2-10
そうして他の4人と色々店内で会話をしていたらついつい長居してしまい、帰宅した頃には23時を過ぎていた。レンは入浴後、イノリにおやすみの挨拶を交わし、階段を昇って自室に入る。
夜の帳が静かに降りた室内。障子越しに洩れる月明かりがぼんやりと畳を照らし、わずかに揺れる影を落としていた。畳の上には敷かれたばかりの布団があり、丁寧に手入れされているのもあって、ふんわりとした形を保っている。
しかしその周囲は、まだこの場所が生活の場として馴染んでいないことを物語るようだった。
隅に置かれた棚の中にも上にもほとんど何も置かれておらず、街を散策していた際に手に取った食玩のオマケやカプセルトイのフィギュアがいくつかある程度。机の上には数冊の本と、飲みかけのお茶のペットボトルが雑然と置かれていた。 ここに来てからの数日間、慌ただしくも新しい環境に適応しようとした形跡が見て取れる。
宅配業者を利用してこちらに持ってきた荷物は未開封のまま放置されている段ボール箱ひとつ分で、タンスにまだしまっていない衣類などが入っている程度だ。義父の遺言に従い、彼の形見となるものは殆ど処分してしまったほか、地球時代に普及していたとされるパソコンやスマートフォン、テレビといったものが皮膚下に埋め込まれたナノデバイスと、ホログラムウィンドウに置き換わったのをはじめとして、あらゆるものがデジタル化していることで、自分の持ち物も殆ど存在しない。
レンは何となくその箱を見つめながら、ここが自分の居場所になるのかどうかをぼんやりと考えていた。静けさの中で、かすかに外の風の音が聞こえる。夜の深まりとともに、この部屋は少しずつ馴染んでいくのかもしれない。
ふと布団に視線を落とす。疲れを癒すための柔らかな寝床だが、彼にとっては憂鬱になる原因でもある。
(またあの夢を見るのだろうか……)
布団の中で、レンは目を閉じる。しかし、闇に溶けることに抵抗があった。眠りに落ちれば、またあの夢を見てしまうのだ――果てしなく広がる暗闇に、ただ一人取り残された世界。音もなく、温もりもなく、何もない空間で独りぼっちになる恐怖が、彼の心を締め付ける。
しかしふと、かすかな衣擦れの音がした。襖が静かに開かれる気配。闇の底に沈みかけた意識の中で、レンはそっと瞼を開けた。身を起こし、入り口の方に視線を向ける。
「起きてる……?」
そこに立っていたのは、白い作務衣風のパジャマを着たイノリだった。
月の光を受けて、虹色に輝く銀髪がやわらかく揺れている。狐の耳がわずかに動き、金色の瞳がまっすぐレンを見つめていた。彼女の佇まいはまるで夢の中の存在のようで、それでいて、確かに目の前にいる。そのことがレンの心に少しの安堵をもたらした。
目を丸くしているレンにイノリは微笑む。
「まだ眠れない?」
その声は、静かな夜に溶けるように優しかった。レンは答えず、ただ彼女を見つめる。夢の中の孤独を知る彼にとって、目の前にいる彼女の存在は、まるで暖かな光のようだった。
「なんだか人恋しくて。もし良かったらお邪魔してもいいかな?」
長い銀髪を月明かりにきらめかせたイノリは、そっと尻尾を揺らしながら、柔らかく言った。
レンは突然の事態に何も言えずただただウンウンと頷くことしかできない。
「それじゃあ失礼しま~す……」
イノリは躊躇いなく、レンの布団の中に潜り込んできた。
「!?」
突然の出来事にレンは息を呑む。柔らかな感触とあたたかな体温、シャンプー混じりのほんのり甘いようなイノリの匂いが彼のすぐそばでふわりと香る。
「あの、イノリその……」
レンはどう声を掛ければいいのかわからず視線を泳がせていると、イノリは彼の顔をじっと上目遣いで見上げた。彼女の瞳は、月明かりを受けて、きらきらと輝いているように見える。
沈黙が流れ、レンは気まずさを覚えた。
すぐ隣に居るイノリの存在がレンの心臓の鼓動を加速させ、みるみるうちに体温を上げていく。
こんなに身近で彼女の存在を感じるのは初めてだった。
胸の奥がざわつくような感情がレンの全身を駆け巡る。
聞こえるのはふたりの息遣いで、レンは自分の心臓の音がイノリに聞かれていないかと心配する。
「……もしかして、えっちなこと……考えてる?」
頬を赤くし、困ったような上目遣いをレンに向けた。
「それは……」
顔を俯かせ、言いよどむレンだが、イノリはレンの顔をそっと両手で持ち上げ、悪戯っぽく微笑みかけ、
「ふふ、冗談だよ。今はまだ、ね……」
策士だ……とレンは目の前の少女に慄いた。
これは一歩間違って手を出したらイノリとネルに殺される罠だと自分に言い聞かせる。尤も、そんな度胸はヘタレの自分には無いのだが。
「やっぱり、夜は肌寒いから誰かと一緒に寝ると温かいね」
一方で、イノリはそんなレンの苦悩を知ってか知らずかリラックスしている様子だった。
「そ、そうだね……」
レンの背中にイノリの柔らかいものが当たり、うなじに彼女のさらさらな髪が触れ、もふもふの尻尾が手足を撫で、否応なしに彼女を異性として強く意識してしまう。油断すると愚息が昂りそうなので彼は努めて心頭を滅却し、
「実は私も記憶が無いんだ。10年前から」
レンの身体がぴたりと硬直する。
「イノリも……?」
レンの問いにイノリが頷く気配があった。
「ここの巫女だった“おばあちゃん”に拾われてここに居るんだけど、そのおばあちゃんも半年前に亡くなって……」
「クオンさん、だよね? トウカたちから聞いたけど……」
「うん、ふたりとも懐いててね」
「じゃああの時、霊園に居たのは……」
「そう、日課のお墓参り。ちょうどレンのおじさんの隣のお墓だね」
イノリの話を聞き、レンは少しだけ考え込む。
何故、義父のシドウは亡くなる前にわざわざこの神群神社の霊園で眠ることを希望したのか。そして彼に続いて亡くなったクオンも彼の隣で眠ることを選んだのか。
もしかしたら、ふたりに何か繋がりがあるのだろうか。
だとすれば自分とイノリが出会ったのも必然なのか。
それについて訊ける人物はもう居ない。
「だからね。色々歩き回ってレンの手がかりを探してたのは、私の過去を突き止める為でもあったの。本当はね、ずっと自分の過去を知るのが怖かったんだけど、キミのお陰で自分の過去に向き合う勇気が持てたんだ。だから私はレンに感謝してるんだよ」
イノリがぎゅっと体を寄せる。
レンはその感触を確かめ、でも今はこれで良いと思った。
例えこの出会いが仕組まれていた必然だったとしても構わないと。
「レンの背中……すごく安心する」
「イノリ……」
腰に回されるイノリの手にそっと触れる。
「大丈夫だよ。私はここに居るから。キミはもうひとりじゃないよ」
その言葉は、夜の静けさの中で優しく響き、レンの胸の奥にゆっくりと染み込んでいく。闇の中に取り残される恐怖は、彼女の存在によって少しずつ薄らいでいく。
そしてレンはゆっくりと寝返りを打ち、イノリと向き合おうとしたところで、
「寝ちゃったか……」
イノリは安らかな寝息を立てながら眠っていた。
そしてレンはそっとイノリの頭を撫で、彼女の狐の耳に指先で触れ、感触を楽しみながらそっと頬を寄せた。
この笑顔をこれからもずっと守っていきたいと、願い。
「――」
イノリのぬくもりに包まれながら、レンは微睡む。
いつも夜眠るのが不安だった。でも、久しぶりにそんな気持ちはいつの間にか拭い去られていた。
眠りに落ちたとしても、今なら、孤独ではないのかもしれない――そんな気がして、レンはゆっくりと目を閉じる。
イノリの柔らかな気配に包まれながら、彼はゆっくりと夢の世界へと誘われていった。