105話--10層と翼竜--
6層目から9層目までは、拍子抜けするほど何事もなく終わっていった。
構造は5層目とほとんど変わらない石造りの通路と広間の繰り返しで、出てくるモンスターも相変わらずゴーレムばかり。ただ、階層が下がるごとに少しずつ硬くなっていき、殴ったときに伝わる手応えが重くなっていくくらいの違いしかない。
唯一の変化と言えば、ボスが5層よりも明らかに弱かったことだろう。
5層で手に入れた称号の効果を確認してみると、ゴーレムに対して攻撃力が倍になるというとんでもない代物だった。
おかげで、本来なら緊張感のある強敵戦になっていたはずのゴーレムボスが、全部まとめてただの硬いサンドバッグに変わってしまった。
血が沸き立つような戦いを期待していた分だけ、ちょっとした肩透かしを食らった気分だ。
拳を振るうたびに、ゴーレムの体が簡単に砕けていく。壊れた破片が転がるたび、また一つ楽しみが減っていくような、妙な喪失感が胸の奥に残った。
そうして、何事もなく第10層へと辿り着いた。
10層目に足を踏み入れた瞬間、空気ががらりと変わる。
石の通路や部屋は影も形もなくなり、そこに広がっていたのは、荒れ果てた高原のような風景だった。
岩と黄色く枯れた草と枝がまばらに点在する地面。木に緑は見当たらない。
吹き抜ける風は冷たく乾いていて、少し目を細めないと砂埃が入りそうだ。遠くには削り取られたようにゴツゴツした山並みがいくつも連なっていて、その奥から、尋常じゃない魔力の波動が押し寄せてきている。
ぞわりと肌が粟立つのと同時に、口元に引き攣った笑みが浮かんだ。
――互角。
私の直感がそう告げていた。
脳裏に警鐘が鳴るのと同じくらい、胸の内側では何かが跳ねるような高揚が生まれる。
心が逸る。胸の奥で、うずくまっていた獣が頭をもたげるような感覚。
対等、もしくは格上と呼べる相手との戦いは、カレンの父さん――バゼルと刃を交え続けていたあの五年間以来だ。
ただの危険では終わらない。命を削るような一戦になることは少し考えればすぐ分かる。
それでも足が前に出たがって仕方がない自分がいる。
一度深く息を吸い込み、肺の奥まで冷たい空気を流し込んでからゆっくり吐き出す。
昂ぶる心拍を無理やり押し沈め感情の揺れを平らにならす。戦うなら準備は万全に整えてからだ。
10層に来てからずっと感じていたが、魔力の濃度があまりにも高すぎて呼吸をしているだけで胸の辺りが少し重い。
周囲に意識を広げて気配を探ると、この高原の範囲にはモンスターの気配は見当たらない。
少なくとも、すぐに襲ってくる心配はなさそうだ。
「今のうちに、やれるだけやっとこうか」
そうつぶやき風を避けられる岩陰を見つけてその場に腰を下ろす。
足を組み、背筋を伸ばして座禅を組むような姿勢になる。目を閉じて意識して呼吸のリズムを整える。
大気中に満ちている魔力を通常の魔力増加法とは比べ物にならないほどの勢いで取り込み始める。
喉から胸、全身へと冷たい流れが巡り、すぐに身体が拒否反応を示し始める。
吐き気、頭痛、耳鳴り、動悸。
魔力中毒の教科書通りの症状が次々に押し寄せてくる。内側から押し広げられているような不快感と耳の奥でじんじんと鳴り続ける嫌な音。
それでも取り込みは緩めない。
ここで妥協していたら、あの山の向こうにいる何かに負ける可能性があると分かっていた。
時間の感覚があやふやになり始めた頃、胸の中心から、乾いた何かがひび割れるような音が聞こえた気がした。
ピシッ、と。
それと同時に体を苛んでいた魔力中毒の諸症状が、ふっと薄れていく。
吐き気も頭痛も、さっきまで自分のものだったのか疑いたくなるほど静かに遠のいていった。
ゆっくりと目を開ける。
視覚だけでなく内側の感覚でも自分の身体を確かめる。
今までとは比べ物にならない量の魔力が体内を循環しているのがはっきり分かった。
魔力の通り道――魔脈の本数が明らかに増えている。
以前は太い筋が何本か通っているようなイメージだったのに、今は全身の隅々にまで、細い線がびっしりと張り巡らされているのが分かった。
拳を軽く握ってみる。力加減もある程度は把握できる。
初めて魔脈を解放した時みたいに全てが手に余る感覚ではない。あの時に比べれば十分に制御の範囲内だ。
立ち上がって軽く跳ねてみた。
さっきまで感じていた自分の体重に引っ張られるような重さがほとんど消えている。まるで身体が一段階軽く作り直されたみたいだ。
「今の状態で地上に戻ったら、一体どうなるんだろうね……」
そう考えが頭をかすめるが、すぐに結論に行き着く。
どれだけ想像を巡らせたところで大迷宮を攻略しない限り帰ることはできない。
なら今考えるべきは、目の前にある戦いのことだけだ。
ふう、と一度だけ大きく息を吐き、あの強大な魔力の在り処――山の奥へ向けて体を正面に向ける。
最初にここへ入ってきたときに感じた威圧感より、今感じている圧力はわずかに軽い。私自身が、それを受け止められるようになったからかもしれない。
「やっぱり、魔力濃度が高いのって色々と便利だな……」
ぼやきながらも、口元には小さな笑みが浮かぶ。
訓練場として自由に出入りできるなら最高なんだけれど……一度入ったらクリアまで出られない仕様が致命的すぎる。
そんなことを考えながら、頭を振って余計な思考を振り払う。
視線を山へ固定し一気にふもとまで駆け抜ける。
足元の岩と地面が、あっという間に後ろへ流れていく。
視界の端で景色が引き伸ばされ回帰前に初めて【神速】を使ったときの、あの理性が追いつかない速度の感覚が懐かしく蘇った。
しばらく感傷に浸りながら走っていると途端に上空から殺気が降ってきた。
頭上から影が落ち空気がひゅっと裂ける音。
冷静に飛び込んできた影の首を掴み、捻るようにしてへし折る。
骨が折れる鈍い音と共に翼をばたつかせていたそれの動きが止まった。
翼と一体化した前脚、長く尖ったくちばし、蛇のように細長い首――翼竜だ。
麻痺毒を持つ尾。金属板を易々と裂く鋭い鉤爪。
普通のダンジョンならボスとして君臨していてもおかしくない戦闘力を持つモンスターだ。
そんなワイバーンが私の上空を悠々と旋回するように飛び回っている。ざっと数えて八体。
腰に残っていた短剣二本のうち一本を引き抜き、試しに一体へ向けて投げてみるがあっさりと身をひねって躱された。
空中にいる敵を迎撃できる【技能】は持っているけれど【剣術】スキルがない今は発動することができない。
「さて、どうやって落とそうか」
視線だけでワイバーンたちの軌道を追いながら、足元へ目をやる。
さっき首を折った個体が、無様に地面へ転がっている。
――油断してるように見せて誘うか。
短剣を抜き、まずその死体の鉤爪と尻尾から丁寧に切り離していく。
荒っぽい解体作業だが狙いは別に素材集めではない。切り取られていく仲間の身体を見下ろしながら上空の気配がピリッと変わっていくのが分かった。
翼竜の肉は加熱さえしてしまえば普通に食べられたはずだ。
そう思い出した瞬間、上空の八体から空気がざわつく。
仲間の死体を弄ばれたことに怒ったのか、それとも地上でまったく警戒していない私の態度に腹を立てたのか。
いずれにせよ考えるより先に答えは行動で返ってきた。八つの影が一斉に急降下して私めがけて突っ込んできたのだ。
「いらっしゃい。単純で助かるよ」
短く笑い、大剣を抜く。
迫りくる影の真下で足を軸に一回転するようにして刃を振り抜くと目の前を通り過ぎる前に伸びきった首が次々と飛んだ。
八体分の首が、一拍の遅れと共に空中を舞い遅れて胴体が墜ちてくる。
私はすでにその場にいない。着地点をずらし、まとめて落ちてくる巨体がぶつかり合って止まるのを少し離れた場所から見届ける。
地面に積み重なったワイバーンの死体に近づき魔石を抜き取り、鋭い爪と毒のある尻尾を手際よく剥ぎ取っていく。
と同時に周囲に転がっている枯れ枝に目をつけて拾い集め始めた。
そういえば、この試練の大迷宮に入ってから一度もまともな食事を取っていない。
途中で草を齧ったりはしたが、それは食事というより味見に近い。ワイバーンの肉が食べられると意識してしまった途端、腹の虫が盛大に鳴き始めた。
「……よし、決まり」
適当な量の枝が集まったところで一か所に積み上げる。
魔法陣を描いて掌に小さな炎を灯し、その火を一本の枝に移す。燃え始めた枝を先ほど積み上げた焚き木へ放ると、ぱちぱちと乾いた音を立てながら火が広がっていった。
火が安定したのを確認してから食材の準備に取りかかる。
落ちている太めの枝を選び、十本ほど皮を削いで串代わりにしてワイバーンの肉を切り分け、突き刺していく。調味料も何もない、ただ炙るだけの簡易的な串焼きだが腹は間違いなく喜ぶ。
準備ができた串から順に焚き火の周りに立てるように突き刺す。
炎が肉の表面を炙り、脂が滴り落ちるたびに香ばしい匂いが立ち昇る。こうした野営の手順をこなすのは回帰前に長期間でダンジョン攻略をした頃以来かもしれない。
十分に表面がカリカリになり、肉汁がじわりと零れ出した頃合いを見計らって一本を手に取る。
熱気に注意しながら端から勢いよく齧り付いた。
「……美味い」
噛んだ瞬間、歯に弾き返されるような弾力。鶏もも肉に近いが、それよりももう少し密度が高い。
噛めば噛むほど滲み出てくる肉汁は細かい刺しの入った牛肉のように濃厚で、口の中いっぱいに旨味が広がっていく。
ただ、惜しむべくは一点。
「塩コショウとかがあればもっと美味しいんだろうなぁ……」
舌が自然とそんな欲を口にしていた。
何も味付けがない分、素材そのものの味はよく分かるのだが、それだけに岩塩のひとつでも欲しくなる。どこかの階層で見つけたら必ず確保しておこう。
今は素直に素材そのものの味を楽しむことにする。
串を持ち替え黙々と食べ進める。焼け焦げかけた部分のほろ苦さも、それはそれで悪くない。
準備しておいた十本をすべて平らげる頃には胃の中は程よい重さで満たされていた。
空腹が形を持って訴えていたようなだるさも消え、身体の芯からじわじわと力が戻ってくる。
両手を上に伸ばして大きく伸びをし、固まっていた肩や背中の筋肉をほぐす。
視線を山の方へ向けると遠くの空気が波打つように揺らいでいるように見えた。
「さて、行きますか」
呟きと同時に地面を蹴る。
ワイバーンの群れと食事で一度落ち着いた気持ちが再び戦闘前の張り詰めたものへと切り替わっていく。
山肌を駆け上がるように、ひたすら前へ進む。
岩場の起伏も足場の悪さも、今の身体には大した障害にならない。魔力を循環させた状態で走り続け、やがて山が途切れるところが見えてきた。
四方を山に囲まれた広い盆地のような場所。
風の流れがそこで渦を巻くように乱れていて、その中心に――ソレはいた。
「風竜!? ……いや、違う……?」
思わず声に出してしまう。
見た目だけなら魔界で見せてもらった図鑑の風竜とほとんど同じだ。しなやかな細身の竜体、半透明に見える翼膜、まとわりつくような風の流れ。
けれど、私の中にある【器】――そこに収められている【風】が小さく首を振っているような感覚があった。
似てはいるが、何かが違う。この世界の竜だからなのか、別系統の存在なのか。どちらにせよ、今すぐ答えが出る話ではない。
分かっていることは一つだけ。
目の前の竜が間違いなくこの階層のボスであり、こいつを倒さない限り先には進めないということだ。
私の存在に気づいたのか風竜がゆっくりと頭をもたげる。
次の瞬間、喉の奥から轟音のような咆哮が放たれた。
大気が震え、耳の奥まで震動が突き抜ける。
空間そのものが押し潰されるような圧力――【竜の威圧】だ。普通の人間なら、その場で膝をついて動けなくなるだろう。
けれど、残念ながら【竜の威圧】は、私には通用しない。
荷物を地面へ降ろし背中の大剣を静かに抜く。
柄を握った瞬間、指先に自然と力が込められる。竜を前にして身体のどこかがうっすらと震えているのが分かる。
恐怖か、興奮か。
多分どちらもだ。
「さあ、戦いを始めよう」
自分でも驚くほど落ち着いた声が、風に乗って盆地に響いた。
その言葉が戦いのゴングになったかのように同時に私も風竜も地面を蹴る。
互いの間合いが一気に縮まっていった。




