132話--覚悟--
再び地面を蹴る。
片目しかない視界は狭い。それでも見える範囲の全てをルトリエだけで埋め尽くすみたいに、私はまっすぐに踏み込んだ。
闇をまとわせた剣が何度も何度も軌跡を描く。
上段、側面、足払い気味の低い斬り上げから。
これまで積み重ねてきた全てを混ぜ込んだ一打一打を私は迷いなく叩きつけた。
――だが。
ルトリエは一歩も動かなかった。
足も、腰も、背すら揺らさない。
ただの手首と肘のわずかな角度だけで私の剣を受け、流し、弾き返す。
刃と刃が噛み合うたびに黒い火花がぱちぱちと弾けて床に吸い込まれていく。
「どうしたの。さっきより、静かだね」
息が荒くなり始めた喉で、あえて軽い調子を装って声を掛ける。
ルトリエの瞳が興味深そうに細められた。
「本気で来いと言ったろう? 妾は今、お主という器の底を覗いておるだけじゃ」
「底なんて覗いてる余裕あるの?」
剣を振り抜きながら、わざと口元を歪めて笑う。
「それとも……怖い? 私が怖くて、踏み込めない?」
わざと挑発めいた響きを混ぜて言った瞬間、空気がぴしりと張り詰めた。
闇の密度が一段階、いや二段階は変わった。肌に突き刺さる刺の数が増えたみたいに全身が総毛立った。
ルトリエが、ふう、と小さく息を吐く。
「……調子に乗るなよ、お主」
白黒反転した瞳が真っ直ぐに私を射抜いた。
「死んでくれるなよ」
その一言が合図だった。
次の瞬間、視界からルトリエの姿が消える。
消えた、と思った時には剣が肩口にめり込む寸前だった。
反射で闇を集中させて防ぐ。
それでも腕が吹き飛んだと錯覚するほどの衝撃が肩から背骨を通って足先まで走った。
踏ん張りきれずに床を滑る。膝ががくりと折れかけるところを歯を食いしばって強引に支え、そのまま回転して次の一撃を剣で受けた。
――重い。
さっきまでも十分に重かったはずの一撃が今は別物の質量を持ってのしかかってきている。
闇で補強した骨と筋肉が、ぎしぎしと悲鳴を上げた。
一歩下がれば、そこに斬撃が落ちてくる。
半歩横にずれれば斜めからの突きが内臓を狙ってくる。
防ぎきれない分は肉で受けるしかない。
脇腹に浅くない線が刻まれて太腿に刃がかすめ、腕の外側の肉が裂けた。
血が飛ぶ感覚だけがある。右側は見えないから飛沫は分からない。
それでも私は剣を下げなかった。
「何故じゃ」
いつの間にかルトリエの声が耳元にあった。
背後からの一撃をぎりぎりで弾き返しながら私は息を切らしつつ笑う。
「何が?」
「その身体では、もう十分に戦闘不能じゃ。普通の人の子ならとうに膝を折っておる」
「私は普通じゃないからね」
喉の奥から、からからに乾いた笑いが漏れた。
自分でも驚くほど声は明るかった。
「私はさ……回帰してからは何も諦めないって決めてるんだ」
自分の事で精一杯で気づいたときには身内と呼べる人間は皆、行方知れずだった回帰前。
だから今の私は手に届く範囲なら何でもやる。
次の斬撃を剣で受け止めながら言葉を叩きつける。
踏み込みに合わせて足首が嫌な音を立てた気がする。それでも止まることはない。
「帰ることも、皆と笑うことも。約束も、全部。途中で放り出すぐらいなら、ここで斬り潰された方がマシだよ」
肺が焼ける。心臓が早鐘を打つ。
痛みで顔が歪んでいるはずなのに口元には笑みが張り付いていた。
自分で自分の表情がよく分かる。
苦悶の呻き声ではなく笑いが零れそうになるのを必死に噛み殺している。
「……お主」
ルトリエの剣が一瞬だけ止まった。
その刹那を逃さずに私は半歩踏み込み、斜め下から斬り上げる。
刃がぶつかり、火花――いや、闇の粒子が弾けた。
ルトリエはそのまま受け止める……つもりだったのだろう。
ぎり、と歯を食いしばる音がしたのは、どちらのものだったか。
先ほどより手応えがある。自分でも驚くほど剣戟が鋭い。
身体はさっきよりも確実にボロボロだ。視界は狭く、呼吸は乱れ、手足の感覚も薄れ始めている。
それでも一撃一撃に乗る重みは増していた。
ルトリエの口元に、わずかな驚きが浮かぶ。
「まだ、出力があがるのか……」
「鍛え方がいいんでしょ、ルトリエたちのね」
笑いながら、再び踏み込む。闇の循環が、どんどん速度を上げていく。
身体の芯が焼けるように熱い。限界をとっくに超えているのは分かるのに、その先に足を突っ込んでいる感覚があった。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
一撃ごとに骨が軋み、肉が裂けては闇が無理やり繋ぎ止め、また壊れていく。
ルトリエもまた、まったくの無傷というわけではなくなっていた。
皮膚にかすり傷ほどの線が増えて服の一部が裂け、黒の髪が何本か舞って床に落ちていく。
それでも戦局はずっと一方的だった。私の方だけが確実に削れていく。
やがて、踏み出そうとした足が前に出なかった。
ただ、それだけのことだった。
振り抜こうとした剣が空を切り、その反動でバランスが崩れる。
膝に力が入らない。床板が近づいてくるのに腕が間に合わない。
地面に叩きつけられる感覚はなかった。何かに支えられて優しく寝かされて柔らかいものが頭を支えた。
「……あれ」
ぼやけた左目だけで上を見上げると逆光の向こうに影が揺れている。
ルトリエの膝の上に頭を乗せられていた。膝枕、なんていう単語が頭の隅をかすめる。
右目には依然として何も映らない。
残った左目も疲労と痛みと魔力の濃さで視界が滲んでいて輪郭がうまく掴めなかった。
「……よく、ここまで持たせたものじゃ」
頭上から降ってきた声は、どこか震えていた。
額にそっと手が置かれる。掌から、ひんやりとした闇の気配が伝わってきた。
頬のあたりに、ぽつりと冷たいものが落ちる。
汗か、血か、あるいは幻か。そのどれかだろうと軽く流した。
「お主の覚悟……とくと見せて貰ったぞ」
静かな言葉だった。
叱責でも称賛でもない。ただ事実を告げるような声音。
「全く……届かなかったかぁ……」
自分でも驚くほど声は穏やかだった。
悔しさがない訳じゃない。喉の奥に、じわりと熱いものが広がる。
それでも泣き言を零すほどの余裕もない。
私はただ、少しだけ笑った。
「いや……」
ルトリエの声が、すぐそばで揺れた。
「少なくとも妾は、お主を認めよう」
ぽつ、ぽつ、と頬に落ちるものが増える。
冷たい。けれど芯の方には不思議な温度を残していく。
汗や血では、こういう残り方はしない。ようやく遅れて理解が追いついた。
――これは、涙だ。
重たい腕を持ち上げる。
空を切った手を慎重にたぐり寄せるように上へ伸ばしていくと何か柔らかいものに触れた。
震えている。指先をそっと滑らせると、濡れた頬の感触があった。
「やっぱり……怖いんじゃなくて」
声がかすれてうまく出ない。
それでも、言葉を繋ぐ。
「一番、優しいんだね……」
しばしの沈黙のあと頭上で小さく笑う声がした。
「くははっ。生意気な人の子よ――」
ふわり、と唇に柔らかいものが触れた。
驚く暇すらなかった。触れられた箇所から暖かくて柔らかい闇がするすると流れ込んでくる。
それはさっきまで感じていた冷たい闇とは違う。
焚き火のそばで毛布にくるまったときのような、どこか懐かしい温度を持った闇だった。
口の中から喉、胸、腹、四肢の先にまで、じわじわと闇が染み渡っていく。
裂けていた筋肉がひとつずつ縫い合わされ砕けかけていた骨が内側から組み直される感覚があった。
焼けるような痛みが少しずつ冷めていく。
塞がっていた右側の世界にも何かが流れ込んできた。
眩暈に似た違和感が一瞬だけ走り、それから――視界が、ぱっと開ける。
右目が戻っていた。
ようやく両目で視界を捉えたとき、唇に触れていた感触はもうない。
代わりに目の前でルトリエの身体が砂のように崩れ始めていた。
「待っ――」
声を出そうとした瞬間、ルトリエの指が私の口元を軽く塞いだ。
その仕草は今生の別れのようなものではなく一人暮らしをする子供を見送る親のような暖かさがあった。
「妾が消えれば、神々からの干渉はさらに激化するであろう」
崩れていく輪郭の中で瞳だけがくっきりと残っている。
「本体を、頼んだぞ……」
その言葉に返事をしようと口を開いたときには、もう間に合わなかった。
ルトリエはただ微笑み、何も言わずに闇の粒となって四散した。
残された温もりが胸の奥にずしりと沈む。
しばらく動けなかったが、やがてゆっくりと上体を起こす。
胸のあたりに手を当てると内側でうねる闇の気配がはっきりと分かった。
一つ。二つ。三つ……四つ。
「……ちゃんと、居るんだね」
小さく笑う。
涙なのか汗なのか分からないものを乱暴に拭って、天井――いや、この空間の「空」を見上げた。
その視界の端で、赤いウィンドウが次々と現れた。
『神々がプレイヤーの【隠蔽】を【看破】します』
『創造の神が【塵骸の女王の庇護】に気付きました』
『神々がプレイヤーの現在地を把握します……最終層をクリアしていることに気付きました』
「今さら、気づくんだ……」
乾いた笑いが漏れる。
さらにウィンドウが二枚重ねられた。
『【塵骸の女王】が試練場をクリアした者に庇護を与えた特権を行使しました』
『プレイヤーを【塵骸の女王】の元へ転送します』
文字を読み終えるより早く足元から黒い光が立ち上がる。
今まで感じていた闇の輝きだ。
――視界が再び、暗転した。




