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14話--帰宅--

 実家に帰ってきてから、気づけば一週間が経過していた。

 あの日ゴブリンが現れてからというもの、私は毎日「見回り」という名目の散歩を日課にしている。森の方や近所の小道をゆっくり歩き、空気の流れや魔力の濃さを確かめる――そんなことを繰り返してきたが、少なくとも今のところ、新しいゲートらしき魔力の気配は感じられなかった。


 ……当分は大丈夫だろう。少なくとも、この一帯だけは。


 もっとも、その「見回り」の実態はというと、半分以上は母さんの配信から逃げるための避難行動だったりするのだけれど。

 沙耶から教えてもらった母さんのチャンネルをスマホで確認し、配信が始まったら家を出て、配信が終わるタイミングで戻る――ここ数日は、ほぼそれがルーティンと化していた。


 母さんのテンションフルスロットルなトークに付き合うのは嫌いじゃないけど、画面に映されるのは別問題なのだ。

 自分の平穏な日常と身バレ防止のためにも、私は今日も元気に「哨戒任務」という名の現実逃避をこなしていた。


 そんな一週間が過ぎた頃、母さんの体調もほぼ元通りに戻り、家の中に以前と変わらない空気が流れ始めたある日のこと。


「もう元気なら、私は東京に帰ろうかな……」


 ぽつりとリビングでそう漏らすと、隣の部屋からすぐさま反応が返ってきた。


「お姉ちゃん帰るの?」


 宿題のプリントをテーブルいっぱいに広げ、シャーペンを咥えたままの沙耶が、勢いよく顔を出してくる。

 さっきまで「誰かに見られてないと宿題のやる気が出ない」などと甘えたことを言っていたくせに、その声には明らかに焦りが滲んでいた。


 今、私はその「見張り役」として、彼女の勉強を監視中だ。


 明日、東京へ戻れば、ダンジョン出現から数えて八日目。

 そこからさらに二日経てば――モンスターがダンジョンの外へ溢れ出す。


 今回のように、数匹だけこっそり抜け出す程度ではない。

 十日経って一斉に出てくるときは、少なく見積もっても数百、多いときは数千のモンスターが同時に現れる。

 回帰前、日本で最初に確認された渋谷と梅田のダンジョン――どちらも駅のトイレ内という、人目こそ少ないが人通りは絶えない場所で発生し、初日にはすでに封鎖されていたと聞いた。


 人口密度の高い場所ほど、ダンジョンが出現しやすい傾向があった……はずだ。

 東京に戻るということは、いよいよ本番に向き合うという意味でもある。


「その宿題終わらせないと、沙耶は連れていけないかなぁ」


 わざとらしく肩をすくめて言うと、沙耶は一瞬きょとんとした後、勢いよく椅子から立ち上がった。


「分かった。全力で終わらせるから部屋から出て待ってて」


 さっきまで「眠い」「集中できない」「問題文が私に喧嘩売ってる」とか言ってた人とは思えない集中モードへの切り替わりだった。

 人が見ていなくてもできるじゃん、というツッコミが喉まで出かかったが、せっかく芽生えたやる気の芽を自分で踏み潰すのももったいない。


 私は何も言わず、そっと部屋を後にした。


 ……とはいえ、私の部屋はというと、寝るスペースをかろうじて確保している程度には物置と化している。

 避難場所としての機能はほぼゼロだ。必然的に、行き着く先はリビングになる。


「……あ、母さん。調子はどう?」


 リビングのソファでくつろいでいた母さんに声をかけると、彼女はマグカップを両手で包み込んだまま、こちらへ笑顔を向けた。


「もう大丈夫よ。あきちゃんは明日帰るの?」


「聞こえてたんだ。元気そうなら帰ろうかなって」


 どうやら、さっきの会話は壁一枚では防げていなかったらしい。

 母さんの声も表情も、すっかりいつもの調子に戻っていて、あの日の毒の症状が嘘みたいに見える。


 正直なところ、私だってそろそろ自分の家に帰りたい。

 一人暮らしに慣れてしまうと、どれだけ居心地のいい実家でも、「自分の巣」ほど気が休まる場所はないと分かってしまう。


「なら、沙耶も連れてってあげて〜。あの子ったらあきちゃんが東京行ってから毎日、『あきちゃんはいつ帰ってくるの』って聞いてたんだからね〜?」


「ちょっと!!!! お母さん!!!!」


 母さんの爆弾発言に反応して、部屋の奥から怒鳴り声が飛んできた。

 ガタン、と勢いよく椅子の音が鳴り、ドタドタと足音が近づいてくる。


 顔を真っ赤にした沙耶が、自室から飛び出してきて、そのまま母さんに詰め寄った。


「それは言わないでって言ったでしょ!!」


「あら〜、ごめんねぇ〜」


 母さんは口では謝っているものの、声色も表情も一ミリも反省していない。

 このテンションの母さんを止めるのは、私でも無理だ。沙耶よ、諦めろ。


 これ以上被害が拡大する前に回収したほうがよさそうだ。

 私は真っ赤な顔でぷるぷる震えている沙耶の肩をそっと抱き寄せ、そのまま引き離す。


「ほら、宿題終わらせて一緒に帰るんでしょ?」


「……うん」


 小さく頷いた沙耶と並んで廊下を歩き、部屋の前まで送っていく。

 扉を開けて中へ押し込みながら、「宿題頑張ってね」と声をかけると、彼女はいじらしいほど小さな声で「うん」とだけ返した。


 リビングに戻ると、母さんがニヤニヤと、いかにも「何か言いたいことがあります」という顔をして待ち構えていた。


「だいぶ仲良くなったじゃないの」


「そう? 変わらないと思うけど……」


 私としては、昔から仲が良かったつもりだ。

 強いて言うなら、沙耶の扱い方――というか、攻略法が分かってきた気はする。


 物理的に距離を詰めて、頭を撫でたり抱きしめたりして話せば、大体のことは何とかなる。

 ……こうして文字にすると、完全に駄目な甘やかし方な気もするが、効果があるのだから仕方がない。


 ***


 そして翌日。


 無事に宿題を終わらせた沙耶は、車の助手席で見事なまでに燃え尽きていた。

 連れていく条件は「ひとまず一教科終わらせること」くらいのつもりだったのだが、どうやら徹夜で全部終わらせたらしい。


「駐車場ついたよー」


 マンションの駐車スペースに車を停め、エンジンを切りながら声をかけると、シートにもたれかかっていた沙耶が、かすかに身じろぎした。


「お姉ちゃん……私は燃え尽きたよ……」


 真っ白に燃え尽きた、とはよく言ったものだ。

 顔色こそ悪くないが、目の焦点が完全に合っていない。今ここで布団をかけたら余裕で朝まで寝そうだ。


「はいはい、私の家に帰ったら寝ようね」


「一緒に!? いいんですか!?」


 さっきまで瀕死のテンションだったのはどこへやら、ガバッと勢いよく上体を起こして、ぐいっと身を乗り出してくる。

 目がきらっきらに輝いている。分かりやすいにもほどがある。


 実家では各自に定位置があるので、基本的には別々に寝ていた。

 一方、私の部屋には布団が一組しかない。必然的に――まあ、察しの通りだ。


「私も運転で疲れたから寝ようかな……」


「うん、寝よ? 一緒に」


 やけに「一緒に」を強調してくる。

 そこまで推してくることだろうか、寝る体勢くらい。とは思いつつ、断るほどの理由もない。


 車を降りると、沙耶の歩く速度はいつもより二段階は速かった。

 疲れているはずなのに、家に近づくほど足取りが軽くなるのが見ていて分かる。


 玄関の扉を開けると、一週間ぶりの我が家の空気がふわりと鼻をくすぐった。

 洗剤と柔軟剤、ボディソープ、それから生活の匂いが少し混じった、慣れ親しんだ香り。

 「ああ、帰ってきた」と、胸の内側がほっと緩む。


 靴を適当に脱ぎ捨て、服もさっさと脱ぎ捨てて、ほぼ反射的に浴室へ直行する。

 丁寧に湯船を張って浸かりたい気持ちは山ほどあるけれど、今それをやると確実に風呂で寝落ちする未来しか見えない。


 今日はシャワーで我慢だ。


 さっと汗を流し、髪と身体を洗って浴室から出る。

 バスタオルでざっと水気を拭きながら廊下を歩いていると、入れ違いで沙耶が浴室に向かっていくのが見えた。


 その間に、仕事用の携帯の確認をしておこう。


 電源を切っていたスマホを立ち上げると、不在着信がいくつかと、新着の友達登録通知がまとめて表示された。

 不在着信の相手は上司と……見覚えのない番号。


 番号検索を軽くかけてみると、そのうち二件は警察署とコンビニからのものらしい。


「……何かしたっけ?」


 思わず自分で首を傾げる。

 最近警察に世話になりそうなことといえば――ひとつ、心当たりがあるにはある。


「友達登録のほうは……こもりん? 誰だ……」


 登録された表示名を見て眉をひそめる。

 「こもりん」という聞き覚えのあるような、ないようなあだ名。


 届いていたメッセージを開いて、ようやく思い出した。


 ……ああ、あの時のコンビニ店員の子か!


「初めまして、こんにちは! 小森 愛です。

 あの時のナンパ男の件は片付きましたので連絡しました。

 私の家族が経営しているコンビニなので私はいつでも居ます。

 お礼をしたいので来るときに連絡して頂けないでしょうか……」


 丁寧で真面目そうな文章。

 怪文書みたいなのが届いていたらどうしようかと一瞬構えてしまったが、読み終えてみれば、ごく真っ当な内容だった。


 ――ちゃんと、まともな人でよかった。


 どう返そうか考えながら画面を眺めていると、浴室からシャワーの音が止まるのが聞こえた。

 少しして、濡れた髪のままバスタオルを巻いた沙耶が、ドライヤーを片手に持って出てくる。


「髪乾かして〜」


「自分で乾かしなよ……」


 我が物顔で、当然のように私の前に座り込み、ドライヤーを押しつけてくる。

 さっき洗面台の前で、自分の髪をさっさと乾かした努力は、どうやら完全に無駄になったらしい。


 まったく、手のかかる妹だ。

 と、内心で苦笑しながらスイッチを入れ、指で髪を梳きつつ、根元から丁寧に風を当てていく。


 ほのかにシャンプーの香りが漂い、ドライヤーの温風と相まって、妙に眠気を誘う。

 乾かし終えるころには、こちらの集中力まで持っていかれそうになる。


「よし、終了」


 電源を落としてドライヤーをテーブルに置くと、沙耶の視線が私の手元――さっきまで触っていた仕事用スマホへと滑っていった。


 そして、ためらいもなくそれをひょいと手に取る。


「お姉ちゃん? これは?」


「げ、えっと、それはね――」


 画面に映る「こもりん」の文字。

 その下に表示されたメッセージの一部。


 ――あ、これ絶対面倒なやつだ。


 心の中で額に手を当てつつ、事情をひと通り説明する羽目になった。

 コンビニでの出来事、ナンパ男のこと、小森さんの正体、警察とコンビニからの着信の理由。


 沙耶は「ふーん」と相槌を打ちながら聞いていたが、その目は明らかに納得していない。

 疑り深く、じとっとした視線でこちらを見つめてくる。


 ……これは、まともに相手をすると根掘り葉掘り聞かれて朝になるパターンだ。


 とりあえず今は、説明を深掘りされる前に退くしかない。

 私はスマホをテーブルに置き、さりげなく立ち上がって沙耶の手を取った。


「ほら、もう遅いし。寝よ?」


「むぅ……」


 不満げに唇を尖らせる沙耶を、半ば抱きかかえるようにしてベッドまで連れていく。

 彼女が余計なことを口にする前に、そのまま布団の中に引きずり込んで、ぎゅっと抱きしめた。


 腕の中で、沙耶の体温と、ふわりとしたシャンプーの香りが混じる。

 彼女の質問も、疑いの視線も、今はほんのり遠くなっていく。


 ――説明の続きは、また今度でいいだろう。


 そんな、都合のいい言い訳を胸の中で呟きながら、私はそのまま、静かに眠りへと落ちていった。


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