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第7話: 揺らぐ普通の境界線

 リビングのソファに腰掛けたアオイは、目の前のタブレットに手を伸ばした。研究所から貸与されたこの端末は、見た目は普通のデバイスだが、その中身は一線を画す。タブレットの起動と同時に、画面に現れたのは研究所のロゴ。だが、アオイはそのロゴを無視して、すぐに操作を始めた。


 タブレットは単なるインターフェースに過ぎず、研究所内のスーパーコンピュータと繋がっている。この端末を使えば、膨大なデータをリアルタイムで取得できる。アオイはその操作方法に長けており、研究所の機密情報にアクセスすることなどお手の物だ。画面には、次々と財務状況や最新の研究成果が表示される。新薬開発や新素材の研究、さらには政府からの補助金が急増していることも一目でわかる。


「また増えてる……」


 アオイは淡々と数字を追いながら、数々のプロジェクトに彼女自身が関与している事実を再確認する。新薬の開発、新素材の発明、さらにはAIを用いた難解な数学問題の解決――そのすべてにアオイが関わっている。しかし、彼女の名前は一切、成果に記載されることはなかった。アオイにとって、それは問題ではない。注目や名声を望んでいるわけではない。ただ「答え」を示すことができれば、それで十分だった。


 その「答え」を示す方法が、彼女にはおそらく最も自然なものだった。しかし、その能力を使って得られる膨大な資金が家庭にどんな影響を与えているのか、アオイは理解していたが、それを受け入れたくなかった。


 昼間、アオイの家では家庭が崩れつつあった。両親には、研究所から「協力金」という名目で毎月巨額の金額が振り込まれ、その額は月々増加していった。それを何の疑問も持たずに享受していた父親は、その金で高級車を買い、夜な夜な外で豪遊するようになった。アオイが目にするのは、帰宅後の酔っ払った父親だけ。かつての、普通の家庭の温かさなど、もはや影も形もない。


 そして母親はというと、「優等生アオイの母親」役に疲れ果てていた。幼稚園では誰よりも完璧に見える母親を演じていたが、家に帰るとその役割を放棄したかのように家政婦に家事を任せ、しばしばどこかへ出かける日々が続いた。


 夕食の時間が過ぎても、リビングに姿を見せるのはアオイ一人だけ。テーブルには家政婦が用意した料理が並んでいる。普段なら「食べようか」と声をかけてくれるはずの母親も、今日は帰ってこなかった。アオイは何も言わず、淡々とその食事を済ませる。


 そんな毎日の中で、アオイは孤独感を深めていった。家族がいないリビングでひとり食事をしながら、彼女はふと考える。「普通の家庭で暮らしたい」と願い、研究所と交渉して手に入れた生活だったはずが、結局は家族の絆は壊れ、孤独だけが増していく。


 アオイは再びタブレットに目を向けた。画面に映し出されたのは、新薬開発プロジェクトの進捗状況。彼女の協力の結果、また一つの大きな成果が生まれようとしている。しかし、アオイの心に響くのは、その成果がどれだけ世界に影響を与えようと、彼女の心に変化をもたらすことはなかった。彼女が欲しいものは、名声でもお金でもない。ただ「答え」を示すことができれば、それだけで良かった。


 だが、その「答え」を示すために、多くの犠牲が払われていることには気づいている。家庭が崩れ、両親がそれぞれ自分の欲望を追い求める中で、アオイはますます孤立していった。研究所がもたらした金銭的な余裕は、家族の関係を修復するどころか、むしろその溝を深めていく結果となった。


「普通の生活をしたい」という願いは、実際にはアオイをますます「普通」から遠ざけていた。家庭が崩壊し、彼女は孤独の中で「普通」を演じなければならない。しかし、その演技がどれほど完璧であろうとも、アオイの心には満たされない空虚感が広がっていくばかりだった。


 タブレットを閉じ、アオイはソファにもたれかかりながら天井を見上げた。「これが私の望んだ普通なのだろうか?」


 その問いがアオイの心を支配する。どんな難問も解ける自信がある自分にとって、この問いに対する答えだけは見つからない。これからもずっと、この空虚な疑問が心に残り続けるのだろうか。

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