30話--就寝と起床--
何か間違いが起きそうな入浴は、拍子抜けするほど何事もなく――いや、正確には精神的ダメージがいくつか蓄積したものの――無事に終わった。
その後はリビングで映画を流しながら、ポップコーンをつまんだり、適当なツッコミを入れたりして時間を潰し、気が付けばいい感じにお腹も空いていた。
テーブルには、ちょっとしたパーティみたいな食卓が広がっている。
この部屋を借りたときにセットで付いてきたリビングテーブルと椅子は4脚。全員分きちんと座れるのはありがたい。こうして四人そろって座っていると、それだけで妙に胸が温かくなる。
焼き上がったばかりの肉からは香ばしい匂いが立ち上り、その隣には簡単なサラダとスープ、冷蔵庫の残り物で作った副菜。
見た目はそこそこ、味は――うん、我ながら悪くない。
「おいしっ……! このお肉、めちゃくちゃ柔らかいっすね……!」
七海が目を輝かせ、頬をふくらませながら幸せそうに咀嚼している。
口の中に物が入っているときぐらい静かにしてほしいものだけど、まあ、嬉しそうだから良しとしよう。
「さすが高い肉……。お姉ちゃん、こんな贅沢して大丈夫なの?」
「いいのいいの。冷凍庫で化石になる前に食べたほうがマシだからね」
「こ、こんな美味しいお肉……滅多に食べられないです……!」
小森ちゃんは、一切れ噛むたびに顔がふわっとほころぶ。
もともと童顔で柔らかい雰囲気なのに、そんな表情まで見せられると、なんか、こっちが照れてしまう。
――ダンジョンが出現して、街は大騒ぎ。
テレビをつければ連日不安を煽るニュースと、渋谷駅の映像ばかり。
それでも、こうしてテーブルを囲んで、肉の焼き加減がどうだとか、映画の続きがどうだとか、他愛もないことで笑い合っていると、世界が静かに元へ戻っていくような錯覚を覚える。
……平和な日常って、案外こんなものなのかもしれない。
肉に舌鼓を打ちながら談笑しているなか、ふと、頭の片隅に残っていた「現実」が顔を出した。
そうだ。明日のこと、ちゃんと伝えておかないと。
「玄関前に黒服が居た件だけど、それで明日居ないから」
かみ砕いた肉を飲み込んでから、何気ない風を装って切り出す。
「え、何事もなかったんじゃないの?」
沙耶が箸を止め、じっとこちらを見る。
あの時の人を殴るという嫌な音は、ちゃんと部屋の中にも聞こえていたらしい。
「今日はね。明日10時に迎えが来る」
「怪しい団体とかじゃないっすか? 大丈夫っすか?」
七海も眉をひそめる。
黒スーツ=怪しい、というのはドラマの見過ぎな気もするけれど、否定できないのがまた辛いところだ。
「この前の渋谷駅でのことが国にバレちゃって、呼び出されたって言えば分かりやすいか」
「あー……」
沙耶が納得したように息を吐いた。
「お姉ちゃんバレたんだ……。どうやって見つけたのか聞いて来てよ」
「それは私も気になってる」
特に変装らしい変装もしていなかったとはいえ、あの混乱の中でよく特定できたものだ。
顔認証なのか、監視カメラなのか、それとも神の嫌がらせなのか――最後のは考えたくもないけれど。
それは明日直接聞くとして、今は目の前のご飯に集中しよう。
脳みそが難しいことを考えると時間を気にしなくなるから肉が冷めてしまう。
夕食が終わると、食器を洗って、順番に歯を磨き、寝る準備に入る。
今日はダンジョンには行っていないはずなのに、変なところで神経を使いっぱなしだったせいで、体の芯からどっと疲れが押し寄せてきた。
――ほんと、大変な一日だったなぁ。
いそいそと寝床を整えていると、わらわらと三人が寝室に入ってくる。
そうだ、今日は全員ここで寝るって話だったんだ。
「どういう感じで寝る?」
四人でキングサイズのベッドを囲んで立ちながら、とりあえず丸投げしてみる。
私が決めると不満が出そうだし、こういうのは多数決とか運に任せた方が平和だ。
案の定、じゃんけんで決める流れになった。
パチン、パチン、と手を鳴らし、三回勝負。
結果は――最初に勝ったのが七海、次が小森ちゃんで、最後に残った沙耶がビリ。
「ウチは沙耶ちゃんと話があるんで、左側貰うっす」
「えー……」
すかさず七海が宣言した。
壁側の一角をさっさと自分の縄張りに指定するあたり、抜け目がない。
「わっ、わたしは橘さんの隣……?」
「そうなるんじゃないかな?」
配置的には、沙耶、七海、小森ちゃん、私――の順番で落ち着いた。
端っこを狙っていた私の密かな願いは、綺麗に打ち砕かれた形になる。
全員がベッドに横になると、さすがのキングサイズも狭く感じる。
少しでも動けば誰かに当たる、という緊張感がすごい。明日の朝、誰かが床で寝ていてもおかしくない。
「わひゃっ!?」
「あ、ごめん、小森ちゃん……いやだったらぬけだして……」
ここ最近、沙耶とくっ付いて寝るのが当たり前になりすぎて、体が「近くにある柔らかいもの=抱き枕」と認識してしまっているらしい。
意識が霞んでいく中で、無意識に伸ばした腕が、小森ちゃんの腰をがっちりホールドしていた。
解放しようと頭では思うのに、くっ付いている部分から伝わる体温がじんわり心地よくて、眠気も手伝い、離したいという気持ちがどんどんと薄まっていく。
あくびをひとつ零し、毛布を引き寄せて皆で被る。
視線の端に見える小森ちゃんは、私と同じ――沙耶と七海の方を向いていて、狭いスペースにぎゅっと押し込まれていた。
部屋の照明を落とすと、途端に静寂が広がる。
四人分の呼吸と、布擦れの音だけが耳に届く。
そのまま、私はあっという間に眠りへと落ちていった。
◇ ◇ ◇
耳に刺さるような甲高い電子音で目が覚めた。
……この音は、嫌な予感しかしない。
寝ぼけた頭を揺さぶりながら、曲を聞き分ける。
これは、確か――「9時45分」のアラームだ。完全にやらかした時用の、最終警告。
7時から1時間ごとに違う音で鳴るように設定してあって、これは「ここで起きなきゃマジで遅刻確定だよ」と教えてくれる、最後のラインだ。
仕事の日だったら完全アウト。土下座案件である。
「くぁ……よく寝た」
「おあようごじゃいます……」
間延びした声がすぐそばから聞こえてきた。
視線を下げると、まだ半分夢の中みたいな顔をした小森ちゃんが、私の腕の中に収まっていた。
「え、あ……おはよう、小森ちゃん。もしかして寝れなかった?」
腕をほどくと、くっ付いていたところが熱を持っていて、寝汗で少ししっとりしている。
小森ちゃんは、と言えば――うん、見事なまでに寝不足の顔をしていた。目の下には薄くクマ。
……心底申し訳ない。完全に私のせいだ。
「あーあ、これは大変だ。小森さん、大変ですよ」
「確かにヤバいっすね。ウチでも分かるっす」
「そんなに……? ごめん、私が悪いんだけど……」
沙耶と七海が、なぜか深刻そうな顔で小森ちゃんの状態をチェックしている。
何の診断をしているのかは知らないが、二人して「これは放置できない」とでも言いたげだ。
「10時に昨日の人たちが迎えに来るんだ……」
罪悪感に押し潰されそうなので、せめて情報だけでも共有しておく。
ぐったりとした小森ちゃんに、もう一度しっかりと謝ってから、私は寝室を出た。
顔を洗って、歯を磨き、いつもの運動着に着替える。
鏡の前で髪をひとまとめにして後ろで結ぶと、ようやくいつもの「戦闘モード」の自分に戻った気がした。
昨日沙耶に没収されたウエストポーチを取り返し、アイテム袋と財布、携帯を詰め直して腰に巻く。
これで準備万端――というタイミングで、玄関のチャイムが鳴った。
一応、三人にも「行ってくる」と声をかけておこう。
寝室のドアに手をかけたところで、中から楽しそうな声が漏れてきた。
「ここまでスイッチ入ってたら処理しないと辛いだけっすね」
「私は指派。七海さんは?」
「ウチもっす。小森ちゃんはどっちっすか?」
「なに、それぇ? わかんないよぅ……」
……聞かなかったことにしよう。
なぜか一瞬で目が覚めたけど、聞かなかったことにする。うん。
ドアを開けて顔だけ覗かせる。
「じゃあ、行ってくるから。本当に悪いんだけど、小森ちゃんの介抱お願いね」
「うっす! 手取り足取り介抱するっす!」
「私たちに任せてよ! お姉ちゃん!」
やけに気合の入った返事が返ってきた。
小森ちゃんは相変わらず、布団の上でぐたりとしている。
――本当に、心の底から申し訳ない。
ドアを閉める直前、「やり方を知らないなら教えるところからっすね」と七海が言っているのが聞こえた気がしたが、たぶん気のせいだ。
献身的に介抱してくれているのだろう。うん、そういうことにしておこう。
寝室のドアを閉め、玄関へ向かう。
ドアを開けると、昨日と同じく、よく仕立てられた黒いスーツの男が一人、きっちりと直立して待っていた。
言動も仕草も、いかにも「一流の運転手」といった感じだ。昨夜殴られて伸びていた鼻折れ男とは大違いである。
「お待ちしておりました。それでは行きましょうか」
「よろしく」
軽く頷くと、男は丁寧な所作でエレベーターへと案内してくれた。
車に乗り込むと、ドアが静かに閉まる。
エンジン音はほとんど聞こえず、代わりにタイヤが滑らかに路面を滑っていく振動だけが体に伝わってきた。
車中での会話は特になく、黒服は徹底して「空気」になりきっている。
私は窓の外に流れていく街並みを眺めながら、ぼんやりとこれからのことを考えていた。
――国のお偉いさんとのお話し合い。
さて、どういう方向に転がるやら。




