第8話:普通の選択、普通の別れ
アオイはランドセルを買うため、母親と共にデパートに来ていた。幼稚園での友人たちと一緒に通うことを決めた地元の小学校。来年から始まる新たな生活のための準備だった。
「アオイ、これから小学生ね。ランドセル、好きなのを選んでいいわよ。」
母親はいつも通り、どこかよそよそしい声で言った。その声に含まれる微妙な距離感を、アオイは敏感に察していた。
デパートのランドセル売り場には、色とりどりのランドセルが並んでいる。赤、青、黄色、黒。定番の色から最近人気のパステルカラーまで、多様な選択肢が用意されていた。
「あ、アオイちゃん!」
ふと呼び止められた声に振り向くと、幼稚園の級友であるナナミが母親と一緒にこちらに向かってきていた。
「こんにちは、ナナミちゃん。」
笑顔を浮かべて挨拶を返すと、ナナミの母親が興味津々といった様子でアオイに話しかけてきた。
「アオイちゃん、小学校受験はしないの?」
アオイは軽く首を横に振った。
「ううん。私は友達と同じ学校に行きたいから。」
そう言うと、ナナミが「嬉しい!」と喜びの声を上げた。ナナミの母親は、アオイの母親に「勿体ない」と小声で話していたが、それ以上は詮索せず、親子連れはそのまま去っていった。
ナナミたちが見えなくなると、アオイはランドセル売り場の赤いランドセルを手に取った。その中でも最もシンプルなデザインのものだった。
「これでいいわ。」
母親にそう告げると、彼女は眉をひそめてアオイを見つめた。
「それでいいの?アオイは普通じゃないんだから、好きなのを選べばいいのよ。」
その言葉に、アオイは一瞬だけ戸惑った。
「普通じゃないってどういうこと?」
「だって、あなたは特別なんだから。普通の子が赤を選ぶからって、それに合わせる必要なんてないでしょう?」
母親のその言葉に、アオイの胸の奥に小さな棘が刺さったような痛みが走った。
「普通を望んだのはお母さんじゃない。」
反射的にそう言い返したアオイに、母親は冷たく笑みを浮かべた。
「これが普通だって?自分の力で何でもできるあなたに、両親の庇護が必要だとでも思ってるの?」
その言葉には苛立ちと冷淡さが入り混じっていた。
アオイは何も言い返せなかった。母親の言うことは事実だった。アオイは、自分の才能で家族を変え、研究所に多額の資金を集めさせている。その結果、父親は仕事を辞め、母親も自由な時間を得た。自分がいなくても両親は経済的には何の不自由もない。
だが、それは本当に正しい形だったのだろうか。
アオイは手にしていた赤いランドセルを戻し、別の色にしようかと迷う素振りを見せたが、母親の視線を感じて止めた。
「赤でいい。」
それだけを言い残し、ランドセルを選び終えた後、2人は言葉を交わすことなくデパートを後にした。
帰り道の車の中でも、家に帰ってからも、母親とアオイの間に会話はなかった。母親は自室に閉じこもり、アオイもリビングで一人で過ごした。
夜が更けても母親の部屋の扉は開かず、父親もいつものように外出して戻ってこない。アオイは静まり返った家の中で、一人で食事を済ませ、寝室へ向かった。
布団に入ると、アオイは今日の出来事を振り返りながら、胸の中で自問自答を繰り返した。
「私は、どうすれば良かったんだろう。」
自分が普通を望むのは、ただのわがままだろうか。自分の選択が間違っていたのだろうか。考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。
そして、その夜、母親は家を出た。
普通を望んでいたはずの母親。その母親が普通を捨て、アオイに対して嫌悪感を露わにしたことで、限界を感じて家を出て行ったのだ。アオイはそのことを、深く理解することはできなかった。母親が何を思っているのか、なぜ家を出たのか、それを知るすべはなかった。
その朝、アオイが目を覚ましたとき、家の中には母親の姿がなかった。彼女の部屋はもぬけの殻で、机の上には置き手紙すらなかった。母親がどこへ行ったのか、アオイはただ無力にその事実を受け入れるしかなかった。
アオイの心には、再びあの問いが浮かぶ。
「私は、どうすれば良かったんだろう。」