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第6話: 母の心

 昼下がりのリビング。カーテン越しに射し込む薄い光が、疲労感に満ちた私の顔を照らしている。


「……普通の家族として生活する」


 研究所から帰ってきた夫が言った言葉が、耳の奥で何度も反響する。


 アオイが交渉して勝ち取った権利――らしい。


 普通の家族。


 確かに、それは私がずっと願っていたことだった。けれども、その言葉を聞いたとき、私は心のどこかで困惑を覚えていた。


「普通」ってなんだろう?


「普通の子供」であるはずのアオイが、夫と研究所の偉い人たちと交渉し、自らその生活を勝ち取ったという事実。その時点で、彼女は普通ではない。


 あの日のことを思い返す。


 研究所から帰宅した夫が私に言った。


「今日からアオイは普通の幼稚園に通うことになった」


「それは聞いたわ。でも、急にどうして?」


 夫はその言葉を聞いて、少しだけ眉をひそめた。


「アオイが所長と話して決めたんだよ。普通の生活をしたいってな」


 その言葉に、私は内心驚きを隠せなかった。


「……所長と話したの?アオイが?」


「そうだ。立派だったぞ。お前が望んでいた普通の子供になったぞ。良かったな。」


「立派……立派って、まだあの子は三歳よ?普通じゃないって、あなた本当に分かっているの?」


「だから何だ?お前だって、アオイが普通になればいいって言ってただろう?」


「でも……普通の三歳児が大人と交渉なんてしないわ」


「お前がアオイに普通を求めすぎたからだろうが!」


 その言葉に私は思わず声を上げそうになったが、すぐに堪えた。


「そんなの……」


「お前が普通、普通って言うから、アオイも普通の子供になりたくて必死になったんだよ。なんでもかんでも『普通』に合わせようとするから、余計な交渉する羽目になったんだ!」


 夫の怒りに、私の胸は痛むと同時に、どうしても言い返したかった。


「でも、普通の三歳児が大人と交渉なんてあり得ないわ。アオイは普通じゃない。私だって分かっている。だけど……」


「『普通』を求めていたのはお前だろ!お前はどうなって欲しかったんだ?お前の望み通り、アオイは普通の子供の生活をする事になったんだ!これ以上何が望みだ?」


 夫の言葉に、私は言葉を失った。私の中で何かが崩れる音がした。


 しばらく無言のまま、お互いの視線が交わることもなかった。


 それが、数日経った今でも胸に重くのしかかっている。


 しばらくして、アオイは近所の幼稚園に通うようになった。


 最初は、何も問題がないように思えた。朝になると、彼女は自分からきちんと起きて、制服を身にまとい、幼稚園の送迎バスに乗り込んでいく。


 だが、通い始めてしばらくして、私はアオイに違和感を覚えるようになった。


「今日、アオイちゃんが園庭でみんなの喧嘩を止めてくれたんですよ!」


 迎えのバスで会う先生は、いつも嬉しそうにそんな話をしてくれる。


「昨日、アオイちゃんがクラスで『お友達とは優しく遊びましょう』って言って、みんなが静かになったんですよ。あんなに小さな子が、クラスの皆を引っ張ってくれるなんて、本当に驚きました」


 他の親御さんたちも、彼女の評判を耳にしているのだろう。園で顔を合わせるたび、こう言われる。


「アオイちゃんのお母さんって、本当に立派な方ですね。あんなに素敵なお子さんを育てるなんて」


 嬉しいはずのその言葉が、なぜか胸を刺す。


 私は、笑顔を作るのが精一杯だった。


 だが、私には分かる。


 アオイは演じている。


 彼女はまだ幼いはずなのに、どうすれば周囲から褒められるのか、どのように振る舞えば人に受け入れられるのかを完全に理解している。


 彼女は園児らしい幼い口調を意識して使い、大人たちに愛される“優等生”を見事に演じているのだ。


 そして、その努力が報われているのも確かだ。


 彼女は異常ではなくなった――少なくとも、周囲からはそう見えている。


 だけど、私は耐えられなかった。


 彼女が「優等生アオイ」を完璧に演じる姿を見るたびに、私の中の何かが冷たく凝り固まっていく。


 他の親御さんたちや先生方の称賛の言葉も、私を苦しめるだけだった。


 彼女の本性を知っているのは私だけなのに、それを誰にも言えない。


 それに加えて、夫はというと、研究所からの協力費が今まで通り振り込まれることに安心しきっているのか、とうとう仕事を辞めてしまった。


「これで十分やっていけるから、俺はもう働かなくていいよな」


 そんな夫の無責任な言葉に、私は返す言葉を失った。


 私が望んでいた「普通」はこれではない。


 だけど、もう何も変えられない。


 誰も私の苦悩を理解してくれない。


 毎朝、彼女は無邪気な笑顔を見せながら私に「いってきます」と言う。


 周囲の親御さんたちは、「素晴らしいお子さんですね」と褒めてくれる。


 でも、私は知っている。


 彼女の笑顔は、あくまでも作られたものだと。


「優等生アオイの母親」と見られることが、私にとってどれだけ苦痛なことか――誰も知らない。


 無邪気な園児を演じるアオイに、私は笑顔で応える。


 でも、その笑顔の裏で、私の心は限界を迎えつつあった。

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