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先ほどまで晴れていた空だったが、いつの間にか黒い雲が立ち込めつつあった。
「雨降んなきゃいいけど……」
最寄り駅から大分離れた距離にある山奥の細い道を、少年は不安そうに空を見上げつつ歩いていた。
昼下がりの山道は、どこか静寂に包まれながらも、自然の気配が穏やかに息づいており、曇り空の下で光は柔らかく拡散し、木々の間から淡い灰色がかった空が見え隠れしている。
少し肌寒いが、少年は服の温度調節機能をオフにする。肌寒い空気が肌に触れるたび、山の澄んだ冷たさを感じられるが、少年はむしろ心地よさすら覚えていた。
道は湿った土の匂いと、枯れ葉が混ざるような自然の香りに満ちており、時折、風がひゅっと木々の間を駆け抜け、サラサラと葉がこすれ合う音が耳に届く。遠くでは小鳥がかすかに鳴き、曇天の中でも生き物の営みを感じさせてくれる。
足元にはこぼれた落ち葉や苔むした岩が点在し、道が濡れているのもあって滑りやすく、少年の歩みは慎重だ。
道の脇には小さな湧き水が岩肌を滑り落ちて、ささやかに、せせらぎの音を奏でている。澄んだ冷たい水の流れを見つめると、その透明感が曇り空の陰鬱さを和らげてくれるようだった。
昼過ぎの曇り空と冷えた山道には静けさと神秘が漂い、どこか心を落ち着かせるような美しさがあるように思えた。
木の幹の隙間に目を向けると、青空の下で霞むように溶け込むビル群と、この世界である“CLOUD”を管理・運営する連合体である“CROWDS”の、高さ1000メートルを超えるタワーが見える。
その四方を取り囲むように、この世界におけるメジャーなエネルギー源であり、万物を構築する“霊子”を空間から抽出する巨大な霊子炉のプラントが配置されている。
おそらく夜になれば人工の月とともに天に向かって伸びる、青く光る光が煙が見える筈だ。
「……確かこの道で合ってたよな。山奥にあるから迷うんだよな」
宙に浮かぶホログラムウィンドウが表示するマップを繰り返し確認する。
位置情報が大幅にズレているということが万が一にでも無ければ正しい道の筈だ。
そのまましばらく道を歩いていくと途中で長い階段があり、少年はうへぇ、と目が据わった。
しかし目的の場所はこの階段の先にあり、登り切る定めにある。
「……きっつ」
息を切らし、なんとか階段を登り切ると、ようやく目的地に辿り着いた。
そこは霊園であり、柔らかい光が森の木々を通して散乱し、薄暗いものの穏やかな雰囲気を作り出している。
空気は肌寒く、山の冷気が体に染み渡る中、しんとした静寂が辺りを包み込んでいるが、耳を澄ませると遠くから風が木々を揺らす音が微かに聞こえ、まるで自然そのものが霊園の訪問者を歓迎するようだった。
冷たい光に照らされた墓石がいくつも列を成し、その間を縫うように石畳の小道が続く。
その石畳の上で足音を立てると、湿った苔の匂いがほのかに漂い、しっとりとした山の息吹を感じさせる。
並んでいる墓石の表面には風雨にさらされて薄れた文字が刻まれ、過ぎ去った時代の痕跡を物語っているようであり、少年はそのひとつの前に赴く。
「1年振り、だな。おやっさん」
墓石の下で眠る人物に語り掛け、彼は腰を下ろした。
「ほら酒。これ好きだったよな」
手に提げていた袋から、途中で寄ったコンビニエンスストアで購入したカップ酒と饅頭を取り出し、墓の前に供える。
「色々考えたけど、俺やっぱ葬奏者目指すよ。おやっさんには向いてないからよせって言われたけどさ」
少年が語り掛けるものの、当然墓石の下で眠る主からの返答はない。
しかし彼は昔を懐かしむように最近のことや将来のこと、その他色々なことを話し続けていた。
すると鼻先にひやりとした水滴が落ちてきて、少年は顔を上げる。
雨が降り出していた。
地面の石畳や草木に雨粒が当たる音が一帯を包み、
(傘忘れてきたな)
天気予報が晴れだったので傘は持ってこなかったのだが、山側ということで天候が変わりやすいのは仕方ない。
しばらく近くの神社で雨宿りをするかと、少年が墓石から体を背けたその時、不意に傘が差し出された。
「どうぞ。風邪を引いたら大変ですから」
柔らかな声に驚き、少年は思わず顔を上げた。
「あ、ありがとう……」
渡されたのは、和柄の桜が描かれた唐傘だった。そして顔を上げ、差し出した人物を目にした少年は、一瞬言葉を失った。
目の前に立っていた少女は、まるで晴天のような笑顔を浮かべていた。その笑みは、雨に滲む景色の中でもひときわ輝いて見える。
腰まで届く青みを帯びた銀髪は、毛先に光の乱反射を宿し、虹色のきらめきを纏っていた。その髪の揺らめきは、風に踊る花びらのようだった。
そして、その頭には柔らかな狐の耳が揺れ、腰には同じ色合いのふわりとした尻尾が覗いている。
しかし、最も印象的だったのは、彼女の瞳だった。黄金の虹彩には虹色のプリズムがきらめき、そこに見入った少年は、深く引き込まれるような感覚に囚われた。
「ご家族のお墓参りに?」
思わず見とれていた少年だったが、少女の問いかけに、はっと現実に引き戻される。
「そんなところ、だね……血は繋がっていないんだけど父親のような人で。今日が一周忌」
「そうでしたか。でも亡くなられた方も、また貴方にお会いできて、きっと喜ばれていると思います」
少女が墓石に目をやり、静かに目を伏せる。
そこで眠る者の魂が安らかであることを祈るように。
「どうだろ……おやっさんの願いに背いて、葬奏者になろうとしている俺に、怒ってるかも」
「葬奏者に、ですか……」
目を伏せていた少女が改めて少年の方を向き、少年は少しばつが悪そうに頭を掻く。
「昔から葬奏者は俺には向いてない、やめておけって言われてたもんで。実際に俺が今まで手にした葬奏機は全部触れた途端に故障して、まともに動かせたものは何一つとして無かったんだ。それで結構な額、俺のせいで負担かけちゃって……」
少年はかつてのことを色々と思い出す。
駅で遭遇した怪物――無骸霊と戦う葬奏者は、この世界において一種のステータスだ。
危険が高い分、報酬が高く、何より直接人命を救うことに繋がるということでフィクションでも定番のヒーローであり、大人から子供までありとあらゆる人間が目指す憧れの職業である。
最近では無骸霊の発生件数が増え、更に稼げるようになったのもあって12歳以下の下級学生に聞いた“将来なりたい職業ランキング”では10年連続葬奏者がナンバーワンだ。ちなみに2位は世界最大の動画投稿サイト“Yo! tube”の配信者である。
しかし葬奏者になるためには、心身ともに健康であることに加え、CROWDSでライセンスを交付されること、という条件がある。
とはいえ、人手不足に悩まされていることもあってなること自体はそこまで難しいというわけではなく、筆記や実技といった試験にクリアすればライセンスは交付される。
だが、少年は何故か今まで手にした葬奏機をすべて壊してしまっていた。
それも「何もしていないのに壊れた」という有様だ。原因は不明で、葬奏機自体にも異常は無かったのに、だ。
そのため購入者過失の物損による故障だとして保証外となり、トータルで100万近くの負債を強いてしまった。
「それは……大変でしたね」
「適性もそうだし、何より危険だから、って」
少女に同情のような思いやりをさせてしまったのを寧ろ申し訳なく思いつつ、
「でも俺、やっぱり諦めたくないんだ。だって昔、葬奏者に救われて、その背中を見て、俺も葬奏者になりたいと思ったから」
少年が背負っていたバッグの中から取り出したのは大剣だった。
「その葬奏機は……」
こくりと少年が頷く。
「おやっさんの形見。息を引き取る前に、俺に差し出してきて。もしも“これ”が応じたなら、迷わず進めって」
少年は“おやっさん”と最期に交わした約束を思い出す。彼は病床においてもいつもと変わらず毅然とした態度でこれをこちらに渡してきた。
それを自分が震える手で受け取って、
「でも形見だし、起動させて万が一壊したらまずいよなって1年間ずっと悩んだけど結局そのままで。それで、おやっさんの墓前に来たら決心できると思ったんだけど、このザマなんだ」
「そうでしたか……」
感情を抑えようと努めたものの、少年の声は少し震えていた。
しかし少女はただ静かに、柔和な笑みを浮かべつつ頷き、
「でも最期に託したということは、その方はあなたの背中を押してくれたんだと、そう思いますよ」
少年は顔を上げ、その“応え”を咀嚼し、
「……ありがとう」
少年の声が静寂に溶け込んだ。その微かな声に応えるように、少女は満足げに頷く。
すると、彼女の瞳がふと空を捉えたと思うと、まるで何か神秘的な瞬間を見出したかのように、その表情が穏やかさを帯びた。
少年もつられて顔を上げると、天空に変化が訪れていることに気づいた。
「あ、ちょうど晴れましたね」
柔らかい声がその場に響く。雨上がりの匂いが残る空気の中、雲の切れ間から光の矢が降り注いでいた。それは天と地を繋げる神聖な柱のようで、心に安らぎを届けるようだった。
「通り雨だったのかな」
薄く濡れた石畳が光を宿し、まばゆい虹の輝きを反射していた。雲間から差し込む陽光は優しく彼らの肩を撫で、世界が新たな息吹を得たかのような錯覚を与えた。
「良かった……実は今日あちらの神社でお祭りをするんです」
ほっと安心したように一息ついた少女はホログラムウィンドウを浮かべ、1枚のチラシ画像を表示した。
それは“神群神社例大祭”というタイトルで、今日の5時から開始されるとのことだった。
「もし良かったら来てください」
「ありがとう、絶対に行くよ」
「約束ですよ?」
少年は頷き、少女が共有状態にしているチラシを自身のデバイスに保存する。
これも何かの縁だろうということで少年は祭に赴くことを決めた。
「あっ、そういえばまだ名前をお伝えしていませんでしたね」
少女の瞳には微かな灯火のような優しさが宿っていた。彼女は一歩近寄り、静かに姿勢を正して小さな手をそっと差し出す。その動作は、雨上がりの風が木々を揺らすように自然でありながら、どこか特別な意味を込められているようだった。
「私は、イノリといいます」
彼女の名前にはどこか懐かしさを漂わせていた。
少年はその名を心の中で反芻する。「イノリ」――その響きが胸の内に溶け込むたび、目の前の少女が一層輝いて見えた。
「俺は……レン。色々と話を聴いてくれてありがとう」
少年――レンはわずかにぎこちない仕草で差し出された手をそっと握り返した。彼女の手から伝わる温もりと柔らかさが、波のように胸へと押し寄せる。
その瞬間、レンの胸には、高鳴る鼓動が新たな色彩を帯びるように広がった。それは、かけがえのない出会いの予感だった。