっすよね……」
ぼやきながらも、七海は古代竜の弓を構えた。
弓弦がギリ、とわずかに軋む音がして、次の瞬間、矢が闇に溶けるように放たれる。
一本、二本、三本――矢は一定のリズムで飛び、合計で五本の矢が連続して放たれた。
高さと射角を微妙に変え、放つタイミングをずらしているのが音で分かる。
そして、遺跡の壁の上で揺れていた松明の光が、ほぼ同時に五つ、ふっと消えた。
直後、鈍い音を立てて、何かが壁の外側へと落ちていく気配がする。
「うし、観測されないように高さと強さを変えて弾着のタイミングを同時にしたんすけど、成功したっすね」
「やるじゃん。流石私が認めた後輩だね」
褒めて欲しそうに肩を揺らしていたので、空いている手で思い切り頭をわしゃわしゃ撫で回してやる。
暗闇で表情が見えないのが心底惜しい。
壁から落ちたゴブリンの死体が地面にぶつかる音に続き、遺跡の中から慌ただしい喧騒が響いてきた。
見張りが一斉に何かを叫び、寝ていた者たちが起き出しているのだろう。
正面の出入口は、すでに昼間のうちに【土槍】で塞いである。
左右の出入口にゴブリンたちが雪崩れ込み、土の壁の前に群がり始めた気配が伝わってくる。
「七海、乱射でいいから撃ちまくって」
「承知っす」
パス、と矢羽根の擦れる音が途切れることなく続く。
七海は、撃てる限りの矢を撃ちきる勢いで、ひっきりなしに弓を引いては放った。
森の暗闇から放たれた矢は、視認できた瞬間にはもう遅い速度でゴブリンたちを襲う。
光源に集まる蛾のように、土の壁の前に密集しているせいで、一本一本が確実に肉を貫いていく。
混乱に拍車がかかり、遺跡の周囲は足元をもつれさせる悲鳴で満たされていった。
撃ち漏らした数体の気配を、私はペグ――投擲用に整えられた金属杭を握り、指先で弾くように投げて仕留めていく。
二百メートル先でも、私の【神速】を乗せた投擲なら、投げてから一秒もかからない。
「先輩、矢があと三本しかないっす。終了っすかね?」
「はい。あと千八百本あるから気にせず撃ってね」
「……うっす」
若干、引き気味の返事が返ってきた。
アイテム袋から、百本束になった矢を取り出して七海に渡す。
破壊されない限り【回収】もあるし、普通のダンジョンなら一つにつき百本もあれば余裕で足りる。
だから今までは、最初の百本しか渡していなかった。
今回は【回収】を封じているので、六束くらいは使うことになるかもしれない。
私たちが姿を見せないまま攻撃を続けていると、やがて遺跡の内側から松明がいくつも放り投げられ始めた。
私たちの位置が特定できていないのは確かだが、どうやら「森の中に敵がいる」とは理解しているらしい。
遺跡から森の縁までの距離を、片っ端から松明で照らして、虱潰しに探すつもりなのだろう。
「七海。壁の上に登ったゴブリンが居たら撃って。沙耶と小森ちゃんは撤退するから準備を」
「はぁーい。って、特に何もしてないけどね……」
「橘さん、本当に泥団子作ってるだけでよかったんですか……?」
沙耶と小森ちゃんが、若干申し訳なさそうな声で聞いてくる。
彼女たちには、周囲に生えていた薬草を集めてすり潰し、泥団子を作ってもらっていた。
薬草は種類によっては、磨り潰すことで強烈な匂いを発する。
そして一度その匂いが鼻につくと、数時間は他の匂いの判別がまともにできなくなる。
その特性を利用して、ゴブリンたちの嗅覚を撹乱し、私たちの匂いで追跡されないようにするのが狙いだ。
一見、子供の遊びのようにしか見えないが、立派な「対ゴブリン用の匂い消し」なのだ。
「先輩、松明投げてくるゴブリンが多すぎて、撃ち漏らしが多数っす。あと百メートルぐらいで、ここまで松明が届くっす」
「ありがとう。撤退しよう」
私は短く指示を出し、来たときと同じように手を繋いで森の奥へと引き返した。
背後で、松明が次々と地面に落ちる音が聞こえる。
炎が地面に散り、じわじわと光の範囲を広げていく気配を背に受けながら、私たちは闇のさらに深い方へと身を隠した。
その後は、あらためて木に登り直し、三人には再び枝の上で寝てもらうことにした。
私はその下で、耳だけを頼りに夜の気配を監視し続ける。
こうして、遺跡攻略一日目の夜は、静かに幕を閉じていった。




