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1話--回帰と転性--

 ダンジョンと呼ばれる別世界のモノが現れてから、45年が経った。

 それは、ある日突然、空から降ってきたわけでも、大地が割れて這い出てきたわけでもない。気がついた時には――世界中の「当たり前」の風景の中に、異質な「穴」がぽっかりと口を開けていたのだ。


 世界の至る場所に出現したそのダンジョンは、人類にとって未知であり、同時にあまりにも魅力的だった。

 内部には、これまで人類が見たこともない金属や鉱石、強靭な皮や骨を持つ未知の生物の素材、そして、一夜にして国が傾くほどの価値を持つと噂される宝が眠っていると言われた。


 だが当然、その宝や資源を守るようにして、ダンジョン内には大量の異形の生物――モンスターが存在していた。

 牙を剥き、爪を振るい、ただそこに踏み込んだというだけの理由で、人間を易々と喰い散らかす存在。

 最初のうち、多くの人間は興味本位で近づき、そして、ただの肉塊となって戻ってきた。


 ダンジョンが現れてしばらくすると、不思議な変化が人々の身に起き始める。

 ごく一部の人間が、特殊な能力――【スキル】と呼ばれる力に目覚めたのだ。


 戦闘系の【スキル】を得た人々は、やがてモンスターを狩る者……『ハンター』と呼ばれるようになっていった。

 彼らは命を賭してダンジョンに潜り、モンスターを倒して得た素材を売り、その対価で生計を立てる。

 命の危険は常に隣り合わせだが、一攫千金の夢を見られるという一点だけで、そこに人は殺到した。


 当時二十歳だった私は、戦闘系最低限クラスと言われていた【剣術】のスキルに覚醒したことで、ようやくハンターになる資格を得ることができた。

 決して突出した才能ではない。誰が見ても「凡庸」と切って捨てるようなスキルだ。

 それでも、当時の私には十分だった。生きる理由を見失っていた私に、剣を握る理由が与えられたのだから。


 覚醒したスキルは、頭の中で意識を向け、念じることで、その詳細を思い浮かべることができるようになっていた。

 今でも、その感覚は鮮明に覚えている。頭の内側に、すっと新しい「窓」が開かれるような感覚だ。


 試しに今、思い浮かべてみよう。


スキル名:【剣術】

効果:剣を装備時、攻撃力が+100。素早さが+20上昇する。


 簡潔で、そっけない説明文だ。

 だが、当時の私はそれだけで胸を高鳴らせていた。

 「剣」を扱うことを前提としたスキル。その瞬間から私は、剣と共に生きていく道しかないのだと悟ったのだ。


 そして、ダンジョンが生まれた影響なのか、世界の在り方そのものが変質した結果として、自身の「能力値」が分かるようになった。

 それもスキルと同様、念じれば脳裏に数値となって浮かんでくる。


個体:橘アキラ Lv.420

種族:人族

性別:男

【能力値】

攻撃力:2000(+100)

素早さ:800(+20)

防御力:40


所有スキル

【剣術】


 こうして改めて眺めてみると、我ながら寂しい能力値だ。

 レベルこそ高い。だが、所有スキルはたったの一つ。

 防御力に至っては、強力なモンスターの攻撃を前にしては紙に等しい。

 実際、何度も致命傷寸前まで追い詰められたことがある。その度に、運と勘と、ただの執念だけで生き残ってきただけだ。


 非凡な者は3つや4つ、時にそれ以上のスキルを覚醒すると、風のうわさで耳にしたことがある。

 彼らは戦場で英雄と呼ばれ、酒場で語り草となり、国に重用される。

 私は……と言えば、たった一つの剣術スキルを、ただひたすら研ぎ澄ませてきただけの男だ。


 どうやらモンスターを倒せばレベルが上がり、所有スキルに応じて能力値が自動で上がっていく仕組みらしい――そんなことを知ったのは、随分後になってからだ。

 家族を失い、死に場所を探していた私は、ただ前に現れるモンスターを斬り続けているだけだった。

 それなのに気づけば、人々からは『剣聖』や『剣鬼』などと呼ばれるまでに至っていた。


 今年で65歳になる。

 だが、能力に覚醒した者は肉体の老化が遅くなり、私の外見はせいぜい30代後半ほどにしか見えないだろう。

 長く戦場に立ち続けた者特有の、鋭く濁った目をしていることを差し引いても、だ。


 人類最強と声高々に言われている『勇者』という男のレベルは250。攻撃力は何も装備していない状態で600だそうだ。

 数字だけ見れば、私のほうが圧倒的に上回っている。だが、世間はそんなことを知らない。

 彼は国家の象徴であり、希望であり、英雄譚の主人公であり……そうして祭り上げられる存在だった。


 勇者の存在は人類にとって希望であり、その象徴だ。

 それを上回る者がいる――その事実が表に出るだけで、良からぬことを企む者が現れる。

 権力争い、国家間の駆け引き、勇者の足を引っ張ろうとする嫉妬と陰謀……そういったものに巻き込まれるのは、ごめんだった。


 だから私は、自分の能力値を公開しなかった。

 ただ静かに最前線に立ち、黙々とモンスターを狩り、戻れば安アパートで一人酒をあおる。

 それで十分だと思っていた。


 ある時、勇者本人から「共にダンジョンを攻略しよう」と提案された。

 国の顔と言える男からの誘いを、露骨に断ることはできない。

 私は一度だけ大きくため息をつき、その申し出を承諾した。


 私にもかつては「仲間」と呼べる者たちがいた。

 しかし皆、モンスターとの戦いの中で次々と命を落としていき、結果として私は20年近くを一人でダンジョンに潜り続ける生活を送ることになっていた。


 そんな私にとって、勇者一行は久しぶりに「仲間」と呼ぶに相応しい、正義感に溢れたパーティーに見えた。

 人当たりの良い勇者、明るく笑う魔法使い、仲間思いの僧侶、口は悪いが腕の立つ戦士。

 私は、彼らの人懐っこい笑顔と、眩しいほどの若さに当てられ、次第に気を許していった。


 ――今、思えばそこが間違いだったのだろう。


 ある高難易度ダンジョンの攻略中、休憩を兼ねた食事の時だった。

 喉を通るのも忘れるほど、久しぶりに人の温もりを感じる食卓だったはずだ。

 だが、その食事に、毒が混入していた。


 手足が痺れ始めてから、ようやく異変に気づく。

 無味無臭、実に厄介な毒だ。防御力が低い私には、あまりにも分が悪い。


 何かがおかしい――。

 私は最後の理性で、食事当番だった勇者に問い詰めた。

 勇者は一瞬だけ眉をひそめ、すぐに心底面倒そうな顔へと変わった。そして、舌打ちをしてから、私に向かって剣を抜いた。


「ちっ、ヒュドラの麻痺毒だってのによ……黙ってくたばっていればいいものの……」


 その声音には、これまで向けられていた敬意の欠片もなかった。

 助力を求めてきた男の顔ではない。邪魔になった「駒」を処分しようとする者の顔だ。


 剣を抜くという行為が意味するのは――"敵対"。

 勇者と他のパーティーメンバーは、揃いも揃って私に対して露骨な敵意を孕んだ視線を向けていた。


 毒が回り、喉が焼けるような感覚と共に声も出せなくなっていく。

 呼吸は浅く、肺がうまく空気を取り込めていない。

 手足の感覚も次第に薄れていき、自分の身体でありながら、別の何かのように遠く感じられた。


 まともに動けない身体で、私は必死に抵抗を試みた。

 これまで幾千の修羅場を潜り抜けてきた本能が、「ここで死ぬわけにはいかない」と叫んでいた。

 しかし、剣を握る力すら残っていない老いぼれが、若く健康な勇者たちを相手にできるはずもない。


 私の抵抗は虚しく終わった。

 勇者は何の躊躇もなく、私の手足の腱を切り落とし、身動きを封じる。

 そして、モンスターの巣窟となっているフロアの中央へ、まるでゴミでも捨てるかのように私を投げ込んだ。


 辛うじて動かせる頭だけを、私は必死に持ち上げる。

 にじむ視界の先に映ったのは――私を見下ろしながら嗤っている勇者と、その仲間たちの姿だった。


 ――まるで、見世物のように。


 その時、私はようやく理解した。理解してしまったのだ。

 どうして勇者より強い者や、実力が近い者の名が、いつまで経っても人々の口に上らないのか。


 勇者たちは「摘んで」いた。

 自分たちより強い者、近い実力の者を、私のように罠に嵌めて、始末していたのだ。


 生きたままモンスターに足を食われ、腹を裂かれ、自分という存在が放つ声にならぬ慟哭は、最後に頭を踏み砕かれる音と共に、世界から掻き消えた。


 あぁ、願わくば――。

 下卑た同族殺しの勇者に、復讐の機会を――。


 その祈りは、死の間際でようやく形を成した、遅すぎる願いだった。


 


――――――その願い、叶えてやろう――――――


 開くはずのない目が、ゆっくりと開いた。

 瞼の裏に焼き付いていたはずの血と牙の光景ではなく、静かな天井が視界に広がる。


 ……アレは、夢だったのだろうか?


 ぼんやりとした意識で天井を見つめる。

 だが、頭の奥底にはまだ、生々しい痛みと怒りと絶望が残っている。

 夢にしてはあまりにも鮮烈で、現実にしてはあまりにも都合が悪い。


 飛び込んできた視界に映る天井は、どこか見慣れたようにも感じられた。

 だが、私が45年間暮らし続けてきた安アパートの天井は、こんなにキレイではない。

 まるで新築のように、黄ばみもひび割れもない。


 ゆっくりと上体を起こし、ベッドから身を起こす。

 その動作一つ一つが、妙に軽い。関節に鈍い痛みが走らない。腰も、膝も、軋まない。


 周囲を見回すと、やけに物が少ないことに気付く。

 いつでも手に取れるようにとベッドの横に置いていた、長年愛用してきた剣も見当たらない。

 唐突な地震でひっくり返り、絨毯にぶちまけたカレーうどんのシミも、跡形もなく消えている。


「何があったんだ……?」


 口から漏れた声が、驚くほど高かった。

 自分から発せられたとは思えないほど、若く、細い声だ。


 不気味な違和感に背筋が粟立つ。

 とにかく顔でも洗うか――そう考え、洗面台へ向かう意思を捻り出す。


 のそり、と気だるげに立ち上がる。

 ……脚が軽い。筋肉はあるはずなのに、長年の戦いで刻まれた疲労や古傷の重みが、どこにもない。

 やっとの思いで洗面台にたどり着き、蛇口をひねって冷水で顔を洗う。


 タオルで顔を拭い、ふと鏡を見る。

 そこには――見知らぬ女が居た。


「何者だッッ!!!」


 反射的に、長年の戦闘経験で体――いや、魂にすら染みついている抜剣の動きが出る。

 腰に下げているはずの鞘へ手が伸び――そこで、ようやく気付いた。


 ……しまった!! 剣が無い!


 刺客を前にして、この体たらく。己の老いと油断を呪う。

 下唇をぎりり、と噛み締め、鏡の中の「敵」を睨み付ける。


 恐る恐る正面を見据えると、そこには――私と同じく抜剣しようとして、しかし剣が無くて固まっている女が、鏡に写っていた。


「まさか――これは私なのか……?」


『【全知】構築完了しました。疑問に答えます』


 無機質な声が、頭の中に直接響き渡る。

 鼓膜を震わせる音ではない。脳髄に文字が流れ込んでくるような、不思議な感覚だ。


 疑問……? 

 この鏡に写っている女が、本当に私であるかという問いへの答えだろうか。


『是。現在より45年後の時間軸にて個体名【橘アキラ】はジェネラルオークに踏み潰され絶命しています』


「……45年後の時間軸。つまりここは過去なのか?」


『是。我が創造主があなたを気に入っていました』


「創造主、とは?」


『――該当世界線での通称を学習。神と呼ばれる存在たちです』


「神……だと……?」


 実在していたのか。神が。

 私に【剣術】のスキルしか与えてくれなかった神が。

 幾度もの死地をくぐり抜けるその中で、何一つ目に見える加護を与えてくれなかった神が。


 ――存在しているのか。


『是。あなたの死後、あなたの存在が迷宮――ダンジョンに取り込まれる前に神があなたの存在を回収し再構築、過去の時間軸へ送りました』


「ほう。それは非常に有難い事だが……何故女子の肉体になっている?」


 問いながらも、視界の端に映る自分の姿から目が離せない。

 細い首、華奢な肩、くびれた腰。どう見ても、私は「女」だ。


『再構築の際に生殖器の使用歴を確認。子孫繁栄行動が行われていないことを鑑みて神が不要と判断し、男性体ではなく女性体での再構築が実行されました』


「……確かに私はダンジョンに入り浸っていて男女の関係など皆無であった。皆無であったが……何故、女体なのだ!!!!」


『子孫繁栄行動が行われていないため神が不要と判断しました』


 二回も言わないで結構だ……。


 自身で慰めることは時折あった。

 「使っていない」と言われれば、確かに人としての交わりという意味では、使っていなかった。

 世間一般で言えば、私は童貞と呼ばれる部類に属するのだろう。


 しかし! だからといって「無くなる」とは話が別だ!

 六十数年間寄り添ってきた息子は、そこにはいない。


 私は亡き息子を想起し、静かに目を閉じた。

 ――あぁ、本当に申し訳ない。お前を……使ってやれなかった。


 ……年を取ると、感情の流れが緩やかになってしまう。

 今、自分の身に起きていることだというのに、どこか他人事のように感じてしまっている自分がいる。

 本来であれば驚嘆し、恥じらい、男子らしく女体の何たるかを探求しようとするのだろうが……そこまでの熱量が湧いてこない。


 改めて鏡をまじまじと見つめ、自身の姿を確認する。

 腰ぐらいまである銀色の髪が、光を受けてさらりと揺れる。

 翡翠色の瞳は、どこか気弱そうでありながら、奥に芯の強さを秘めていた。


 顔立ちは整っているが、まだ幼さが残る。

 胸は慎ましいとは言えず、服越しでも分かるほどしっかりと膨らんでいて、凹凸のはっきりした体のラインが、女性であることを主張していた。


 顔の見た目からして……15,6歳だろうか。


『人族換算の年齢は20歳です』


「そうか、45年前の私は二十歳だな」


 この見た目で20歳、というのはどうにも実感が湧かない。

 少女、と言ってもまかり通るだろう。


 待て……20歳だと?

 胸の奥に嫌な予感が走り、私は洗面台から離れてカレンダーを探す。


 壁に掛けられたカレンダーには、過ぎた日付にバツ印がつけられている。

 そのおかげで、今が何日なのかは一目で分かった。


「統一歴2030年、7月23日……」


『この世界で初めてダンジョンが確認される日付は同年同月の25日です』


 助かる。つまり、だ。


 あと2日後に、世界で初めてのダンジョンが確認される。

 そこからモンスターが溢れてくるまで、さらに10日。

 合計で12日間は余裕がある――が、言い換えれば12日しかない。


 ハンターへ覚醒するには、ダンジョンの中に入るか、ダンジョンの魔力を纏っている何かに触れる必要がある。

覚醒すると、脳内に自身の能力値が浮かんできて【スキル】の有無を確認できるようになる。


 現状、まだダンジョンは発生していない。能力値も通常なら確認できないはずだ。

 やれることは、限られている――そう思った矢先。


個体:橘アキラ Lv.1

種族:人族

性別:女

【能力値】

攻撃力:208

素早さ:85

防御力:4


所有スキル

【全知】、【剣術】


 ……脳裏に、見慣れた能力値表示が浮かび上がった。


 能力値が見れるだと……?

 それに、初期値にしては能力値が異様に高くないか……?


 確か、私が最初に覚醒した当初は、全ての能力値が1桁だった記憶がある。

 攻撃力も素早さも、一般人より少し強い程度。そこから血反吐を吐くまで戦い続けて、ようやく今の数値に辿り着いたというのに。


『疑問に回答します。再構築の際に能力値の1割を現状の能力値に加算しました。また、再構築の際に覚醒は済んでいるため能力値の確認が可能となっております』


 なるほど。それは僥倖だ。

 覚醒していない状況でモンスターを倒してもレベルは上がらないし、その間はただ命を削るだけになる。

 最初から能力値が底上げされているのも、非常に心強い。


 200を超える攻撃力……。

 これがどの程度の力か、分かりやすく説明すると、握った石を粉々に砕き、砂にできる。

 軽く握るだけで、覚醒していない人間の骨など簡単に砕けるだろう。


 「攻撃力が高いと、日常生活で不便ではないか?」――覚醒直後の私はそう思っていた。

 だが、この力は私が明確に"攻撃する"と意思をもたない限り、発揮されない。

 だからこそ、日常生活では普通の人間と変わらないように振る舞うことができる。


 ただ、初期値が高かろうと、私には――戦うためのスキルが、やはり【剣術】しかない。


 やれることは、回帰する前と変わらないか……と、私は一度肩を落とす。


『回答します。覚醒後にスキルを取得する方法は存在します』


 頭の中に響く機械的な声は、淡々とそう告げた。

 私の第二の人生――いや、復讐のための人生が、静かに動き出そうとしていた。


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