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103話--4層と迷宮らしさ--


 転移石がだいぶ冷めた頃合いを見計らって、そっと掌に乗せる。

 さっきみたいに指が焼ける感覚はない。石の表面はまだほんのり温いが、火傷するほどじゃない。よし、と小さく息を吐いて――そのまま、指に力を込めた。


 ぱき、と小気味いい破砕音。

 同時に、骨の奥をくすぐるような浮遊感が腹の底から突き上げてくる。重力が一瞬だけ横へ滑り、体の上下が曖昧になる。視界がふっと反転して、どこか遠くへ持っていかれる感覚。


「……また森か」


 足裏に伝わるのは柔らかい土と、落ち葉が湿り気を含んだ感触。

 鼻先をくすぐるのは、湿った土の匂いと、青臭い植物の香り。息を吸うだけで、肺の内側が緑色に染まりそうだ。


 ぐるりと視線を巡らせた瞬間――正面で、何かと目が合った。


 ゴブリンだ。


 黄緑の肌。ぎょろりとした眼。唾液の糸が口元に光り、獣臭い息が距離を越えて届く。

 ただ、これまでの階層で見てきた連中とは、明らかに気配が違う。


 考えるより早く、腰に挿していた短剣を抜く。

 手首のスナップだけで投げ放つと、短剣は空気を裂き――額へ深々と突き刺さった。

 ゴブリンは声も上げずに後ろへ倒れ込む。倒れる瞬間だけ、鎧がかちりと鳴った。


「……装備が良いな」


 死体のそばへ歩み寄り、観察する。

 いつもの布切れを巻いただけの腰に巻いただけの格好ではない。簡易的とはいえ、金属板を留めて作ったプレートアーマーだ。

 手にしていた短剣も、錆びた安物じゃない。刃の立ち方が違う。ちゃんと鍛えられた鉄の光がある。


 しかも、身体そのものが一回り大きい。

 ホブゴブリンと言っても良いぐらいの大きさだ。


「魔力濃度に比例して、モンスターの質も強さも倍々で上がってる気がするなぁ……」


 ぼそりと零しつつ、頭の中でざっと計算する。

 この個体が森をうろつく偵察だとしたら、群れは確実にいる。

 ボスは――ゴブリンキング。最悪の場合、ゴブリンロードまで見ておいた方がいい。


 頭をがしがしと掻き、戦い方の手順を組み立てる。

 今の私の装備は貧弱。長期戦になるほど不利になる。


(武器はゴブリンから調達。装備が整うまでは正面から当たらない。

 奇襲して、確実に数を削る。真正面の乱戦は避ける)


 足元へ視線を落とすと、見覚えのある草が混じっていた。

 しゃがみ込み、手頃な束を千切って指先でぐりぐり潰す。青臭い汁が滲み、鼻を刺す匂いに顔が少し歪む。だが躊躇なくそれを肌へ塗り込んだ。


 近くの大木へ軽く跳び上がり、枝を掴んで登る。

 葉に紛れるように姿勢を低くし、枝から枝へ。木の上を伝って、音を殺して進んでいく。


 しばらく進むと、前方に濃い魔力の塊を十ほど感知した。

 耳を澄ませば、金属が擦れるかすかな音。複数の足音。呼吸のリズム。

 やはり、今までみたいな四人一組じゃない。小隊規模で動いている。


(十体か……一気にやると騒ぎになるな)


 息を潜め、気配を極限まで絞り込む。最後尾――殿の真上へ回り込んだ。

 枝から静かに降りる。足裏が落ち葉を踏む寸前、重心を受け止めて音を消す。

 首を反対方向に回す。骨に響く感触だけが返り、ゴブリンは声を出す暇もなく前のめりに崩れ落ちた。


 一体。


 すぐに死体を茂みへ引きずり込み、枝へ戻る。

 同じ要領で二体、三体。

 残り六体まで減らしたところで、残りのゴブリンたちが一斉に顔を上げた。鎧の隙間から漏れる魔力が張り詰め、空気が固まる。


「バレたか」


 呟くと同時に枝から地面へ飛び降りる。着地の衝撃を足首と膝で吸収し、そのまま加速。

 短剣を一本、先頭の眉間へ投げる。突き刺さるのと同時に懐へ滑り込み、勢いのまま拳を振り抜いた。

 手前の二体の頭蓋が、鈍い音を立てて弾け飛ぶ。


 血飛沫が届く前に半歩引き、距離を取る。

 残りの中でひときわ大柄な個体が喉を震わせ、雄叫びを上げた。


 その声を合図に左右の二体が同時に斬りかかってくる。息を合わせた挟撃。

 動きだけ見れば、訓練はされている。けれど――私には遅い。


 右足を半歩引き、体をひねって紙一重で躱す。

 すれ違いざまに拳と蹴りを叩き込む。骨が砕ける手応え。二体はぐしゃりと地面に沈んだ。


 最後に残った大柄なゴブリンが、背に背負っていた大剣を引き抜く。

 ごう、と空気を押し潰す音。横薙ぎに振り回しながら突進してきた。


「力任せにもほどがあるでしょ」


 一歩も引かない。

 踏み込み、腰を落として刃の下を潜る。かすめる風だけが頬を撫でた。

 見上げる位置関係になった瞬間、脇腹へ飛び込み、拾っておいた短剣を振るう。抵抗はほとんどない。首の骨ごと断ち切れた。


 大剣がずしんと地面に落ち、首を失った身体が数秒遅れて崩れ落ちた。


「周囲は……いないね」


 耳と鼻、薄く広げた魔力で探る。返ってくるのは枝葉のざわめきと小動物の気配ばかり。

 よし、と短く頷き、装備を物色する。


 鎧へ手を伸ばした瞬間、むわっとした獣臭と汗の匂いが鼻を殴った。


「……これは、無理」


 反射で手を引っ込める。防御力的には魅力だが、着た瞬間に精神が折れそうだ。

 代わりに視線を向けたのは、さっきの大剣。


 地面に突き刺さったそれを片手で引き抜く。柄はざらついているが握り心地は悪くない。重さも見た目通り。

 バランスもそこまで酷くない。粗削りだが、大剣としての体裁は整っている。


「私の好きな長さの剣ではないけど……まあ、これなら使えるかな」


 ぶん、と軽く振る。重さが腕に馴染み、筋肉に記憶が刻まれていく感覚。

 遠い日の背中――バゼル……カレンの父さんの大剣の軌跡が脳裏をかすめた。


 ゴブリンから紐を拝借し大剣を背中に固定する。

 さらに短剣を数本拾って腰と腿のベルトへ。投擲用と予備。いくつあっても困らない。


「武器も揃ったし……あとはボスの顔を拝みに行くだけだね」


 息を整え地面に軽く手をつく。

 魔力を薄く外へ広げるように放ち、探知範囲を引き延ばした。


 森全体に薄い霧をかけるように、魔力の網を張る。

 引っかかった反応を一つずつ確認していき――ひときわ大きな塊に触れた。


「……いた」


 距離、約十二キロ。

 そこを中心に無数の小さな反応が群れている。数千はいるだろうか。密度が異常だ。

 口元が自然と引き攣る。笑っているのか呆れているのか、自分でも分からない。


「ま、いっか。やることは変わらないし」


 地面を蹴った。

 魔力を高速で循環させながら、大気の魔力を大きく取り込む。血が一気に巡る感覚。

 頭の中でバゼルの剣筋を何度も反芻する。何千、何万と見て、受けて、覚え込んだ軌跡。


 背中の大剣へ魔力を流し込む。刃全体がじわりと熱を帯び、輪郭がぼやける。

 体を丸め、最大まで速度を乗せて――横薙ぎ。


 空間を切り裂くような感覚。

 刃と一体化した魔力が巨大な斬撃となって森を走り、木々とゴブリンの群れをまとめて薙ぎ払っていく。


 吹き飛ばされずに残った敵は、私が懐へ潜り込んで切り伏せる。

 斬って、進んで、また斬る。倒れた死体の山を踏み越え、奥へ奥へ。


 数度、巨大な斬撃を飛ばしたあと。

 残った反応は大きな一つと、その周囲に固まった数十の塊だけになった。


 ぽっかりと開けた場所に、それはいた。


「……ゴブリンキングか。周りのはジェネラル、だね」


 中央に座すひときわ巨大なゴブリン。精度の高い鎧。歪な王冠。

 周囲を重装備のジェネラルが固めている。


 最上位のゴブリンロードはいない。

 胸の奥で、ほんの少しだけ安堵と高揚が混ざった。


「なら、何とかなる」


 短剣を一本抜き、重量を確かめるように指先で回して――投げる。

 鎧の隙間へ吸い込まれ、ジェネラルが仰向けに倒れた。

 同時に地面を蹴り、懐へ肉薄する。


 跳び込んできた盾ごと、大剣を振り抜いて叩き斬る。

 金属が悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちたジェネラルの向こう側。

 その隙間から、ゴブリンキングの顔が覗く。


 ぎょろり、と濁った眼球。歯茎を剥いた口元。

 キングの武器は斧槍(ハルバード)。柄がやたら長い。間合いでは負けているだろう。


(正面から受けると、刃じゃなくて衝撃で持っていかれる)


 半歩……いや一歩、距離を作る。

 そして短剣をもう一本、死体の影へ投げた。狙いは足元。


 キングが踏み込む瞬間、足裏が微かに浮く。その一拍で死体の山が崩れ、ぐらりと体勢が揺れた。


 見逃さない。

 大剣の柄を握り直し、腰を落として踏み込む。斬るのではなく――押す。


 刃に魔力を薄く纏わせ鎧の継ぎ目へ滑らせるように差し込む。

 金属が軋み刃が止まった。装備の質がいい。だからこそ――裂け目を作れば、そこが弱点になる。


 キングが喉を鳴らし、斧槍を振り上げる。

 同時にジェネラルが左右から挟撃。盾と槍の壁。


「……ちっ」


 大剣を引き抜くのは諦めた。

 刃を捨てるつもりで柄を押し込む。継ぎ目が裂け、刃が内側へ食い込む。キングが半歩後退する。


 その反動で、私は大剣を手放した。

 同時にジェネラルの槍へ飛び込む。避けるんじゃない。攻めるための移動だ。槍先は肩を掠めるだけで抜けていく。


 盾の内側へ潜り込み、拳を叩き込む。

 胸骨が砕けた音。ジェネラルが後ろへ吹き飛び、壁が一枚剥がれる。


 空いた穴から短剣を二本。

 一つは喉。もう一つは目。崩れ落ちる間もなく沈黙。


 キングの斧槍が振り下ろされる。

 地面を蹴って横へ跳ぶ。土が抉れ、衝撃で砂利が頬を打つ。


(威力だけは高い。威力“だけ”は)


 動きは遅い。戻りも遅い。

 武器の長さを信じすぎている――その分、隙が出る。


 背後へ回り込むふりをして、わざと正面へ戻る。

 キングの視線が追いつく前に、刺さった大剣の位置へ滑り込む。


 鎧と噛み合っていて抜けない。なら――鎧の裂け目へ指を差し込み、体内へ魔力を流し込む。外で爆ぜさせない。内側で圧を作る。


 次の瞬間、キングの体が内側からびくりと跳ねた。

 呻くより先に柄を両手で掴み、横へ捻る。


 金属が裂ける音。継ぎ目が広がり、刃がさらに深く潜る。

 反射でキングの腕が下がり、斧槍の柄も落ちる。


 隙ができた。

 短剣を逆手に抜き、裂け目へ突き立てる。体重を乗せて引き裂く。


 斧槍がどさりと落ち、キングの膝が折れた。

 それでも巨大な腕に掴まれた。普通の人であれば簡単に骨が砕ける強さ――だが、私の体は普通じゃない。


 内側へ滑り込み、肘関節の曲がらない方向へ捻る。骨の折れる音が辺りに響いて掴まれていた手が離される。


「……終わり」


 大剣を引き抜いて最後に一閃。

 鎧の薄い首の付け根へ、魔力を刃先に集めて断ち切った。


 巨体がゆっくり前へ倒れ、土埃が舞う。

 周囲が一瞬だけ白く霞み――そして静寂。


 残っていたジェネラルたちも動かない。

 私は息を整え、キングの頭部へ近づいた。


 王冠の奥が淡く光っている。指で引っ掛けて外すと、そこにはめ込まれていたのは――転移石。


「……分かりやすくて助かるね」


 引き抜いた瞬間、赤いウィンドウが視界の端に滲む。


『レベルが上昇しました』

『称号:ゴブリン討伐者(スレイヤー)を獲得しました』


 称号……? 知らないシステムだ。確認したい衝動が喉元まで上がるが、飲み込む。

 今は移動が優先。血の匂いが濃い。他のモンスターが寄ってくる前に消えるべきだ。


 周囲を一度だけ探知する。増援の気配はない。

 転移石を掌に収め、砕く前に空を見上げた。


 雲一つない青空。さっきまでの森の天井とは違う。

 この階層は、景色すら平気で変えてくる。


「……次は何が来るかな」


 短く呟き、転移石を握り潰した。


 骨の奥がふわりと浮く感覚。

 視界が歪み、引き伸ばされ――次の瞬間。


 冷たい空気が頬を刺した。


 暗い。

 今度は森の暗さじゃない。月明かりすら感じない湿った闇。

 足元は石畳で、どこかの通路みたいに平らだ。壁の存在が近い。空気がひんやり重い。


 遠くで、何かが擦れる音。

 鉄の匂い――油と錆が混じった、嫌な金属臭が漂ってくる。


 反射で腰を落とし、呼吸を浅くした。

 魔力を薄く展開し、闇の中へ触手のように伸ばしていく。


 返ってきたのは複数の反応。数は多くない。

 だが、一つ一つが生物の呼吸を持たない感覚。体温の無い、硬い気配。


「……ゴーレムか。迷宮っぽくなってきたじゃん」


 そう言って、私は闇の通路へ足を踏み出した。


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