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13話--説明と理解--

 帰るときも、向かうときとは打って変わって、道中は何事もなく終わった。

 森を抜け、舗装された道に出て、見慣れた坂道を登って――ゴブリンの頭が転がっている、悪趣味極まりないマイホームへと無事帰宅した。


 ……いや、客観的に見たら本当に酷いなコレ。自分でやったことだけど、他人の家だったら遠回しに通報を検討するレベルだ。


 古代竜骨の剣はアイテム袋の中に収納して、何も持っていないふりをして玄関から家の中へ入る。

 土間に靴を揃え、軋む廊下を急ぎ足で進むと、母さんと沙耶がいるであろう寝室の前に着いた。


 襖に手を掛け、一呼吸置いてから開け放つ。


「――」


 視界に飛び込んできたのは、斧を構えた沙耶と、布団の上で寝ている母さんだった。


 沙耶は、目を見開いて私の方を睨みつけ……いや、正確には、いつでも振り下ろせるように肩に力を込めていた。

 斧の刃先が小刻みに震えていて、どれだけ緊張していたかがよく分かる。


「沙耶、私だよ」


 慌てて両手を上げて名乗ると、沙耶は「あ……」と声を漏らし、斧を持ったままその場にへたり込んだ。


「なんだぁ……お姉ちゃんか……」


 腰が抜けた、という表現がこれ以上なくしっくりくる崩れ方だった。

 斧が床を軽く打ち、木の板に鈍い音が響く。


「ごめんごめん、ただいま。遅くなった」


 斧をそっと取り上げて部屋の隅に置き、私は母さんの枕元へ膝をついた。


 母さんの上体をそっと起こし、持ち帰った解毒薬の瓶を唇に当てる。

 とろりとした液体が、母さんの口の中へと流れ込んでいく。


 良薬は口に苦し――と言うが、解毒薬はその中でも頭一つ抜けた「激マズ薬」として有名だ。

 回帰前のハンター時代、これを飲み慣れた人間は「味覚が壊れている」とまで言われていたくらいだ。


 母さんは一口含んだ瞬間、目を見開き、全力で「なんてものを飲ませるの!?」と訴えかけてくるような顔をした。

 言葉にはならないが、顔面の筋肉だけでここまで雄弁に語れるのはある意味才能だと思う。


「大丈夫、薬だから。ちょっと我慢してね?」


 そう言って、できるだけ安心させるように笑みを浮かべる。

 私の笑顔が逆効果になっていないことを祈るしかない。


 最初は本気で吐き出そうと口を動かしていた母さんも、途中からは抵抗を諦めたのか、悟りきった表情で流し込まれていく薬を受け入れていた。

 この解毒薬は一本まるまる飲み切らないと効力を発揮しない。どれだけ不味くても、途中で止める選択肢はないのだ。


「笑顔で得体の知れない物を有無を言わさず飲ませるとか怖すぎるでしょ」


 隣で見ていた沙耶が、若干引き気味の声でぼそっと呟いた。


「え……? じゃあ母さんの諦めた表情は死を覚悟した顔だったの?」


「そうだと思う。あの恐怖、私じゃなくちゃ見逃しちゃうね」


 謎のドヤ顔で胸を張る沙耶。

 何故そこで誇らしげなのかは分からないが、母さんが薬を全部飲み干したのを確認して、そっと体を布団へ戻す。


 しばらくすると、母さんの呼吸が穏やかになり、そのまま眠りについた。

 毒の痛みが引いたのか、苦悶に歪んでいた表情も、今はただの寝顔だ。


 ――これは、永遠の眠りではなく、ちゃんと「休息」としての眠りだ。


 一度、ここまで毒が回ってしまうと、元通りの日常生活が送れるようになるまで二週間はかかる。

 その間は看病が必要になるだろうから、私もこの家に残るつもりだ。


 会社は……まあ、あとで電話して休みを取ろう。

 有給をここで使わずして、いつ使うというのか。


「じゃあ、沙耶。縁側行こっか」


「うん……」


 ついに説明する時が来てしまった。

 胸の奥が、じんわりと重くなる。


 襖を閉めて廊下を歩き、縁側に出ると、日が暮れる寸前の赤い光が、伸びた影ごと私たちを迎え入れた。


 庭の向こう、山の稜線のあたりがじわじわと夜に飲まれていく。

 街灯もほとんどないこのあたりは、日が落ちると本当に暗い。民家の窓から漏れる灯りだけが、ぽつぽつと浮かぶ。


 東京のように、夜になっても空が明るい場所とはまるで別世界だ。

 ああ、本当に実家に帰ってきたんだな――と、毎回ここで実感する。


 縁側に腰を下ろすと、木の板がみしりと小さく鳴いた。

 隣に座った沙耶が、ぎゅっと膝を抱える。


「うん、お姉ちゃん。お願い……」


「わかった。実は――」


 私はゆっくりと言葉を選びながら、沙耶に話し始めた。


 未来から過去に戻ってきたこと。

 これから世界の在り方が変わること。

 ダンジョンという存在と、その危険さ。

 私が知っている「これから起きる出来事」の断片。


 そして、戻ってくる前の私は男だった――と口にしかけたところで、愛の神からぴしゃりとストップが入ったので、その部分の説明は飲み込んだ。

 神にまで止められるということは、今は話さないほうがいい事情なのだろう。そう解釈することにする。


 沙耶は、私の話を途中で遮ることなく、素直に相槌を打ちながら最後まで聞いていた。

 すべて語り終えたころ、彼女は「はいっ」と挙手をしてから口を開く。


「はいっ! いまいちよくわかりません!」


「だよねー……」


 即答された。

 ここまで真顔で分からないと言われると、逆に清々しい。


「あ、でも、急にお姉ちゃんが柔らかくなったり変わったのは……そういうこと……?」


「どういうこと……」


 「柔らかくなった」という部分の説明を求めたいところだが、たぶん聞かないほうが精神衛生上良い気がする。


 沙耶は沙耶なりに理解しようとしてくれているようだ。

 今はぼんやりしたイメージしか掴めていなくても、そのうち否が応でも現実と向き合わざるを得ないタイミングが来る。


 顎に手を添え、ブツブツと私には聞き取れない小声で何かを呟きながら、真剣な顔で考え込んでいたが――やがて結論が出たのか、くるりとこちらを向いた。


「お姉ちゃんの言う、攻撃力って……お姉ちゃんが急に力強くなったのも関係してるの?」


「してるよ。うーん、分かりやすくすると……」


 庭に落ちていた拳大ほどの石を拾い上げる。

 掌になじむ重みを確かめ、それから指を絡めるように石を包み込んだ。


 そして、全力で握り締める。


 ――バキッ。


 乾いた、嫌な音がして、石が細かい欠片になって下へとぱらぱら落ちていった。

 砂利と混じり合い、どれが元の石なのか分からなくなる。


 隣を見ると、沙耶が口をパクパクさせて固まっていた。

 目が完全に丸くなっている。もしかして、ちょっとやりすぎたかもしれない。


「力クソ雑魚よわよわお姉ちゃんが腕力ウホウホゴリ姉さんになったって……コト……?」


「ごめん、よく分かんない」


 ネットスラングにはあまり明るくないので、語彙の半分くらいが未知の単語だ。

 ただ、総合的に馬鹿にされていることだけは、しっかりと伝わってくるのが腹立たしい。


「力クソ雑魚は悪口でしょ……?」


「事実じゃん。お姉ちゃん、私に腕相撲勝ったことないでしょ」


「うぐっ……」


 ぐうの音も出ない正論パンチが飛んできた。

 思い返せば、ジャムの瓶の蓋もろくに開けられないほど非力だったのは、もはや笑えないレベルの過去である。


 そんな人間が急に石を握り潰すようになったのだから、そりゃあ驚くだろう。

 私が逆の立場でも絶対に驚く。


「今後はお姉ちゃんを怒らせないようにするね……」


「大丈夫だよ。余程のことじゃない限り怒らないから」


 実際、感情の振れ幅はかなり鈍くなっている。

 極限状態で長く過ごしすぎて、怒りの沸点が変なところまで上がってしまったのだ。


「ほんとぉ……?」


 沙耶が、疑わしそうにじとっとした視線を向けてくる。

 そこまで信用ないのか私。


「ほんとほんと。機嫌悪いときは無言で家事とかしてるから、すぐ分かるよ」


 イライラするときほど、黙々と作業したくなる。

 何かを片付けていると、それだけでもやもやした気分が少しずつ整理されていくからだ。


「他に質問ある? なければ晩ごはん作りに戻るけど」


「うーん、大丈夫かな。私はお母さん見てるね」


「よろしくね~」


 縁側から立ち上がり、軽く伸びをする。

 庭に目を向けると、すでに日は沈みかけていて、さっきまで赤く染まっていた空は、群青に近い色へと変わっていた。


 闇の中で、丸い満月だけがやけにくっきりと輝いている。

 その冷たい光が、田舎の夜の静けさを一層際立たせていた。


 ***


 ――二日後。


 ある程度動けるようになった母さんと一緒に、ちゃぶ台を囲んで晩ごはんを食べていた。


「いや、本当にあの時は私、あきちゃんに殺されるんだって思ったわよ」


「母さん……ごめんって……」


 解毒薬を無理やり飲まされた件を、どうやらまだ根に持っているらしい。

 とはいえ、命の恩人を目の前にして「殺されると思った」はなかなかの言い草である。


「笑顔で問答無用で何かしてくるお姉ちゃんっていいよね……」


 沙耶が、にこにこと悪意のない笑みを浮かべながらとんでもないことを言っているが、あえてスルーする。

 拾ったら負けな気がする。


 母さんには、ダンジョンや毒のことなど、事情はすでに一通り説明済みだ。

 もちろん全部を完全に理解できているわけではないだろうが、少なくとも「今はそういう危ない時期なんだ」とは分かってくれている。


 母さんが目を覚ましたとき、第一声は「あれ? あの人は?」だった。


 その「あの人」というのが誰を指すのかは、言われなくても分かる。

 昏睡している間に父さんに会ったのだろうか。気になって、私は箸を置いて聞いてみた。


「そういえば、母さん。昏睡してたとき父さんに会った?」


「会ったわよ。どの面下げて迎えに来たんだってヘッドロックしたわ」


 返ってきたのは、予想していたような「涙の再会エピソード」ではなく、思いっきり格闘技寄りの話だった。

 美談どころか、普通に暴力的な技名が飛び出してきて、思わず箸が止まる。


 父さんが亡くなってからというもの、母さんは一人で相当な苦労をしてきたと聞いている。

 未練や恨み言のひとつやふたつ、三途の川の真ん中あたりでぶちまけてきても不思議ではない。


「あと80年後に迎えに来いって言ってやったわ……久しぶりにあの人の顔見たらもっと生きなきゃって思えたの」


「……うん? あと80年後って母さん120歳だよ?」


 思わず素で聞き返してしまった。

 一体何歳まで現役でいるつもりなのか。この調子だと、そのうち本当に妖怪カテゴリに片足突っ込みそうで怖い。


「私はまだまだ現役よ!」


 母さんは胸を張って宣言した。

 皺の寄り始めた手の甲も、笑いジワの増えた目元も、その言葉だけは一切揺らがない。


「そうだね……配信チャンネルの登録者20万超えてるしね……」


 沙耶が、スマホ画面を見ながらさらっと現在のチャンネル登録者数を口にした。

 20万人。数字だけ聞くと改めてえげつない。


 母さんは話すのが好きな人だから、配信という形は確かに向いているのだろう。

 1を聞くと20になって返ってくる人なので、適当に相槌を打っていれば会話は無限に続く。少なくとも、当分は元気でいそうだ。


 食後はそれぞれのんびりと過ごしていたが、ふとした拍子に母さんが「日本庭園を造りたい」と言い出し、そこからは行動が早かった。


 砂利を買いに行こうと車を出し、ついでに飛び石や灯篭っぽいオブジェも見て回り、

 帰ってきたら今度は「制作風景を配信する!」と言って機材を準備し始める。


 もちろん、私は必死にカメラに映らないように動いた。

 母さんがカメラの向きを変えようとするたび、私は【神速】をほんの少しだけ使って画面からスッと消える。

 その光景が面白かったのか、沙耶は腹を抱えて爆笑していた。


 どうやら視聴者のコメント欄は「今、何か凄い動きが見えたんだけど」「心霊現象ですか?」「編集じゃないの?」と困惑で埋まっていたらしい。


 母さんに映されたい私 vs 絶対に映りたくない私。

 そんな茶番じみた攻防戦を眺めながら、私はふと思う。


 ――この何気ない時間を守るために、私はダンジョンに潜っているんだろうな、と。



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