六角邸恋奇譚・外伝 ― 在りし日の女学生の記憶 ―
『六角邸恋奇譚・外伝』
― 在りし日の女学生の記憶 ―
※ 『六角邸恋奇譚』本編のイメージイラストです。
✧✦✧ 大正浪漫 × 愛憎劇 × ロマンス ✧✦✧
芙佐子が初めて恋を知り、そして失った日の記憶──
彼女の心に残った痛みが、やがて六角邸で紗弥子を苛む炎となる……
⚠ この作品は、『六角邸恋奇譚』の外伝になりますが、本編をご覧になっていない方にも、本編の前提として楽しんでいただける内容になっております。
それは、少女にとって初めての恋だった──
「落としましたよ」
華道教室へ向かう道すがら、低く凛とした声に振り返ると、黒い学生帽に詰襟を纏った背の高い青年が立っていた。
切れ長の眼差しが涼やかで、その凛とした佇まいに、少女は思わず声を失う。
「あ……」
「これを」
青年は立ち尽くしていた少女に近付くと、白いレースの手巾をすっと差し出す。
少女は、両手で抱えていた花束を左手で抱え直すと、右手でハンカチを受け取る。その際に、指先が青年の手に触れ、白い細面がほのかに紅く染まった。
柔らかな風が吹いて、少女の黒髪と青い振袖が揺れる。
「──おい、三条……どうしたんだ?」
ハンカチを拾ってくれた青年の後ろから、同じ装いの青年が現れる。その視線が、花束とハンカチを抱える少女へと向けられた。
「すごい美人だな……知り合いなのか?」
「紹介してくれよ」と少女へ向けられる視線に、三条と呼ばれた青年の声が僅かに冷たくなる。
「違う。失礼だろう……もう行こう」
「それでは、失礼」と少女に一礼して、青年は背を向けると友人を伴って去っていった。
少女は、黒いマントが揺れるその背中をじっと見つめていた。
「三条、様……」
囁くように呟いた少女は、彼の姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
* * *
その後、少女はすぐに両親に調べてもらい、「三条」と呼ばれた青年が三条伯爵家子息の「三条正篤」ということを知った。年は、少女の四つ上の二十二歳。
少女は、華道教室の行き帰りで、その姿を探すようになった。
そんなある日のこと──
「君は、あのときの……」
「三条様、先日はありがとうございました」
ようやく遭うことが叶った少女は、一礼すると頬を染めて正篤に近付く。
「どうして私の名前を……」と呟いた彼に、「ご友人の方から“三条”様と呼ばれておいででしたから」と少女は答えた。
「私は、入江芙佐子と申します」
そう言って芙佐子が微笑むと、三条も微かに微笑んだ。それだけで、芙佐子の胸は甘い熱を帯びた。
「私は、三条正篤と申します」
「正篤様……」
芙佐子が、その名を囁くように口にしたときだった。
「芙佐子さん、御機嫌よう」
背後から、澄んだ声が響いた。振り返ると、萌黄色の振袖を纏う、長い黒髪の少女が立っている。
その少女は、花束を両手に抱えながら、可憐に微笑んでいた。
「詩津子さん……」
微笑み返した芙佐子の顔が、僅かに強張る。
友人の詩津子は控えめな性格と佇まいだったが、女学校でも華道教室でも“清楚で可憐”だと評判だった。どこへ行っても“美人”だと褒められてきた芙佐子にとって、詩津子は僅かな劣等感を感じる唯一の相手だった。
その時、芙佐子の背後では、正篤が詩津子に目を奪われていた。彼は目を逸らすこともできず、芙佐子に微笑みかける詩津子の姿をただ見つめていた。
だが、そのことに、芙佐子は気付いてはいなかった。
「あの……」
正篤の視線に気付いた詩津子が、小さな声を上げる。
「あ……私は、三条正篤と申します」
「はじめまして、藤堂詩津子と申します」
ふわりと微笑んで一礼した詩津子に、正篤が瞳を揺らす。
「藤堂、詩津子さん……と仰るんですね」
ざぁ……と強い風が吹いて、少女たちの髪と青年の纏う黒いマントが風に靡いた。
「芙佐子さん、お花のお稽古に遅れてしまいますわ」
「……そうですわね。参りましょう」
詩津子の声に、名残惜しそうに呟いた芙佐子。
「……それでは、私も失礼します」
僅かに瞳を伏せた正篤が、一礼する。
芙佐子と詩津子も頭を下げると、正篤は去っていった。
(あれは……)
その時、芙佐子は彼の去った足元に小さな白い紙が落ちているのを見つける。
「芙佐子さん?」
芙佐子は、すぐに近付いて屈むと、その紙を手にした。めくると、それは小さな写真だった。正篤と友人らしき青年たちが写っている。
(正篤様……)
芙佐子は、すぐにそれを白い手で包み、隠すように懐へとしまった。
「どうかなさったの?」
「何でもありませんわ……さ、参りましょう」
芙佐子は胸の高鳴りを感じながら、華道教室への道を歩いた。初恋の想い人の写真を胸にしまい、ただ夢心地だった──
だが、その夢はすぐに打ち砕かれることになる。
「お聞きになって? 詩津子さん、御結婚がお決まりになったそうよ」
「お父様からお聞きしたの、お相手は……」
教室の片隅で読書をしていた芙佐子の耳に、女学生たちの囁き声が聴こえてくる。
(──詩津子さんが? 一体誰と……)
女学校で、詩津子と一番親しいのは自分なのに……。芙佐子は、複雑な感情を胸の内に燻らせた。
「何でも、お相手の方が一目惚れしたんですって!」
「素敵! 詩津子さんが羨ましいですわ……」
聴こえてくる明るい声に、芙佐子の瞳が翳る。
その時──
「皆様、御機嫌よう」
澄んだ声が響いて視線を向けると、教室へ詩津子が入ってきたところだった。真っ直ぐに芙佐子の元へと歩いてくる。
「芙佐子さん、御機嫌よう……実は、芙佐子さんにお知らせしたいことがあって……」
「三条正篤様と、結婚することが、決まって──」と微笑む詩津子の唇から紡がれた言葉に、芙佐子は目の前が黒く染まった。
(──詩津子さんと、正篤様が、結婚……?)
「どうして……」
芙佐子は、掠れた声で思わず呟いていた。胸の奥で、何かがぽきりと音を立てて折れた気がした。
──『何でも、お相手の方が一目惚れしたんですって!』
先程耳にした言葉が脳裏に浮かぶ。
芙佐子は、彼の写真を拾ったあの日、想い人と親友が偶然に顔を合わせたことを思い出す。
二人は、挨拶しかしていなかったはず。それに、まだ一度しか会っていないはずなのに……。
(あの時、正篤様が詩津子に一目惚れしたというの……?)
芙佐子の胸を、引き裂かれるような痛みが襲う。突然に突きつけられた、あまりにも辛い現実に、足元が崩れ落ちて行くようだった。
芙佐子は、懐に忍ばせていた小さなロケットペンダントを、ぎゅっと握りしめた。想い人の写真が大切に納められた、そのペンダントを──
― 外伝・終 ―