彼女達の間に在るもの
翌日の放課後。
夕陽が校舎のガラスを赤く染めていた。
廊下の人通りがまばらになった時間。
生徒会室に隣接する静かな応接室に、
三人の少女がいた。
柊木渚紗。
相馬美久。
篠崎千乃。
それは、普段なら揃わない顔ぶれだった。
いつもなら、任務のため、報告のために顔を合わせるだけ。
けれど、今日は違った。
会話のために集まっていた。
それも、“今まで語らなかったこと”を、
語るために。
***
「……どうして私を呼んだの?」
最初に口を開いたのは渚紗だった。
制服の袖を少し捲り、腕を組むようにして椅子に座っていた。
背筋は真っ直ぐだが、いつもより緊張感がなかった。
その声に、美久は少しだけ眉を下げる。
「あなたが来るって聞いて……私も、話さなきゃって思ったの」
「話すって……何を?」
「……神宮寺紡希のこと」
「……!」
一瞬、沈黙が落ちた。
けれど、それを割ったのは千乃だった。
「あなた達は、彼に“壊された”のよ。秩序も、信念も」
その言葉は冷たく響いたが、刺すような皮肉は含まれていなかった。
むしろ、静かな観察者としての評価のようだった。
渚紗は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうかもね。でも、私は──感謝してる」
「感謝?」
美久が目を見開く。
「負けたことは、悔しかった。……今でも、思い出すと涙が出そうになる」
「じゃあ、なぜ……」
「でも、あの時言われたの。“もっと、自分のために戦え”って」
渚紗はそう言って、美久の目を見た。
「それが、今の私を動かしてる。
もう、“誰かのためだけ”に戦ったりしない。
今度は、自分で選ぶ。戦うことも、守ることも、誰かと立つことも──全部」
その言葉を聞いて、美久は拳を握った。
自分の中にあった“曖昧さ”が、渚紗の言葉で突きつけられた。
(私は……)
紡希と話したあの夕暮れ。
彼の無骨な言葉が、ずっと胸に引っかかっていた。
“誰が正しいかじゃなくて、お前自身がどうしたいかだろ”
分かっていた。
兄の正しさも、紡希の正しさも。
でも、自分が何をしたいか──そこに踏み込めないまま、時間だけが過ぎていた。
「……私は、まだ答えを出せてない」
小さな声で、美久はそう言った。
「でも、渚紗がそうやって立ち上がったなら、私も……」
「迷ってもいいんだよ」
そう口を挟んだのは千乃だった。
彼女は静かに立ち上がり、部屋の窓辺に向かう。
そこから見えるのは、赤く染まった学園の中庭。
「人は、選ぶときに迷う。迷わずに選べるのは、それが命令か習慣のときだけ」
「……千乃……?」
「私だって、まだ“理屈”でしか動けてないわ。でも、あなたたちを見てると──
……もしかしたら、それだけじゃダメなのかもって思うの」
篠崎千乃。
生徒会の冷徹な参謀として知られる彼女が、そう言うこと自体が異常だった。
三人の少女は、それぞれ違う立場に立っている。
けれど、その中心には一人の男がいる。
──神宮寺紡希。
彼の存在が、彼の言葉が、
三人の“常識”を少しずつ崩していた。
「……もう、止まらないね」
「ええ」
「……そうだね」
静かに、三人は頷いた。
まだ答えは出ていない。
でも、立ち止まることはしない。
誰かに従うのでも、誰かの背中を追うのでもない。
これは、彼女達が“自分で立つ”ための戦いの始まりだ。
彼女達の対話は、静かだった。
けれど、その余韻は確かに、
新たな物語の幕を引く風を呼んでいる。
陽が完全に落ちる頃には、応接室の空気も沈黙に包まれていた。
話すことは、もうなかった。
けれど、誰もその場から立ち上がろうとはしなかった。
沈黙は気まずさではなかった。
互いの間に流れた言葉が、まだ胸のどこかで反芻されていた。
それが、軽々しく動くことを許さなかった。
──“それぞれの戦い”は、もう始まっていた。
■ 柊木渚紗──空白を埋めるもの
彼女は今日初めて、生徒会以外の空気を深く吸い込んだ気がしていた。
長いあいだ、自分は一枚の歯車だった。
意思より先に義務が動き、心より先に肩書が判断を下す。
それが当然だと思っていたし、むしろ誇らしかった。
でも、あの試練で壊れたのは、誇りなんかじゃなかった。
──自分の“核”だった。
自分を動かすもの。
自分がなぜ手段を握るのか。
それを答えられず、言い訳すらできず、
あの雷の下に膝をついた。
(私は、空っぽだった)
そう思った時、全身が重くなった。
力が出なかった。
でも今、ほんの少しだけ、それが戻ってきた気がした。
“自分のために”戦う。
それが何を意味するのか、
まだ輪郭は見えていない。
けれど、今日、美久や千乃と話したことで、
それが“わがまま”でも“裏切り”でもないと、そう思えた。
「……もう一度、手段を握るよ」
小さく口に出す。
誰にも聞かせない、自分自身への宣言。
その声に、わずかに震えは残っていた。
でも、決意もあった。
守るためでも、証明するためでもない。
“私は、私で在るために戦う”。
そういう武器を──これから、持ち直すのだ。
■ 相馬美久──揺らぐ、だが止まらない
渚紗の言葉を聞いた時、
胸の奥にあった迷いが静かに騒ぎ始めた。
(……私には、言えるのかな)
自分のために戦う。
自分の意思で選ぶ。
そう言い切る渚紗の横顔に、美久は一瞬、嫉妬に近い感情すら抱いていた。
自分はずっと、兄の下で“正しさ”を信じてきた。
兄の指示は的確で、冷静で、何より“結果”を伴っていた。
だから疑う理由がなかった。
でも──最近は違う。
神宮寺紡希が現れてから、兄の判断が“計算”ではなく“意図”に見えることが増えた。
その“意図”に、自分の感情が取り残されていくような違和感。
それが、怖い。
(私は、兄の“部品”じゃない)
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
そんな風に思ってしまうことに、罪悪感すら覚える。
けれど、それを抱えていては、きっと何も見えないままだ。
渚紗のように、言えないかもしれない。
千乃のように、理性で割り切ることもできないかもしれない。
それでも──
「私も、立つよ」
ぽつりと、漏れた言葉。
それは誰に聞かせるでもない、
けれど確かに響く宣言だった。
兄に従うのか、神宮寺に協調するのか。
それすら、まだ分からない。
でも、自分の足で考えて、選んで──
“誰かの代わりに動く”ことは、もうしない。
■ 篠崎千乃──理性の揺らぎ
千乃は、二人の言葉を聞いても何も返さなかった。
けれど、彼女の思考は確実に動いていた。
柊木渚紗──生徒会で最も忠誠心が強く最も“構造”に従順だった少女が、
今、意志を持ち始めている。
それは彼女にとって、構造の“変質”を意味していた。
相馬颯という頂点の支柱に従うこと。
それがこの学園の最も美しい“形式”だった。
千乃は、それに心から納得し、信じていた。
信じたからこそ、誰よりも厳しく、冷徹で在り続けた。
だが──
(なぜ、私は今ここにいる?)
なぜ、自分は“この対話の輪”に加わっているのか。
なぜ、会長に報告もせず、渚紗の言葉を聞いているのか。
──答えは、明白だった。
心の奥が、何かを探していたのだ。
確信ではない。
でも、もしかしたら“理性では解けない構造”が、この世界に存在するのではないかと──
無意識に、それを見極めようとしていた。
神宮寺紡希。
あの男の存在は、
まるで“論理で解析不能なもの”だった。
だからこそ、排除ではなく観察する価値がある。
「……このままではいけない」
千乃は静かに立ち上がった。
渚紗、美久の視線が集まる。
「感情だけで秩序は維持できない。
でも、感情がなければ秩序は崩れる」
「……それって……」
「構造を維持するために、私は変わる。
相馬颯の構造が静かに狂い始めているなら──
私は“私のやり方で”支えるだけ」
その目は揺れていなかった。
けれど、かつての“絶対の安定”とは違う。
新しい、しなやかな強さを帯びていた。
---
三人の少女は、それぞれの言葉を胸に立ち上がった。
この夜が明ける頃、彼女たちはもう、
昨日の自分ではいられない。
自らの戦いを選び、
他者の言葉に惑わされず、
それでも誰かと“交わる”ことを恐れない。
──それが“強さ”であるならば。
神宮寺紡希が壊したのは、敵味方の秩序ではなかった。
彼が壊したのは、彼女たち自身の中にあった“思考停止”だったのだ。
物語は進む。
立ち上がる者が、また一人、また一人と増えていく中で静かに、静かに“嵐の前”が終わりを告げようとしていた。