静寂
試練の終わりを告げる鐘は鳴らなかった。
けれど、それが終わったことは誰の目にも明らかだった。
雷の嵐が過ぎ去った石畳の広場に、焦げ跡と亀裂、そしてただ二人──
崩れ落ちた渚紗と、静かに立つ紡希だけが残されていた。
声はなかった。
誰も歓声を上げず、誰も言葉を発さなかった。
勝者が語らず、敗者も立ち上がれなかった。
──渚紗は気づいていた。
自分は負けたのだ。
ただ力で負けたのではない。
“戦う理由”を持てなかった自分が、最初から敗者だったのだと。
彼女の中で何かが崩れた。
肩書でも、信頼でもない。
それを支えていたはずの、曖昧な信念そのものが──
そんな彼女に、紡希は淡々と語った。
「もう少し、自分のために戦ってみたらどうだ」
優しさではない。ただの事実として、彼は言った。
戦いを終え、背を向けた紡希の姿は、何かを得た者のそれではなかった。
けれど、渚紗にはわかった。
自分とは違い、彼は“既に答えを持っている”。
だからこそ彼は、ただ立ち去ったのだ。
そして──
観覧席の最上段で、そのすべてを見届けていた相馬颯は、小さく呟いた。
「王喰い、か」
それは、ひとつの試練を終えた男に対する評価であり、警鐘だった。
「これは……ただの始まりだ」
その言葉の意味を、誰もまだ知らなかった。
***
翌朝、学園は日常の風景を取り戻していた。
だが、廊下の噂話、交差する視線の重さが、それが偽りの“平穏”であることを示していた。
──柊木渚紗は、敗れた。
──神宮寺紡希が、勝った。
それだけで、学園全体がざわめいた。
生徒会派は緊張を強め、廊下には監視の目が張り巡らされた。
渚紗は姿を見せず、朝のルーチンさえ途切れていた。
その不在は、“敗北”以上に生徒たちの心を重くさせていた。
一方、反生徒会派の面々もまた浮かれてはいなかった。
神宮寺紡希は確かに勝った。
だが彼はどこにも属さない。
“味方でもなく、敵でもない”。
その在り方こそが──彼の“異物性”をより際立たせていた。
***
生徒会室。
相馬颯は、淡々と試練の記録を確認していた。
──神宮寺紡希、想定超過。
──柊木渚紗、精神的動揺により運用不安定。
資料にはそう記されていた。
彼は静かに呟く。
「やはり、力だけでは足りないか」
篠崎千乃が問う。「交渉に移りますか?」
彼は首を振った。
「今はまだ、時期じゃない」
──しかし、放置もできない。
神宮寺紡希という男がこのまま“秩序の外”に在り続ければ、
やがてこの学園の根幹すら崩しかねない。
彼はすでに、次の一手を探り始めていた。
静かに、確実に、歯車は、確かに回り始めている。
──広がるのは、沈黙ではなかった。
試練の翌日。
学園の空気は一見すれば“いつも通り”を装っていた。
けれど、それはあくまで“演技”だった。
生徒たちの視線の端々には緊張が宿り、
放課後の廊下では立ち止まり、耳を澄ます者すらいた。
「……見たか? あれ」
「渚紗先輩、マジで来てねぇのか……」
「神宮寺って、何者なんだよ」
噂は、もはや火のついた導火線だった。
それを火薬に変えるか否か──判断を下す者たちは、静かに動き始めていた。
***
■ 反生徒会──会合の影
放課後、旧校舎の一室。
そこに集っていたのは、反生徒会に属する“中核”の者たちだった。
薄暗い室内に、木製の机を挟んで向かい合う数名。
その中心に座る青年──東堂蓮司は、肘を机につき、片手で頬杖をついていた。
「……つまり、俺たちの“駒”じゃないってことだな」
誰にともなく投げた言葉。
だがそれは、集まった全員に向けられていた。
「神宮寺紡希。俺たちにとって都合の良い存在じゃない」
「生徒会に逆らった。けれど、それだけだ」
蓮司の言葉は静かだった。
だが、その瞳には確かな読みが宿っている。
「……俺たちは、勝ち馬に乗りに来たわけじゃない。革命がしたいわけでもない。
ただ、あいつらにとって代わる“次”を用意する。
そのために必要なのは、“制御可能な力”だ」
部屋に沈黙が落ちた。
神宮寺紡希──
たしかに強かった。
たしかに、秩序を揺らがせた。
だが、それは“制御”できない強さだった。
だからこそ、危険だった。
「……紡希をどう扱うつもりですか」
そう尋ねたのは、幹部のひとり獅堂環。
飄々とした外見に似合わず、意外に慎重な性格の持ち主だ。
東堂は、無言で立ち上がる。
そして、窓際へと歩み寄り、夕暮れに染まる校舎の景色を見下ろした。
「……神宮寺が“誰の味方にもならない”なら、それでもいい。
けれど、あいつの存在がこの均衡を壊すなら──」
一拍、間を置いて言った。
「いずれ、切り札をぶつけることになる」
誰の声も返ってこなかった。
けれど、その場にいた全員が理解した。
反生徒会の頭目・東堂蓮司は、“敵”と“可能性”を同時に見ていた。
神宮寺紡希は、どちらにも成り得る存在だった。
***
■ 生徒会──揺らぐ内部
生徒会室では、静かな作業音が響いていた。
ファイルをめくる音、端末を操作する音。
それらが、室内の空気をわずかに和らげていた。
──だが、そこにいた者たちの表情は、静かではなかった。
篠崎千乃は資料整理をしながら何度も手を止め、
相馬美久は、隣室から会長室の扉を何度も振り返っていた。
「……お兄ちゃん、本当にこのままでいいのかな」
呟く声に、誰も答えない。
答えられない。
相馬颯は、決して感情で判断を下す人間ではない。
それは分かっている。
けれど、美久の胸にあるのは、理解ではなく、動揺だった。
──紡希と話したあの日から、何かが揺れている。
彼の言葉が、心のどこかに残っていた。
“自分で選べ。後悔のない選択を。”
彼はただそう言っただけだった。
でも、それがどれほど重い意味を持つか──
いま、彼女自身が痛いほど感じていた。
***
■ 渚紗──沈黙の果て
そして、その頃。
広場で敗れた少女──柊木渚紗は、学園のどこにも姿を見せていなかった。
病欠でもない。
ただ、沈黙の中にいた。
部屋に引きこもるようにして、
繰り返し思い出していた。
試練の場の景色。
あの雷光の終わり。
紡希の言葉。
“もうちょっと、自分のために戦ってみたらどうだ?”
何度思い出しても、胸の奥が苦しくなる。
あれが正しいということは、否定できなかった。
だからこそ、自分がどれだけ空っぽだったかを痛感していた。
──私は、誰のために、何のために。
それを知らずに剣を振るい、拳を握っていた。
それが“敗北”だった。
だから、いま渚紗は立てなかった。
まだ、立ち直るための理由を見つけられていなかった。
***
神宮寺紡希。
彼が勝った。
けれど、誰も彼に祝福を贈らない。
なぜなら彼は、“勝者”にはなれなかったからだ。
彼が崩したのは秩序ではなく、“前提”だった。
その前提が壊れたとき、人々は初めて自分の足で立たなければならない。
そのことに、皆がまだ気づき始めたばかりだった。