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先生の罪過

 主のいない宿場で僕たちはマーニの看病をしていた。微熱と倦怠感が数日続いたまま、治らずにいたので、掛かり付けの医者から貰っていた薬を飲ませて安静にさせていた。

 父と母はマーニに付きっ切りだったので、夜は泥のように眠っていた。僕も父と母と一緒の部屋にいたが、今日はどうしてか寝付けなかった。

 一人、別室で眠るマーニの様子が気になり、二人を起こさないようにこっそりとベッドから這い出て、摺り足気味にドアに向かって静かに部屋を出た。

 マーニの部屋は隣にある。軋む廊下を静かに歩き、マーニの部屋の扉を開けて中に入った。ベッドにマーニはいなかった。窓際の椅子に浅く腰を掛けて、床に届かない足をぶらぶらと揺らしながら、窓の外に見える夜景を見ていた。街道沿いに立つこの宿場からは、一面に広がる草原が見える。月明りと星の輝きだけでは、その影が夜風に吹かれている様しか確認できない。一方でその月と星々は遮るものがなく、暗黒の空の海をそれぞれの光り方で自己主張していた。

 マーニは僕が入ってきても、ずっと窓の外の景色を見ていた。僕はマーニの前にわざとらしく立って、同じように外を見た。窓を開けようとすると、とても固く、易々と開いてくれない。思い切り力を込めると、窓は勢いよく開き、外壁にぶつかって激しい音を立てた。冷たく優しいそよ風が部屋の中に吹き込み、闇に満ちた草原からは虫の鳴く声が聞こえてきた。

「ありがとう」

 マーニはやっと僕に目を向けてくれたが、すぐに外の景色へと視線を戻した。

「寒くない?」

「大丈夫。もう熱も下がったし、元気だよ」

 マーニの額に手を当てると、確かに熱はなくなっていた。しかし、これも一時のものだと思うと、安心しきることはできない。

 医者から貰った薬はもう少ない。何処か大きな町に行って、新たに薬を手に入れなければならないだろう。果たして、僕たちは其処に生きて辿り着けるのだろうか。

 戦いの爪痕は幾度となく見てきた。町は荒れて、人の死体が転がり、絶えず炎が上がって臭気に満ちる、僕たちの逃避行の先々には安全な場所はなかった。

 お金も、食料も、生きるのに必要なものは日に日に減っている。父と母も失っていくものの多さや、命を脅かされる状況に精神をすり減らしている。僕もそれは同じた。明日、生きていることを保証されない、綱渡りの毎日に不安を覚え、寝付けない日だってある。

 マーニは僕たちよりも遥かに危険だ。体の弱さは、この長旅で更に酷くなっている。一日中、硬い座席の馬車に揺られるのはマーニに大きな負担となっていた。僕たちの中で誰よりも死に近い位置にいるマーニを、生への活力を僕が取り戻してあげなければならないのに、そうしてあげられる具体的な手段はなく、気休めの言葉を掛けることしか思いつかなかった。

 景色を眺めるマーニの横顔を見る。月明りに照らされるその顔は青白く、死人のようだった。でも、瞳にははっきりと月の輝きが映し出されていた。

「おうちじゃ、こんな風景見れなかった」

 マーニは他愛のない言葉を呟いた。マーニの口角が上がっているのに気付いた。

「お父様のお話でも、本でも分からなかったものを見られて良かった。風もすごく気持ちいいしね」

 どうして楽しそうにしているのだろう。家を失い、体は更に弱くなってしまったというのに、マーニは変わらない輝きを湛えている。いや、なお一層、輝きを増していた。閉じ込められて見えなかった世界を、その目で見て、肌で感じたことで、胸に抱いた希望が更に強く、確かなものになったのだろう。

 尋常ではない思いをマーニは秘めている。僕たちが挫けそうな窮地にいる中でも、マーニだけは下を向かず、その双眸でしっかりと前を見続けて、自らの夢から目を逸らさなかった。

 僕はこの時、マーニだけは絶対に守らなければならないと心に決めた。この純真たる思いを叶えるために、僕がマーニの障害を取り除いてやらなくてはいけない。何もかも残らなくても、失ってしまっても、マーニの傍にいられれば、それで良いと思った。


 懐かしい夢を見たような気がする。窓から差し込む朝日がベッドの端に凭れ掛かっていた僕の方にまで届いていた。

 あれからどれだけの時間が経ったのか、何度、日が沈んで昇ったのか定かでない。マーニに死の魔法を掛けられたという現実だけは、眠っている間も認識させられていた。

 重たい頭をベッドに埋めながら虚ろの中に微睡んでいると、先生の声が聞こえた。

「アリル、地下室に来てくれ」

 たったそれだけの言葉をドア越しに聞かせて、先生の気配は消えた。

 マーニのベッドに凭れ続けていた体は鉛のように重く、立ち上がるのに苦労した。二本の足で直立すると、体内の血液がじんじんと痛みを伴って巡り始めた。

 軽い頭痛が起きて一瞬、立ち眩んだ。頭を軽く振って痛みを振り払うと、マーニを見下ろす。マーニは依然として眠ったままだ。だが、額にある紋様に変化が見られた。

 赤黒い血のような色をしていたそれは明らかに薄くなっていた。マーニの肌の色が透けて見えるほどで、髪を下ろしてしまえば紛れて分からくなりそうだった。

 自分の掌も確認する。同じように、紋様は薄かった。強張っていた体が弛緩し、血流が全身に温かさを運んできた。

 治ってきている。僕が寝ている間に先生が治療してくれたに違いない。血の魔女の呪いとも呼べる悪しき魔法に打ち克つ方法を先生が見つけてくれたんだ。

 快癒の兆しが見えて浮かれていると、ふと喜びの感情に飲まれていた声を思い出した。先生が呼んでいた。それも地下室に来い、と。

 緩んでいた心と体がじわじわと固さを取り戻していく。まだ治り切ったわけではない。油断していたらぶり返すかもしれないし、今の状態のまま長引くかもしれない。治った後だって後遺症のようなものが出る可能性だってあるし、元々、体が弱いから病気にだって気を付けなければならない。多分、先生はそういった今後の話をしてくれるのだろう。ただ疑問を覚えるのは、なぜ地下室でそれを行うのかということだ。

 先生を待たせられないので、向かいながら考えることにした。地下へ降りる階段は玄関の広間にある。石造りの壁に挟まれた螺旋状の階段は明かりがなく、下りていく内に視界が闇に飲まれていった。冷たく、ごつごつとした壁に手を掛けながら一段一段、慎重に下りていく。

 地下に部屋があることは知っていた。だが、こうして地下への階段を下りるのは初めてで、どこまで続くのかも分からなかった。先生からも地下へ行くことは禁じられていて、その理由もこの暗闇による危険性を説いたものでしかなく、奥に部屋があること以外は教えてくれなかった。

 地下室に何があるのかも分からないのに、あれこれと推測するのは無理があった。それに闇が良からぬことばかりを想起させようとしてくるので、何も考えずに足元にだけ気を使って下りていった。

 心を蝕む闇を終わらせたのは小さな頼りない灯だった。地面に落ちている尽きかけた蝋燭で薄ぼんやりと辺りが見え始めて、無限に続くと思われた階段からも脱したことが明らかになると、眼前に鉄で作られた重々しいドアが現れた。鉄のドアには取っ手がなかったので、試しに軽く押してみた。すると、摩擦による不快な音を立てながら、独りでに開き始めた。

 隙間から生臭い臭いが流れてきて面食らった。ドアが開き切ると、臭気が熱を持って歓迎してきた。入るのに抵抗があったが、部屋の真ん中で先生が佇んでいたので、意を決して臭気の中に飛び込んだ。

 部屋を明るくしていたのは入り口の脇に置かれた篝火台の炎と、先生の足元で弱い光を放つ大きな五芒星の紋様だった。それでも部屋全体に明かりが行き届いてはおらず、影になってよく見えない何かが部屋の隅に溜まっていたし、上には光が全くないので際限なく闇が広がっていた。

 臭気を放つものの正体を知りたかったが、臭いが充満しすぎていたし、部屋全体を認識できなかったので発生源が分からなかった。早々に諦めて、先生の方へ近付いた。近付くと先生が纏っている服装に懐かしさを感じた。

 先生は僕とマーニを救ってくれた時の白いマントを羽織っていた。あの時、僕たちを死の淵から助け出してくれたことが、今回の血の魔女の魔法による死の危機と重なった。また先生は同じようにして死を遠ざけてくれた。もう一生を費やして先生に恩を返そうと決心し、それを口にしようとするが、先に先生が口を開いた。

「ごめん」

 五芒星に踏み入ろうとしたところで足を止めた。言おうと思っていた言葉が引っ込み、先生の謝罪の意味を探ろうとした。

「何が、ですか?」

「私では、君たちを救うことができない。マーニの体から血の魔女を追い出す方法を見つけ出せなかった」

 何を言っているのか、理解できない。だって、マーニと僕にある紋様は消えかかっているのだから。

「この紋様、消えそうじゃないですか。これが消えたら、マーニは救われるんでしょう?」

 先生は静かに首を振った。

「違うんだ。その紋様、『血の刻印』は血の魔女の復活を示す証。それが消えてしまえば。血の魔女の復活は叶わない。その代わり、マーニの命も道連れになってしまう」

「消えているのは、先生が治してくれたからじゃないんですか? 消えたら死ぬって、それじゃあマーニはもうすぐ死ぬんですか?」

 僕が思っていたことと全く反対の、最悪の方向に進行していることを知った。非情な宣告。マーニの死が間近に迫っている。先生は逃れられない死を告げるために、暗く深い地下室に僕を呼び出したのか。

「血の刻印が消えかけているのは、贄を与えていないからだ。贄さえ与えれば血の刻印は鮮明さを取り戻すだろう。でも、マーニが血の魔女と化す道は続いてしまう」

「贄さえ与えれば、マーニの命は助かるんでしょう? だったら、早くそれをマーニにあげましょう」

 延命の手段があるのならば、どうして命の瀬戸際になるまで行わなかったのか。言わずにいたその問いの答えが、先生の次の言葉の中にあった。

「贄とは生きた人間の心臓だ。それをアリルの血の刻印に食わせなければならないんだよ」

 対価の重さを知ると同時に、自分の掌にも紋様が浮かび上がった意味を理解した。

「僕が誰かを殺さなければ、マーニが死ぬってことですか?」

「有り体に言うなら、そういうことだ」

 先生は僕に歩み寄り、右腕を掴んで五芒星の中に引き込んだ。

「まだ謝らなければならないことがある。いつか、言わなければならないとは思っていたが、もうそんな機会は二度と訪れないから、今、全てを話そう」

 先生は僕の腕を掴んだまま、何かを待つ視線を向けた。何を待っているのかが分かるのに時間が掛かったが、それが僕の同意を待つ視線だと気付いた。聞きたいという気持ちは微塵も湧かなかった。怖かった。先生の視線の強さも、腕を掴む力も、其処から伝わる汗と熱も、先生の全てが僕に備わってない類の覚悟を要求していた。あるはずのないものを求められても、僕は空っぽの意思を表明しなければならなかった。そういう強制力のある、脅迫に近い要求だった。

 僕は顎を深く引いて、戻した。先生は同意を得たことによって、長く辛い話を独り言のように呟き始めた。

「君たちから両親を奪い、理不尽な魔法を掛けた血の魔女は、私の妹なんだ。遥か昔に彼女とは袂を分かち、どこで何をしているのかすら知らなかったが、血の魔女と呼ばれる者の名が広がり始めた時、私はふと、妹のことが頭に浮かんだ。彼女は賢く、私とは比べ物にならないほどの魔法の才を持っていた。だが、その才に溺れて傲慢になっていき、己の力であらゆるものが傷付き、壊れることに快楽を覚えていった。その残虐で非道な性質を正さねばと、そう思った時には彼女は行方知れずになってしまった。妹がいなくなってから、私は魔法というもの在り方を考えるようになった。我々だけが使える超常的なこの力が果たして、世を豊かにしてくれているだろうか。妹のように、弱者を蹂躙し、私利私欲のためにしか使われないものなのではないか。魔法とは其処にあるべきものたちに不条理な災いを齎しているだけなのではないかと。もどかしさを抱いて長らく魔法と向き合ったが、覆せる答えは見つからなかった。私は魔法を信じることをやめて、魔女として生きることも捨てて、この館に引き籠るようになった。私に魔法の真実を突き付けて、絶望させてくれた妹と血の魔女の惨たらしい所業が重なっているように感じた。血の魔女狩りが始まると、血の魔女の暴虐ぶりがより妹を想起させていった。胸に宿る懸念と不安で潰れそうになると、漸く真実を確かめるために血の魔女のいる戦地へ向かう決心ができた。空を飛び交う魔女たちを焼き尽くし、更には眼下の草原にも戯れに炎の雨を降らせる血の魔女の姿を私は戦地から離れた丘から見た。離れてはっきり見えずとも、愉悦で歪んだ笑みはよく見えた。その笑みで確信した。血の魔女は私の妹だ。私の妹が多くの者の命を無為に奪っていた。全てを殺し尽くした妹は、遠くで見ていた私の方へ振り向いた。妹も私に気付いていたんだ。妹は遠目からでも分かる大きな手振りで下を指差した後、彼方へと飛んでいってしまった。妹の残した仕草は、追わせないようにするための呪いだった。姉として後始末をしろ、という意味だ。逆らうことなど出来るはずもない。姉として以上に、彼女の狂った精神を更生させられずに世に放ってしまった責任があった。妹の罪は私の罪でもある。私は自分の過ちを少しでも矯正するために、封じていた魔法を使った。忌み嫌っていた魔女の力を使わざるを得なかった」

「そのおかげで僕たちは救われたんです」

 条件反射のように言葉が出てしまった。話す内に苦しそうな表情を浮かべる先生を見て、居た堪れなくなっていた。それでも、先生は頭を頑として横に振って否定した。

「私は妹の代わりに罪を償っているだけなんだ。その償いのために、君たち兄妹を利用していた。君たちに居場所を作り、食べ物を与え、不自由ない生活を送らせようとしていたのも、私自身のためでしかなかったんだよ」

 そんなはずはない。先生が利己的な思惑を秘めて、僕たちを養っていたなんて信じられない。僕とマーニが二人だけになってしまったあの時、降りしきる雨の中で悲しそうにしていたのは、自分が背負わされた重すぎる罪に苛まれていたからだということなんですか。

 僕の戸惑いを余所に、先生は淡々と話を続ける。

「私にはマーニを救う責務がある。妹が犯してきた罪の権化がマーニに植え付けられたから。私が持ち合わせる全ての力と命を賭して、マーニを血の刻印の呪縛から解放する。手を開いて、アリル」

 先生はいつもの慈愛に満ちた声でそう促してきた。この声から感じる温もりに偽りはなかった。僕とマーニを自分の子供のように愛してくれていると実感させてくれるものだ。右手の緊張が解けて、手が開いていく。先生は掴んでいた腕を離して、五芒星の中心に立った。

「その掌の血の刻印を私の胸に当てなさい」

 鈍かった僕は、そう言われて先生がやろうとしていることに気付いた。自分の命を贄として、マーニを延命させようとしているのだ。

「出来ません。先生を殺すなんて、僕には……」

「私を殺さなければ、マーニは死ぬんだよ。それに私は心臓に魔法を操る力、魔力の全て集中させている。魔力を込めた心臓を血の刻印に食わせれば、私の魔力と血の魔女の魔力がぶつかって、血の魔女の魔法を打ち消すことが出来るかもしれない。もし、それが出来なくても、マーニの命は辛うじて繋がる」

 掌の、薄くなった血の刻印をじっとみつめた。これがマーニの余命。尽きかけた命が僕の掌に映っている。マーニが死ぬ。それは絶対にあってはならない。先生が死ぬ。先生も僕たちを助けてくれた大切な恩人だ。血の魔女の姉であっても、その思いは変わらない。

 でも、先生は自分の死を望んでいる。妹の罪を自らの罪として、清算しようとしている。利己的な禊で僕たちに自分の命をも捧げようとしている。自分のために、自分の存在を投げ捨てる行いを、僕は受け止めなければならない。先生にとって何よりも大事なものは、己の命を凌駕している。僕と同じだ。先生も僕も、妹を全てに優先しているからこそ、自分を蔑ろに出来てしまう。違うのは、命の在り方。僕はマーニに依存し、先生は血の魔女の身代わりとして、自分の命を見ている。

 天秤に掛けられているのがマーニの命と、先生の意志だと気付いた。そう気付いてしまったために、僕は掌を閉じることが出来なくなっていた。僕はなんて薄情なのだろう。なんて愚かで、恩知らずで、身勝手で、無力で、卑怯な子供なのだろう。

 先生が僕の右手首を取り、自分の胸に近付けていく。僕が何も出来ないことを悟り、己の手で死を迎え入れようとしていた。僕は先生の思う通り、抵抗もせずにただ成り行きを見ているだけだった。

 掌が胸の触れる寸前で先生は止めた。最期の言葉を僕に残そうとしていた。

「ありがとう。これで私は罪を償うことが出来る。今まで世話をしてくれたことも、とても感謝してるよ。アリル、君は本当に素直で優しくて、思いやりのある子だ。最期に、私の勝手な我儘を聞いてくれ。この館の片隅に、簡単なものでいいから墓を二つ作ってほしい。一つは私、ハクの名を刻んだ墓。もう一つは血の魔女、真の名はエリュティア。その名を刻んだ墓を私の墓の隣に作ってくれないか。彼女の名を知る者はこの世にいないから、もしその墓を誰かに見られても、災厄を齎した血の魔女のものとは思われないだろう。頼めるかな」

 僕は小さく頷いた。断ることなど出来るはずもない。先生の最期の願いを叶えてあげることくらいしか、僕に出来ることはないのだから。

 先生は微笑むと、僕の掌を胸に当てた。衣服の滑らかな布地越しに先生の温もりと、穏やかな鼓動が伝わってきた。そう感じるや否や、掌がぴったりと先生の胸に引っ付いて離れなくなった。

 掌に感じていた感触とは別に、何か重たくて熱い塊のようなものが、掌の内側の方まで引き込まれてくる感じがした。静かに、ゆっくりとそれが近付いてくると同時に、先生の掴む手が異常に強くなっていた。先生は大きく目を見開き、歯を食いしばり、耐える様に唸った。苦悶の表情が居た堪れなくなり、手を引き離そうとするが、先生の掴む手からは逃れられない上に、胸に付いた掌は先生と同化したかのように完全にくっついてしまっていた。

 掌から感じる、先生の心臓の鼓動が激しく鳴っている。それだけではなく、心臓が皮膚の下まで来ているかのように、掌に直接、その鼓動を響かせていた。

 心臓の熱がより鮮明に、掌に伝わってくる。手に収まり切れない大きさだということも、分かってくる。掌を介して、心臓の姿が見えてくるように感じた。美しい血の色をした臓器。命の源たる肉塊。それが奏でる活き活きとした音。生臭さと鉄の臭い。血の味、肉の味。その全てが掌を通り越していき、刹那にして消え去った。

 掌にあった感触は何も残っていなかった。今まで感じたことのない感覚に溺れている間に、先生は消えてしまった。マントと衣服が床に落ち、真っ白な灰が山のように積もって、それらの下敷きになっていた。

 掌を此方に向けた。荊を伸ばして不気味さが増した血の刻印が、赤黒い血の色で描き直されていた。

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