揺らぎの座標
──“警告音”が鳴り止んだ。
まるで世界が一瞬、息を止めたようだった。
次の瞬間、空気は音を取り戻し、南訓練棟の各所で規定通りの動きが始まっていく。
足音、通信音、起動音。
それぞれが“演習”という枠を守っているように見えて、誰の胸の内も穏やかではなかった。
神宮寺紡希は、棟内南側の中階──通称“機材保管区域”の死角にいた。
構造上、監視カメラの範囲から外れるこの場所は、彼自身があらかじめ“逃走役”として使うと読んでいたポイントだ。
(……こんな整った環境で、何がしたい)
視線を巡らせる。
廊下の先には、重ねられた訓練器具と、点滅する警告灯の赤い光。
空間の隅々まで、妙に整っている。
それが逆に“仕掛け”の存在を強調していた。
──これは演習じゃない。
──“誘導された箱庭”だ。
足音が、数秒ごとに切り替わる。
複数人の接近。けれど急がない。
つまり相手は既に“情報”を得ている。
逃走側の位置、経路、動きまで、予め“予測済み”のような態度。
紡希は、あえて何もせず、そこに立ったまま待った。
自分を試す者がいる。
どこから来るかは関係ない。
──それを、“見極める”。
それがこの演習で、彼が唯一「やる」と決めたことだった。
***
その頃、訓練棟西側、別の階層。
相馬美久はひとり、割り当てられた小隊から距離を取っていた。
正式な戦闘任務など、彼女には割り当てられていない。
だが──
(ここに来たのは、私の意思)
彼女は己にそう言い聞かせていた。
兄の意思でもない。
生徒会の命令でもない。
紡希に追いつくためでもない。
ただ──
(私は、“本物”をこの目で見たい)
柊木渚紗の敗北。
千乃の微かな動揺。
紡希の無言の歩み。
その全てが、美久の中の“常識”を軋ませていた。
──この学園にとって、本当に正しいのは何なのか。
──そして、私は何を選ぶのか。
美久は階段を降りながら、制服の内ポケットに入れた“兄のメモ”を無意識に指で探った。
そこには、こう書かれていた。
> 《神宮寺紡希。選別対象。制御困難。周辺派閥の動向に注意せよ》
“敵”として記されていた。
だが、美久はその結論を鵜呑みにできなかった。
──兄の“正しさ”と、紡希の“まっすぐさ”。
──どちらかが嘘だとは思えない。
その狭間で、少女は立ち尽くしていた。
***
一方。
演習区域北側、元・司令管理ブースの奥。
そこには、反生徒会の“頭目”である東堂蓮司の姿があった。
彼は椅子にもたれ、笑いすら浮かべている。
「さぁ……どう動く、“外側の子供達”」
彼の指示によって、すでに反生徒会の情報網は演習区域全体に“観測端末”を仕掛けていた。
通信ログ、座標データ、振動感知。
それらを使って紡希、美久、そして生徒会幹部らの動向をリアルタイムで追跡している。
「監視者と被監視者の境界なんて、とうに消えてるんだよ」
蓮司の手元には、既に神宮寺紡希の動線パターンが表示されていた。
「正面からやり合うつもりはない。
けれど、“選ばれた者”ならば──こっちへ来る」
彼の目は、監視モニター越しに一点を注視していた。
神宮寺紡希が、立ち止まり、振り返る。
誰かが近づいてきたことに気づいたようだった。
そして、蓮司は言う。
「ようこそ、“選ばれる側”へ─王喰い」
その声は、静かに。
だが、確かに全てを引き裂く“裂け目”の口火となっていた。
※※※※※※※※※※※
機材保管区域に響く足音は、一人分だけだった。
神宮寺紡希は、その足音が“誰のものか”を聞いただけで理解した。
振り返らずに、言葉を投げる。
「……来たか」
「……どうして、それだけで分かるの?」
声は相馬美久。
制服の上着を脱ぎ、腕まくりをした姿のまま、ゆっくりと紡希へと歩み寄る。
紡希は僅かに肩をすくめた。
「他の連中なら、もっと迷ってる足音してる。お前は……決めて来た音だ」
美久は、一拍置いて息を吐いた。
その表情には、わずかな緊張と、確かな決意が混じっていた。
「私、知りたいの。何が“正しい”のかを。兄の言う秩序も、渚紗先輩の誇りも……みんな、揺れてる」
「俺に聞いても無駄だぞ。俺は“正しさ”なんて知らない」
「でも──君は、揺れてない」
紡希の目が、一瞬だけ揺れた。
それはほんの僅かな“ノイズ”だったが、美久は逃さなかった。
「君の中には、ちゃんと何かある。……だから、皆が惹かれていくんでしょ」
紡希は無言で美久を見る。
やがて彼はゆっくりと背を壁に預けた。
「惹かれても、ついて来れるとは限らないぞ。……俺は、止まらない」
「止まらないって、何を?」
「秩序だろうが、役職だろうが、感情だろうが──俺の前で立ち止まったもんから壊れていく」
冷たい言葉。
だが、美久はそれに怯まなかった。
「それでも……私は、自分の足で立ちたいの」
柔らかい声で、それでも芯のある言葉。
それを聞いた紡希は、小さく目を閉じた。
「……だったら、勝手に見てろよ。俺は何も教えない。何も与えない。けど、お前が見たもんは全部“お前のもん”になる」
「うん……それで、いい」
ふたりの間に、短い沈黙が流れる。
だが、その沈黙は、不快ではなかった。
むしろ、ようやく同じ地面に立ったような、そんな空気があった。
──だがその時。
訓練棟内に、小さなノイズが走った。
紡希が即座に動く。
壁に手を触れ、微細な振動を感知する。
「……見られてるな。ずっと前から」
美久もすぐに端末を確認した。
画面には、微弱ながら複数の位置情報ログが表示されていた。
「これって……」
「監視用の補助端末。反生徒会が使うやつだな」
「反生徒会……って、ことは」
「──東堂蓮司だ」
その名が出た瞬間、美久の表情がわずかに緊張を帯びる。
「知ってるの?」
「ああ。“動く”って分かってた」
紡希は、躊躇なく廊下へと歩き出した。
その背に、美久が声をかける。
「待って。どこへ行くの?」
「“裂け目”の方だ」
「裂け目……?」
「この演習は、初めから“誰かが分断される”前提で組まれてる。今動かなきゃ、切られるのは“お前の兄貴”じゃない」
「え……?」
紡希の歩みは止まらない。
その背中に、美久は一瞬だけ躊躇した。
──でも、彼の言葉は真実だった。
どちらに立つのか、決めないままでは。
何も掴めないまま終わってしまう。
美久は拳を握る。
そして、追いかけるように一歩を踏み出した。
***
一方その頃、訓練棟最上階の観測室では、
東堂蓮司が通信機越しに誰かと会話を交わしていた。
「……ああ、始まったよ。神宮寺と美久が動いた」
『第八観測区、ダウンしました。妨害、あるいは遮断と思われます』
「いい。予定通りだ。むしろ歓迎すべきだなァ」
蓮司の声は、どこまでも愉しげだった。
「揺れてくれる方が面白い。“均衡”を壊せるからな」
『……神宮寺に対する直接接触は?』
「まだ早い。焦るな。あいつが“自分で踏み出す”まで、俺達は待つ」
「そしてそのとき、初めて“アイツを引きずり込む”んだよ。俺たちの座標に──な」
監視モニターには、神宮寺紡希と相馬美久の二人が並んで廊下を駆けていく姿が映し出されていた。
その先にあるものが、“揺らぎの座標”。
誰もが、中心へと引き寄せられていく。
※※※※※※※※※※※
空気が変わった。
訓練棟の一角、最上階と中階をつなぐ連絡通路。
赤い警告灯がぼんやりと回転し、通路の奥に伸びる影が、じわじわと形を変えていく。
──誰かがそこに立っていた。
「よぉう、“王喰い”前ぶりだな」
姿を現したのは、反生徒会を束ねる男──東堂蓮司だった。
美久が一歩後ろに退く。
紡希は、その視線の先にある男をじっと見つめたまま、動かない。
「面倒なところで待ち伏せしてんな」
「面倒が好きなんだよ。お前もそうだろ?」
蓮司の声は軽かった。
だが、その瞳は一切の油断を許さない獣のような鋭さを湛えていた。
「“演習”だなんて、随分と回りくどいやり方を取ったな」
「そっちが“回りくどい”と決めつけてくれるなら、まだ俺にも余裕があるってことだろ?」
蓮司は両手を広げ、あえて背中を見せるようにゆっくりと歩き出す。
「俺たち反生徒会はな、“反抗”の為だけに動いてるわけじゃない。……“更新”のために必要な破壊を選んでるんだよ」
「言葉は綺麗でも、やることは火種だ」
「だからこそ、やはり貴様が必要だ。
神宮寺紡希──“お前”の存在そのものが、既に現状の秩序を壊している」
蓮司は振り返らずに言葉を続けた。
「この学園のルールは“枠の中”で強くなれ、という仕組みだったぁ。
だが貴方は、それを選ばなかった。誰の派閥にもつかず、命令にも従わない。
それでいて……抗い続けてる」
「それが気に食わないって言うのか?」
「逆だね。──俺たちは“お前の選択”を、制度ごと更新する武器にしたいんだ」
ようやく蓮司が振り返る。
「俺は思うんだ。“王”という構造そのものを、喰ってしまえる存在が必要だって」
その言葉に、美久が目を見開く。
(王を……喰う……?)
一瞬、試練の場で兄が呟いたあの言葉が脳裏をよぎる。
──『王喰い』
「……お前、俺の能力を知ってるのか?」
紡希の声が珍しく静かに揺れた。
蓮司は笑った。
「覚えてるぜ。
知ってるぜ。
忘れないぜ。
感じたぜ。
一部だけな。
でもそれで十分。
この世界にテメェの存在を許す法則があるなら、もう秩序なんて幻想にすぎない」
その瞬間、世界観の気配が跳ねた。
刹那、紡希の目も変わった。
「だったら──お前も、“試される側”だな」
地を蹴る。
風が裂ける。
一瞬で距離が詰まる。
だが、蓮司は一歩も動かない。
そして、彼の前に──“時空間の捻じれ”が生まれた。
「──《転座式・重位差干渉》」
目に見えない“ズレ”が発生し、紡希の接近が半歩ずれた位置に落ちる。
まるで、“存在していたはずの時間座標”から、勝手に位置が外されたように。
「?」
紡希が即座に対応し、軌道を補正する。
が、今度は逆方向から──蓮司の気配が消える。
「やっぱし……その反応、お前は。いや、君は“人間”じゃないなぁ」
空間の背後から声。
だが、紡希は振り返らず、拳を振る。
──すでに“音の反響”で敵の座標は割れていた。
拳が空気を貫き、空間の捻れを逆回転させる。
それに気づいた蓮司が、笑いながら跳び退る。
「面白い。やっぱり、正面からじゃ駄目だ」
「当たり前だ。お前、今この場所で──一番俺を“舐めてる”」
紡希の言葉に、美久が間に割って入る。
「やめて……!これは演習じゃなかったの!?」
「美久ちゃん、それは違うの“嘘”だぜ」
蓮司が微笑む。
「この演習が“何時もの戦場”になるのは今からなんだ」
その瞬間、訓練棟の照明が落ちる。
非常電源の緑光だけが、静かに三人を浮かび上がらせる。
緊張が走る。
「──さあ、“揺らぎ”を始めようかの」
蓮司の手が上がる。
そして、演習区域全体に“強制シャットダウン”信号が走った。
扉は封鎖され、脱出経路が消える。
連絡網も遮断される。
“箱”が閉じた。
これで、紡希たちは──この“揺らぎ”の中心に完全に閉じ込められたのだった。