19話--魔石と氾濫--
ついに――モンスターが溢れる日がやってきた。
ゲートのある位置は、回帰前の記憶で嫌というほど刻みつけられている。
それでも念のため、そして何より自分の足で「この世界の現実」を確認するために、現地へ向かうことにした。
朝五時。まだ外は薄暗く、吐く息だけが白く浮かぶ時間帯に家を出る。
早朝の空気は冷たく澄んでいて、肺の中を通るたびに意識がはっきりしていく。寝不足で重たい頭も、次第に冴えてきた。
電車を乗り継いで、渋谷駅に着いたのは六時頃。
通勤ラッシュには少し早いが、それでもスーツ姿や作業着の人たちが、光の灯っていない目をしながら、ベルトコンベアの上を流れる荷物みたいにホームへと押し寄せていく。
ホームから階段を下り、回帰前の記憶にある「場所」へ向かう。
近くにある女子トイレの入口に――迷彩服を着た自衛官が二人、門番のように立っていた。
魔力の流れを意識して感じ取る。
あのトイレの中から、確かに濃い魔力が漏れ出している。
回帰前と同じだ。ゲートは、間違いなくあの中にある。
モンスターが実際に溢れ出てくるのは、七時半前後。
一番人が多く、駅が一番「無防備」になる時間帯だ。
一度ホームへと戻り、ベンチに腰を下ろす。
ここで長居するつもりはないが、少なくともあと一時間は待機だ。
さすがに素顔を晒して暴れ回れば、後々面倒なことになるだろう。
そう考えて、家を出る前に沙耶のクローゼットを漁り、黒い布マスクと、仮面舞踏会でつけるような金色の蝶の形をした仮面を借りてきた。
沙耶曰く「文化祭の演劇で使ったやつ」らしいが――
なぜそんなものを、いまだに東京に持ち込んでいるのか。突っ込みどころは多いが、今は感謝だけしておく。
マスクと仮面はバッグに忍ばせてある。
剣や装備品は、もちろんアイテム袋の中だ。
少し小腹が空いたので、袋の中から携帯食料を一つ取り出し、包み紙を剥がして口へ放り込む。
「……相変わらず美味しくないなぁ」
幸い、近くのベンチには誰も座っていない。
小さく不満を漏らしても聞かれる心配はない。
これでも、数ある携帯食料の中では「一番味がある」部類だというのだから救いがない。
口の中の水分が軒並み持っていかれ、喉が詰まりそうになったので、自販機でミネラルウォーターを一本購入し、一気に流し込む。
食べ終えた包みをゴミ箱に捨て、再びベンチに戻る。
アイテム袋の中を思い浮かべているうちに、ふとある存在を思い出した。
――古代竜の魔石。
取り出して、手のひらの上に乗せる。
拳ほどの大きさで、内部にうねるような輝きが見える。
まるで、凝縮された雷雲を透明な殻に閉じ込めたような、異様な密度の魔力。
この魔石を手に入れたとき、本当ならその場で喰らい、スキルを得られれば――そう思っていた。
けれど、結局もったいなさに負けて今まで保留していた代物だ。
古代竜のダンジョンが出現するのは、本来三十年後。
あの時点から見ても、ずっと先の未来の話だ。
『回答します。アイテム名:古代竜の魔石は、体内から取り出されてマイナス263295時間が経過しています。食すことが可能です』
「は?」
思わず手を滑らせかける。
落としそうになった魔石を、慌てて両手で受け止めた。
【全知】曰く、「マイナス」二六万三千時間が経過している――?
魔石を喰う条件は「体内から取り出されてから三十分以内」。
普通に考えれば、とうの昔にタイムリミットが過ぎているはずだ。
けれど、回帰した今は「過去」。
つまり、古代竜を倒して魔石を取り出したのは未来の出来事であり、そこから見れば「まだ取り出してから三十分以内の状態」という理屈になる……?
『回答します。認識に誤りはありません』
「暴論だな……」
『回答します。そのように設計されているため、仕様上問題ありません』
世界の仕組みがどうなっているのか、細かいところまでは分からない。
ただ一つ言えるのは――この世界を設計した連中が、回帰だの時間遡行だのまで真面目に想定してはいなかった、ということくらいだろう。
まあ、それでも【全知】が「問題ない」と言うのなら、原則としては大丈夫なのだろう。
問題は、私の身体がそれに耐えられるかどうかだ。
人目は……今はまだ少ない。
ここで一気に喰ってしまう、という選択肢も頭をよぎるが――
『警告します。魔石の魔力に対して器が耐えきれない可能性があります。魔力に耐えられずスキルが獲得できずに体が崩壊して死ぬ可能性が50%、魔力過多による暴走状態に陥り意識が戻らない可能性が45%。無事に成功する確率は5%です』
「…………」
成功率、五パーセント。
十回挑戦したところで、九回は死ぬか廃人コース。誰が今ここで挑むか。
まだ時間的余裕はある。
今日これからモンスターを大量に倒してレベルを上げ、もう少し器を広げてから挑戦したほうがいい。
古代竜の魔石をそっとアイテム袋に戻し、腕時計に視線を落とす。
時刻は、すでに七時半を少し過ぎていた。
ゲートのある方角から、空気の質が変わっていくのが分かる。
魔力の流れが、じわじわと濃く、荒々しくなっていく。
これは――モンスターが溢れ出す直前の「前兆」だ。
少しして、ホームの下――階段の向こう側から、ざわざわと人のどよめきが聞こえ始めた。
私は反射的に立ち上がり、駆けつけようとする。
……が、すぐに足が止まる。
すでに、下のフロアは人だらけだった。
通勤時間特有の混雑と、「何かが起きている」という野次馬根性が最悪の形で合わさり、前に進めない人の壁ができあがっている。
(クソがっ)
心の中で悪態をつく。
のんびりしている時間はない。あの向こうでは、もう「始まっている」はずだ。
私は立ち止まりざまに、黒い布マスクを装着し、その上から金色の蝶の仮面をぱちんと固定する。
視界の端が少し狭くなるが、特に問題はない。
ホーム階の非常停止ボタンに手を伸ばし、迷いなく押した。
けたたましい警報音が、駅構内に響き渡る。
目覚まし時計なんて生ぬるいレベルじゃない。耳を殴りつけるような音は、ほぼ本能的に人の注意を引きつける。
野次馬の好奇心も、不安も、恐怖も――一瞬だけ、そちらへ向かう。
その刹那を逃さず、私は【神速】を発動させた。
駆けつけようとしていた駅員たちを風圧だけで吹き抜けるように追い越し、自衛官が立っていたトイレ前まで一気に駆ける。
壁や柱を足場として走り抜ける感覚は、もう身体に染みついていた。
たどり着いたとき――
そこには、自衛官の片方が、すでにオークに掴まれ、群衆へと投げつけられる瞬間があった。
ぐしゃり、と嫌な音がして、血が飛び散る。
一瞬前までざわめいていた声が、ぴたりと止まり、異様な静寂が訪れた。
「き、きゃぁああああぁあ!」
飛び散った血を浴びた女性が、意識を現実へ引き戻すように悲鳴を上げる。
それが合図になったかのように、止まっていた時間が一斉に動き出した。
我先にと改札へ向かって押し寄せる群衆。
その流れをせき止めるように、トイレの中から――
地を這うような、低く濁った叫び声が響いた。
オークの雄叫びだ。
続けざまに、ゴブリン、コボルト。
人より一回り小さい、あるいは犬のような姿のモンスターたちが、ぞろぞろとゲートから溢れ出してくる。
至るところで悲鳴が上がり、押し合い、転び、踏まれ――
ほんの数秒で、そこは地獄の縮図と化した。
「その手を退けろ!!」
私はアイテム袋から剣を引き抜き、もう一人の自衛官に止めを刺そうとしていたオークの腕を叩き切った。
飛び散る血と共に腕が宙を舞い、そのままオークの胴体を水平に両断する。
続けざまに、襲いかかってきた複数のゴブリンとコボルトを、細切れになるまで切り刻んでいく。
腰を抜かし、震えながら呆然としている自衛官の胸倉を掴み上げ、強引に立たせた。
「非常事態だ。ここを見ている人間が、何も知らないわけがない。早く対策本部に連絡して」
「なっ、なんで一般人が本部のことを……」
「そんなことはどうでもいい。お国の事情と人の命、どっちが大切か自分で考えるんだね」
目を白黒させている自衛官を振り払うように放し、私は再び前を向く。
視界に入る生存者は――いない。
そこにあるのは、すでに息絶えた人と、嬉々としてその死体を踏みつけ、改札を目指して進むモンスターたち。
(――行かせるものか)
私は床に転がっていた、さっき斬り飛ばしたオークの腕を拾い上げた。
モンスターたちの中で、ひときわ大きく、装備も整っているオーク――
恐らくここに出てきた群れの指揮官格目掛けて、その腕を全力で投げつける。
肉と肉がぶつかる鈍い音がして、オークの顔に腕が命中した。
驚いてこちらを振り向いたオークに向かって、私は手のひらを上向きに立ててみせる。
――来いよ、と。
明らかな挑発に、オークは鼻を鳴らし、私目掛けて威嚇の咆哮を上げた。
それを合図にしたかのように、改札へ向かっていたモンスターたちが進路を変え、雪崩のように一斉にこちらへ突っ込んでくる。
自衛官を巻き込まないよう、私はホーム階への階段前まで下がり、そこで構えを取った。
さあ――第一ラウンドの始まりだ。
飛びかかってきたゴブリンを斬り捨て、飛来する矢をつまんで投げ返す。
その合間を縫うように前へ出てくるコボルトを蹴り飛ばし、剣で肉も骨もまとめて断ち切る。
それを何度も、何十回も、ただひたすらに繰り返す。
ミスは許されない。
一度でも足を止めれば、あっという間に飲み込まれる。
集中が極限まで高まり、神経が細く研ぎ澄まされていく感覚があった。
雑音が遠のき、聞こえるのはモンスターの息遣いと、矢や石が空気を裂く音だけ。
視界の輪郭が異様なまでに鮮明になり、逆に色が抜け落ちていく。
世界が、線と影だけで構成された戦場に変わる。
――どれほど時間が経ったのか。
ふっと、モンスターの攻撃が止んだ。
意識が少し浮上すると共に、無機質な色彩の世界に徐々に色が戻ってくる。
辺りを見渡すと、そこには山のように積み重なったモンスターの死骸。
床は血と体液で濡れ、靴を動かすたびに、ねちゃり、と嫌な音がした。
自分の服も、返り血と汗で重く張りついている。
肩で息をしながら、正面を見据える。
唸り声。
そこには、一体のオークが残っていた。
私が挑発した、あの指揮官格のオークだ。
さっきまでの勢いはどこへやら、その足はわずかに震え、まるで怯えているかのように私を見つめている。
私は剣についた血を一振りで払い落とし、ゆっくりと歩みを進めた。
「グガァ……」
「何故、後退りをする? 貴様らが、私の領域に来たのだろう?」
一歩、近づくたびに、オークは一歩、後ろへ下がる。
何を考えているのかは知らない。だが――ここで逃す選択肢は、ない。
踵を返して逃げ出そうとしたオークの背中を、私は迷いなく切り裂いた。
振り向く暇すら与えず、その首を断ち切る。
噴水のように吹き上がる血が、頬を濡らした。
それを指先で拭い取り、ふうと一つ息を吐く。
「これで第一波かぁ……しんど」
天井越しに、上空でうるさいほどのヘリコプターが旋回している気配がある。
おそらくはテレビ局のヘリだ。
この惨状を、きっとどこかの誰かが、画面越しに眺めている。
そして――
私のぼやきを聞いていたかのように、再びゲートからモンスターが湧き出してきた。
今度はさっきよりも、もっと多い。
私はもう一度、剣を握りなおし、血と肉の波へと飛び込んだ。
――まだ、第一ラウンドが終わっただけだ。




