第5話: ひとつの決心
夜の静寂を破るように、また両親の口論が始まった。
「いい加減にしてよ!アオイをあんなところに通わせるなんて……!」
母親の怒声が響く。
「協力費で生活できてるのに、何が不満だ?アオイは特別なんだ!俺たちはそれを活かしているだけだ!」
父親の応酬に、私は布団の中で身を丸める。これが日常だ。悲しみよりも、ただ冷めた嫌悪感が湧いてくる。
けれど、母の言葉には少しだけ違和感があった。
「普通の子供を育てたかっただけなのに……!」
その声は怒りだけでなく、どこか虚ろで、押しつぶされそうな感情が混じっていた。母の肩が震えている姿が頭に浮かぶ。
「普通……普通ってなんだろう?」
そんなことを考えながら、私は目を閉じた。
翌朝、父親に手を引かれながら車に乗り込む。窓の外を眺めながら、私は静かに決意を固めていた。
車内では、父親がいつものように興奮気味に話し始める。
「今日は特別な検査をするらしいぞ。アオイ、お前の力をもっと証明するチャンスだ」
その言葉に、私は軽く頷きながらも、内心で冷ややかに考える。
「私の力なんて、家族をバラバラにするだけなのに……」
ふと、私はタイミングを見計らって、甘えるような口調で話しかけた。
「ねぇ、パパ……お願いがあるの」
「お願い?なんだ?」
「研究所の偉い人……所長さんっていうのかな。あの人に少し相談したいことがあるの」
父親は驚いたように目を見開いたが、すぐに笑みを浮かべた。
「所長に?アオイ、お前もいよいよ自分の力を理解してきたんだな!いいぞ、話をしてやる」
アクセルを踏む父の表情は期待に満ちていたが、私の意図には気づいていない。
研究所に到着すると、白衣を着た研究者たちがいつものように出迎えた。しかし今日は、私は彼らに目もくれず、父に向かってはっきり言った。
「所長さんと話したいの。今すぐに」
父は戸惑いを見せたが、研究者たちに頼み込み、所長室へのアポイントを取ってくれた。少し興奮している様子が滑稽にすら見えた。
数十分後、私は所長と父親、そして数名の研究者たちがいる部屋に案内された。所長は初老の男性で、厳格そうな表情をしている。
「タチバナアオイちゃん、どうしたんだい?」
穏やかな声色だったが、その奥に隠された好奇心が透けて見える。彼は私が特別な「研究材料」であることを喜んでいるのだろう。
私は少しうつむき、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私、ずっと考えていました。私の能力が本当に役に立つものなのか……って」
その一言で、所長の表情が一変した。
「それで?」
「もし役に立つなら、ちゃんと協力します。でも、その前にお願いがあります」
父が口を挟もうとした瞬間、私は手を挙げて制した。彼の驚いた顔を無視して、私は所長をまっすぐ見つめる。
「……私の家族のことでお願いがあります」
父の顔が険しくなるのを感じたが、私は言葉を続けた。
「パパとママが、いつも喧嘩をしています。私のせいで……私の能力のせいで」
その言葉に、所長の眉が少し動いた。
「それで、君はどうしたいんだ?」
「普通の子供の生活を送りたいです。普通の学校に通って、普通の友達と遊びたい。ママが言っていた“普通”を知りたいんです」
部屋の空気が一瞬凍りついた。
父が声を上げようとしたが、私はそれを遮るように静かに言った。
「その代わり、研究所への協力は続けます。でも、普段の私は普通の子供として暮らしたい。それが叶わないなら――」
一瞬言葉を飲み込み、私の声が低くなる。
「この能力なんて、いらないです」
研究者たちの顔に驚きと困惑が広がった。所長も目を見開く。
「いらない……?」
彼の声が低く響く。
「この能力があるせいで、家族が壊れそうです。それなら、もう生きている意味もありません」
父は慌てて口を挟む。
「アオイ、お前何を――!」
「私は、普通の生活がしたいだけ」
私は父を無視し、所長を見据えた。
「私の能力が特別だっていうなら、私の家族を守るために使わせてください。それを約束してくれるなら、私は協力します」
所長はしばらく黙り込んでいた。そして、重いため息をついた後、小さく頷いた。
「分かった。君の提案を受け入れよう」
その日、私の願いは叶えられた。
車の中、父は終始無言だった。所長の判断に納得できていないのが表情から伝わる。けれど、彼がどう思おうと関係ない。私は自分で決めたのだ。
家に帰ると、母が私を出迎えた。
「普通の幼稚園に行けるようになったよ。これからはもっと一緒にいられる」
そう伝えると、母は一瞬だけ呆然とし、その後、私を抱きしめた。
「……よかった」
その声は、これまで聞いたことのないほど安堵に満ちていた。
「普通の生活が始まる――」
その夜、私は初めて穏やかな眠りについた。