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尊師は仏で御座る

作者: 久米 弘

伏見奉行の中堀と僧侶の天悟、それに百姓地主の久兵衛の三人が遊郭で楽しんでいたときに、神仏会の刺客に切り込まれる。


遊廓・橦木町


『これよりくるわいり口』

『しゅもく町くるわ入口』(※)


 鳥居型の門が通路を跨いでいた。その両側の柱には、達筆とは言えない文字が書き込まれていた。

 武士と坊主と地主の三人連れが、それを眺めて談笑しながら通り過ぎる。

「ははは、なんとも下手なじゃな。平仮名で書いているところは、漢字を知らぬのかな」

 儂は漢字を知っておるぞ、と言わんばかりの調子で笑ったのは、地主の久兵衛であった。

「さてさて、これは漢字を知らぬ者のために、わざと平仮名で書いておるのであろう」

 と、きさくに受ける二本差しの武士は、外見は平侍であったが、実は泣く子も黙る京都所司代を兼務する町奉行の中堀清右衛門であった。

「いやいや、廓という所は金さえあれば、無学文盲でも女を抱ける所。これで良いのじゃ」

 訳知り顔に受けたのは、鳥羽一帯を管轄する大寺院の西教寺住職、天悟であった。

た。


 ここは京都の郊外、伏見の入口にも当たる墨染という所で、遊廓としては歴史的な伝統があった。古くは小野の小町と深草の少将との悲恋物語の舞台となり、また元禄時代には、大石内蔵助が勧修寺界隈から、大岩街道越えで遊びに通っていた所として有名である。

 色事遊びの歴史を持つ墨染の遊廓であるが、なぜか廓の名前は「橦木町」であった。

「いやいや、この界隈は墨染の中の橦木町。じゃが橦木とは突き棒のことでな。遊廓の名前としては粋なものじゃ」

 と坊主は説明する。


(※1)(現在は、石柱二本に『橦木町廓入口』『しゅもく町廓入口』と書かれているが、これは大正時代に建てられた物で、江戸時代においては、島原のように、木製の門であった…)



 三人は秋の収穫と年貢納めなど、多忙な時期を無事に乗り越えて、一夜の遊興に集まったところである。

 その準備万端は、坊主の天悟が引き受けた。坊主は農繁期には無縁な商売で、人々がきりきり舞いをしている間に、廓の女たちの無聊を慰めに、毎夜出歩いていた。

「さてさて、天悟坊は他には、どこへ行って橦木を突かれていたかの?」

 中堀が問うた。平侍の髷に変えているのは、人々に警戒されずに、市中の動静を耳目に入れておくためであった。

「いやいや、それほどにはござりませぬ。言えと申されるのなら、そうですな……稲荷の門前や、たまには清水産寧坂、祗園。島原にもちょくちょくと」

「ははは、そこら中に種まきか。わしはお坊様とは兄弟じゃな」

 地主の久兵衛が言う。

「いやいや、お留守番、お留守番」


 贔屓の店に着くと、一般客のように、格子窓を覗くこともなく、草履を脱いで湯殿へ直行した。湯女は上客にだけ付いた。客の体を隅から隅まで、丁寧に素手で洗う。それで事前の刺激を与えて、ついでに病気持ちかどうかも調べて、二階へ送り込むのであった。

 浴衣がけで二階に上がると、女たちが待っていた。

「お久しぶりで、千代は待ちくたびれましたえ。今宵も夫婦(みょうと)(えにし)、仏様に御礼申し上げまする」

 と、まずは主賓の中堀へ、千代と名乗る女が挨拶した。

「さてさて、拙者も千代に会いたかったが、じゃが、聞き慣れぬ挨拶をいたしたな。廓で仏様とは?」

 坊主を振り返ってみると、天悟坊は早や場やと若い女を引き寄せて、身八つ口へ手を入れていた。

「いやいや、拙僧が教えておきました。何事も仏様のお計らい。男に抱かれるのも、仏様の縁であって、それを感謝して、心尽くして、男を喜ばせよ、と言うわけでござります」

「さてさて、それは良い。その心がけがあれば、いずれ仏の果報を受けるであろうの」

 中堀も坊主に遅れじと、女を引き寄せた。

「ははは、身共は心がけより乳がけ、淫汁がけ。ははは」

 地主の久兵衛は、そう言うなり、先行の二人を出し抜くように、自分にあてがわれた女の帯へ手を伸ばした。


「さあさあ、殿方。お食事を先になされませ」

 ササが運ばれた。裾を無遠慮にはだけた三人の男たちは、女の着物もはぎ取って、襦袢一枚の姿にして酌をさせるのであった。その大腿部をさわり、胸をまさぐりながら、酒を酌み交わし、談笑に花を咲かせた。

「さてさて、これだから廓通いは止められぬ。堅苦しさは一切、ここでは御法度。好きなように寛いで良い。たまらんの」

 中堀が叫ぶ。

「ははは、このような廓を許可して下さったお上には、つくづく感謝ですな」

 久兵衛が言う。

「いやいや、これは素晴らしい文化でな。男と女が金で遊ぶのは洋の東西を問わず、どこでも行われる。それを禁止すると、かえって風俗は乱れる。男が狂いだす。素人の女が娼婦になる。こうして公に許可されてこそ、男は怒らず暴れず平和になって行く。女が抱けてこそ平和というもの。であればこそ文化が育つ。美が競いたち花開く。ほれ、鳴り出したであろう。歌舞音曲も生まれて来る。全ての作法も美術も音曲も、この廓においてこそ育つと言うもの」

「さてさて、坊主よ。お主は説教しながら、よく女が抱けるの。拙者は、しゃべっていると役をしなくての」

「いやいや、本番ではしゃべらぬ。日本の文化で、廓に無縁の物が何かあるか、ないか、それを考えてみるのも一興。こりゃ、お前は、松、じゃな。何か思いつく物はあるか?」

 坊主は、松、と呼んだ女に、刺身を口に運ばせながら、問いかけた。

「わらわは、まだ、廓のことをよく存じませんので……」

「いやいや、そうじゃったな。この松は上鳥羽の小作人の娘で、文化には無縁じゃった。だが、ここに売られてきて、文化に触れて教養がついて、立派な遊女となった。最近、子供を産んだんじゃ。儂が名付けの親に成ってやった。子供は?」

「はい、お陰で元気に育っています」

「いやいや、名前はなんじゃったかな?」

「はい、丑松です」

「さてさて、坊主よ、お主の子かの?」

「いやいや、拙僧もやったが、儂が来ないときには、他の男に数知れず抱かれておる。誰の子か分からぬ。それで良いのじゃ。仏様の子、ということじゃ」

「ははは、その内の一人に、身共もいるやろうの」

「さてさて、拙者はおらぬぞ。拙者はもっぱら、この千代一人じゃ。千代は良いぞ。誰にも渡しとうない」

「いやいや、千代女は特上。顔も体も、あそこも特上。一度やると他の女は抱けぬ。三段絞めのミミズ千匹」

「さてさて、坊主よ。お主はやったのか! この千代と?」

「いやいや、殿がそう申されたではござらぬか」

 男たちの話は、落ちるところまで落ちていた。



えにしじゃ 死ね!


 酒宴も一段落して、寝間へ行こうとした時だった。階下で悲鳴がおこった。男の怒号が響いた。けたたましく階段を駆け上る音がした。

「えにしじゃ! 死ぬ!」

 襖が蹴破られた。二人! 抜刀した男が襷がけで飛び込んできた。と思う間もなく、切りつけてきた。中堀がお膳を蹴った。女の悲鳴と久兵衛の絶叫が重なった。千代が立ち上がった。

「やめなはれ!」

 と叫ぶその体には、頭の飾り以外、なにも付けていなかった。その全裸の千代に太刀が浴びせられた。

 肩から胸に食い込んだ刀を両手で握って、

「今の内に逃げなはれ!」と叫んで崩れ落ちた。

 刀を取り返そうと、男が血しぶきを上げる千代を蹴りつけたが、刀は取れなかった。



 突然の切り込みを受けたのは、橦木町遊廓だけではなかった。稲荷の参拝者待合所でも、清水の産寧坂遊廓でも、河原町の歌舞伎小屋でも、

「えにしじゃ、死ね」

 と叫んで、無差別に斬りつけ、風のように遁走した。

 捕まった者は唯一人、遊女千代に刀を取られて逃げ損なった男だけであった。

 捕らえた男は太々しく言い放った。

「我らは尊師の弟子である。尊師は仏でござる」

「ソンシとは何者? いずこにいる者?」

 拷問に掛けて、白状させたところ、最近活発に活動しているといわれる新興の宗教集団「日本神仏会」の一味とわかった。

 事も有ろうに、奉行の目の前で起こった事件で、奉行自身、すんでのところで切られそうになった。橦木町では、千代の他、地主の久兵衛が胴体を輪切りにされて死んだ。坊主は頭を斜めに切られたが、皮一枚で、命に別状はなかった。

 中堀は京都の町奉行として、面目に掛けても、解決しなければならない。出来ることなら、公にしないで、単なる偶発的喧嘩として片づけたかった。

「騒ぐでない。大方、神がかったアホどものしでかした事じゃ。神仏会の連中を一人残さず捕まえて来い!」

 陸続と逮捕された者たちを調べてみると、彼らはみな在俗の仏道修行者であった。

 その修行は真面目で真剣で、且つ妥協のない一徹なものと見られた。


 中堀が彼らに向かって怒鳴った。

「仏が人を切れと言うたのか! 仏がそんな事を命ずるはずがない。なぜ大それた事をした。これはテロだ。テロは現場の指揮官に処罰の権限が与えられておる。拙者が直々に裁いて始末する。言い分が有れば申し立てよ。筋道の通る話であれば、情状酌量がないではない」

 ほとんどの者は無言であったが、一人だけ、能弁にしゃべる者がいた。

 千代を切った男であった。全身、拷問を受けて腫れ上り、見るも無惨な形相になって、それでも太々しく言うのだった。

「仏は罪に汚れた人間たちを救えと命じられた。慈悲の心じゃ。我らは尊師様こそ生き仏と崇める。尊師様につながるえにしを作ることこそ我らの使命」

 水を与えると、さらに言う。

「我らの手にかかって死ぬことの出来た者は幸いである。なぜか分かるか? これは仏道の奥義じゃ。教えてやる。よく覚えておけ。我ら神聖な仏の弟子が手を下すことは、それにより、我らと深い縁を持つことになる。来世では我らに関わる有縁の者として生まれて来れる。これを直仏縁という。仏縁を持つことで、人間は三界の欲と迷いから抜け出る手掛かりが掴める。もし、我々が決起せずにおれば、仏縁には永遠に無関係の者として、汚れた命のまま、三界を迷い続けるのだ。我々に切られたことは盲木に浮木、仏に縁を結べた希有(けう)なことである」



 彼らが生き仏として崇める尊師こと朝日波羅という男は、奉行を睨んで威嚇した。

「朕はお前らとは別の生命体じゃ。朕は超能力を会得した。朕を侮辱し、朕を犯罪者扱いすると、お前らは子々孫々、無間地獄に堕ちてしまうこと必定。仏法と仏の眷属を恐れよ。仏の決まり事に心せよ。仏と仏に仕える者を崇めよ。さもなくば、仏に仇成す者として、その罰の恐ろしさはいかばかりか、重々に気付くがよい。たとえば、お前らの子供に、見苦しい罰の姿が現れるであろう。お前自身も、来世では、見るも無惨な病人となるであろう。このたびの朕の弟子たちの決起は、お前らの仏へ対する信仰の実態を明かすことになる。今、朕の話を聞いて、ひれ伏すなら良し。さもなくば、お前らは仏敵と証明されるのじゃ。さあ、どうする? 仏を信仰する心が一欠片(かけら)でもあるのなら、朕と朕の弟子を今すぐ、釈放せよ」


 その屁理屈を理解する者はいなかった。訳の分からないことをほざく奴ら! として、その言説は無視された。

 ただ、中堀から内密に詳細を聞かされた天悟がうなった。

「いやいや、まさに、その通りじゃ。彼らが本当に仏の衆生であれば、まさに、その通りで、彼らの行動は正しいと言える」

 天悟は顔を斜めに頭巾掛けしていた。大して化膿もせずに傷は治りかけていたが、時々痛む。頭巾を押さえながら、忌々しさがよぎる。

「いやいや、それにしても、儂のこの傷はどうしてくれる。一皮剥けた醜い顔になれば女が嫌がる。女を抱けなくなるかもしれぬ。それは我慢のならぬ事じゃ。許せぬ、許せぬ」

「さてさて、坊主は一にも二にも、女じゃな」

 中堀は、一息いれるように坊主をからかった。

「いやいや、女有ればこそ、人間の罪深さがわかる。罪深さを知れば、その罪の対処法も分かって来る。女が抱けぬとなれば由々しきこと……。生きている意味がない。許せぬ、まことに許せぬ……。それなら、今度は儂が仏の縁を作ってくれようか……儂がきゃつらを拷問に遭わせて死なせてやろうぞ。そうすれば儂の怨みに、来世も来々世も、儂の憎しみを受けて、儂にいたぶられる者として、儂の傍にいることになるであろう。……それも縁と言うもの。罪業を精算するために儂の縁に繋がれる……儂にいたぶられれば、それは仏に通じる縁となる……、そうだ、そうすれば、あ奴も、その一人かも知れぬ……」


 中堀は天悟の独り言のような呻きを聞いている内に、からかいを忘れて考え込んでしまった。

 ……この世は因果応報、六道輪廻の三世の世界で成り立っている。その無間地獄に苦しむ者たちを救わんとして、三千大千世界に唯一の仏が、多くの眷属や仏弟子をそれぞれの小世界、一粒世界に派遣されている。その志こそ有難いものとして崇めなければならない。それは分かっている。その仏教の話が真実である限り……。

 もし、その有難い仏に仇するようなことがあれば、どうなるか? それは、まことにおそろい事。仏罰は、来世に及ぶ。または子孫に現れる……

「さてさて、きゃつらは妄想のアホであろう。拙者はきゃつらの話は信じぬぞ」

 重苦しい自分の思索を打ち切りたくて、中堀は口を開いた。

「いやいや、仏弟子というのなら、彼らより儂こそ仏弟子。在俗のまま、仏を名乗るとは、聞いてあきれる」

 天悟も、とにかく連中を非難することで、逃れたかった。

「さてさて、それにしても仏の話は恐いものじゃ。子供に己の罪の罰が現れるというのは、困ったものじゃ」

「いやいや、まことにまことに……」

「さてさて、なにか方法はないものか……」

「いやいや、無いわけではござらぬ。というのも、全ては(えにし)につながっており、もし、子に現れた罰であれば、その罰となる縁を切ってやること、もう一度罰してやることで消滅する。そうすれば、来世では、二度に及ぶ罪業消滅で、今度は、まともな人間として生まれてこれる、と言うことなのじゃ」

 中堀は天悟をマジマジと見た。その話の意味するところは……。それは神仏会の連中と同じもの。そして、唯一の解決策でもある、と思った。

 中堀は……、今は亡き自分の子供のことを考えた。不幸な生まれであれば、それは本人の罪業でもあり、親の因果でもある。そのまま生かしておくよりは、親の責任でその罰を消滅させてやることこそ……それを密かに実行した中堀清右衛門は……、それは間違ってはいなかった……と、信じられた。

 一方の天悟も、同じように秘密にしている唯一の自分の子供のことを考えてしまうのであった。



仏罰を受けた子供


 天悟は中堀の屋敷を辞すると、上鳥羽の寺に戻って、離れの土蔵へ直行した。

 土蔵の後ろには小窓があった。その小窓の掛け蓋を持ち上げると、汚れた木の碗が二つ置かれていた。その碗は、一日に二回運ばれる飯と水の碗であった。

「どうじゃ? 元気にしておるか?」

 声を掛けたが反応がない。表へ回って土蔵の扉を開けた。

 様々な荷物の間をくぐり抜けて奥へ行くと板壁が現れた。その壁には隠し扉がある。その奥にもう一つ、室が有るとは、外見上まったく分からない。知っている者だけが扉を開くことが出来る。

 中には……。人間が居る。いや、それは人間とは認知しない。それは人間に似た動物、と天悟は理解していた。かれこれ十年にはなる。

 若い妻をめとって、毎夜毎夜、女体を弄び楽しんだ後に生まれてきたのが、二目と見られぬ不具者であった。その形状を思い出すのは、耐え難い苦痛で、天悟は心して思い出さないようにしていた。

『親の因果が子に報い』と言われるその因果を天悟は信じていた。仏法ではそれは絶対に逃れることのできない因果律であり、子供に病気や不具があれば、まず、当人の前世における悪業。次に、親自身の悪業の結果、と成っている。これを否定したり、疑問を持つことは許されない。仏教の教えの基盤であり、全てはその上に成り立っているのである。

 扉を開けると、臭気が鼻を突く。妻が嫌がるはずである。妻以外には、この室の掃除はさせていない。ここに因果な生命がいつまでも、死ぬことなく生き続けている、ということを知っているのは、天悟と妻の二人だけであった。

「父さん……」

 十才になるその生命体が声を発した。

……

……

(ごめん。作者はこの後が書けない。作者自身の少年時代が思い出されてしまう……)

……話を飛ばします。悪しからず……



 天悟が妻との関係を避けて、遊廓通いに励むのは、そういう次第であった。

 もし、また、再び子供が出来ると……、それを思うと妻が抱けなかった。

「そもそも、女を抱くことは、五欲の中でも最も汚い欲といわれておる。かの一休宗純も腐肉を抱くと形容した。女は臭い。腐れ肉の匂いがする。穢れているといわれる所以。それでも女を欲するということは、なんという業の深さ。儂の欲の強さは、おそらく親鸞聖人にも負けてはおらぬ。女を抱かずには一夜とて過ごせぬ。五日も事なしでおれば、気が狂いそうじゃ。まことに、罪と言うもの。あの子が儂を父さんと呼ぶ。我慢がならぬ。仏が儂を罰しておるのじゃ。あの子が儂を虐めておるのか、儂があの子を虐めておるのか。一層のこと、仏に仕える儂の手で始末すれば、それであの子の罪業が精算されて、今度は儂の因縁につながる者として、来世では、普通の仏弟子になれるのではあるまいか……いや、神仏会の連中が、あの子を切ってくれればよいものを……」

「お前に聞く。生きていたいか? いっそ、死んでしまいたいか?」

 儂に父さんと呼び掛けるあ奴に問うてみると、あ奴は「どんな体でもいゝ。生きていたい」と言った。

「……窓から小鳥の声が聞こえる。朝になると日の光が差してくる。それが嬉しい。それだけでいい。死ぬと小鳥の声は聞かれない。太陽の日差しが見られない。今のままでもいい。生きていたい」

 生きる事への執着は、なんと見苦しいものか……。死んでしまいたいと言えば、死なせてやったものを……。

 天悟は中堀の土産菓子をその子に渡して、土蔵を去った。



 天悟の妻は由岐といった。天悟を見かけると「実は……」という。

「……実はわたし、やや子が出来ました……」

「……?」

 由岐は自分の腹に手をのせた。その手が緊張に震えていた。

「相手は誰じゃ!?」

 天悟は全く、長い間、由岐の体を(なぶ)っていなかった。子供ができるはずがなかった。

「あなた様のお子です……」

「黙れ! この上、妄言の罪を重ねるか!」

「信じて貰えないとは、悲しいこと。あなたはあの時、大変酔っていました。酔ったときしか、私を求めないのが悲しかった。それでも身籠りました。あなたのお子です」

 ……この女、白々とウソを言う。考えに考えて、酔ったときのこととして、儂に覚えがない、と言うことにしたのだ。なんという狡賢い奴……

 天悟はそれ以上、妻を相手にせず、仏間に行くと、蝋燭の火から線香へ火を移して香炉に立て、思いっきりチン((けい))を鳴らして座り込んだ。

 ……妻を責めると、廓通いの坊主の妻が間男を作って身籠ったと、そこら中の笑い話になる。それよりは、儂の子として黙認しておけば、体裁は保てる。なんという忌々(いまいま)しさ!

「弥陀よ、今度、同じような子が出来れば、即刻、始末する。極貧の小作人どもは大抵はそうしている。二人までは育てても、三人、四人と育てることが出来ぬ水呑み百姓は、生まれてくる子供を母親に見せぬうちに、肥溜に捨ててしまう。それが男の辛い任務として、黙認されておる。儂も今度、同じような不具者が生まれれば、弥陀よ、そうすることを許されよ」

 黄金色に輝く阿弥陀如来は蝋燭の光を揺らして、天悟のつぶやきに頷いて見せるのであった。天悟は、弥陀の優しさに感謝した。

「仏は祈る者に応える。僧侶のまま妻を持ちたいと願った親鸞の願いも聞き入れた。覇者が自分の殺戮の悪行を許されよ、と祈ればそれを聞き入れる。万事、事を成した者が祈れば、都合の良いように応えてくれる。これが仏の救いと言うもの。有難い有難い……」



百姓たちへの説教


 一方、

 地主の久兵衛は見事に胴体二つになっていた。裸同然でいたためであろうか、あるいは、よほどの手練れな者にかかったのであろうか……。

 面白いことに、葬儀と埋葬は二箇所で行われた。二つの胴体が、好都合となった。一つは長男とその家族。もう一つは次男とその家族であった。

「長男はアホの腑抜けで、家業を大きくしたのは俺のお陰や。俺が農地を広げた。小作人を増やした。俺が銭を準備して、親父を殿様と付き合えるようにしてやった」

 と、次男の久次が主張する。

 一方の長男、久蔵は「家督は長男と決まっておるし」

 と、お上によって制定された長男家督の制度を盾に、次男の権利を否定していた。

 互いに我こそはと、譲らず、それなら親父が体二つになった事は、我々を二つの跡継ぎとされたことに違いないと、解釈して、やっと双方が納得したのだった。

「見ておれよ。その内に、分けた土地も家屋も買収して名実ともに庄屋久兵衛の跡継ぎになってやる」

 一方の久蔵も言った。

「あいつはその内に仏罰を受ける。小作人たちをどこまで搾れば気が済むのか。あいつの下で働く者は、おまんまも食えぬと言う。金を貸しては、支払いが出来ぬ小作人の娘を遊廓に売らせている。あこぎな事で田畑を増やして、それを見逃して貰うために、早速、親父の真似をして代官や奉行に近づいては、御機嫌取りをしているらしい。今に仏罰を受ける。受けなければ、仏はおらぬ事になる」

 そういう久蔵の元で働く小作人の子供が、背中の曲がる病気となった。久蔵はその小作人を追いはらった。

「仏罰を受けている親子を置いておくわけには行かぬ。どこなりと出て行け!」

 そして、久次の元へ行ったという。

 久次の小作人たちは、当てがわれたなけなしの水田に、米を作り、その収穫はほとんどを久次に納めて、わずかに収穫もれした隅の稲穂や落ち穂を集めて、自分たちの取り分とするのだった。あとは、畦などに植えた大豆や粟が食料だった。それだけで一年は過ごせない。すると今度は金を貸す。金を借りると万事休すである。

 次の収穫で返せる者はほとんどいない。再び借金をする。そうして数年過ぎると、久次に嫌われた者は、矢の催促で……、娘がいれば売ることになる。娘もいなくなれば……、一家心中か夜逃げするしかなかった。


「いやいや、しっかり働くんじゃ。不平不満を言うではないぞ」

 坊主が折りに触れては小作人をなだめる。放っておけば暴動でも起きそうなときに、坊主が仏様の話をするのだった。

「いやいや、地主様・代官様は前世で徳を積み重ねて、それで今生では人の上に立つ尊い御身分となられておる。それに対して、お前たちは前世の徳が足りなかったというわけじゃ。それもこれも万事、仏様のお決めに成られた秩序と言うものじゃ」

 坊主の話は、仏を信仰している者たちには、逆いようのない力があった。今生だけで済むものではない、ということは、仏恩のある地主などに逆らえば、来世の罰が恐ろしいのだった。

「いやいや、今日まで苦労して積み重ねて来た徳を無駄にしてはなりませんぞ。もし不平不満を言うたり、心に怨みを持ったりすると、折角、積み重ねてきた来世のための徳が、消えて無くなることになる」

 ……来世があるのなら、因果応報の決まりから逃れられないのなら……、我慢の二文字、忍従の重ね二文字。逆らうことなく御無理ご尤もで従順に生きて行くより他にはない、と思われた。

「いやいや、頑張って働けば、例え今生、飢え死にしようと、来世では、その徳によって仏様に救い上げられ、人の上に立つ者として生まれて来れる。それは間違いのない事じゃ。この世に、仏教が有る限り、仏が信仰されているかぎり、その仕組みの中に人間は生きて行くのじゃ」

 ……餓え死にしても、殴られ殺されても、逆らってはならない。そうすれば、良き人間として今生を全うしたことになり、来世の幸せが得られる。仏様はそれを約束なされている……。

「いやいや、有難い、有難い。地主様を敬おうぞ、お侍様を崇めようぞ。天使様を拝もうぞ。それらのお方々は、仏恩を受けて、仏様からその御身分がお与えになられた尊い方々で、その方々を有難く拝むか拝まないかが、仏様を芯から、偽りなく信仰しているかどうかの、見定めとなるのじゃ」

 ……

 鳥羽一体を管理している西教寺の住職、天悟は頭脳明晰で、小作人たちへの説教は抜群と評価されていた 

 その仏教観は一点の隙もないと……。従って京都管轄の奉行、中堀清右衛門も、廓遊びの付き合いを保ちつつ、事あるときには、天悟の意見を求めていたのであった。



駕籠屋への説教


 久兵衛の四十九日の法要に向かうとき、清右衛門から呼び出しを受けた。傷はどうにか大事に成らずに納まった。だが、頭巾は外すわけにはゆかない。斜めに紫の頭巾をかぶり、久蔵と久次の二家を回って、形式的な法要を片付けると、一日借り切りの駕籠に乗って、清右衛門宅へ向かった。少々の強行軍であった。

 篭屋屋が「お傷は痛みますか」と問う。心にもない気遣いをしてからに……。天悟はそれが引き金となって、つい駕籠屋を相手にしゃべってしまった。

「駕籠屋、分かっておるなら、もう少し静かに走れ。口とは裏腹に、走り方が荒いぞ。揺さぶられると、治りかけた傷もぶり返してしまう。こら駕籠屋、お前はプロじゃろ。客が急いでいるのが分からぬか。ノロノロノロノロ行くのなら歩いて行くわい。なんぞ文句があるのか。文句があるなら、聞こえるように大きな声で言わんかい。そもそも、篭屋屋は人間の足の代わりをする仕事じゃ。分かっておるじゃろ。足というものは、人間の五体の中でも、一番下のものじゃ。お前らは一番下等な仕事をしておる、ということをよくよく自覚するのじゃ。その自覚があれば、客の不満に逆らうことなど、起こりはせぬものじゃ。下等なら下等で、それをよく心してこそ、その仕事と生業の中で、善哉善哉、善き徳が積み重ねられて、来世の蓄えとなる。下等な者ほど、柔和にへりくだるることが大切じゃ。それでこそ、仏様の覚えめでたく、来世で果報に有り付ける。己よりも上の者に()(う)い奴じゃと喜ばれることが大切じゃ。上位の者から褒められれば、それが仏様に通じて行く。つまり、仏様への便りとなる。仏様へ善い便りを送ってもらうために、上位の者へ尽くすのじゃ。下等な者ほど、限りなく柔和になれ、というのはそう言う訳じゃ。分かったかの。一にも二にも仏様、有難や、有難や、さあ申してみよ」

 二人の駕籠屋は聞こえているのか、聞こえないのか返事をしない。急げと言えば、その時だけは早く走る。やや経過すると、また元の歩速に戻る。所詮は己の分際に留まるものかと、天悟は催促するのを諦めた。そのかわり……、口が勝手に動き出す。

「のう、駕籠屋、同じ人間として生まれてきても、その仕事には上下貴賤様々じゃ。それに不服を言う理由はない。それは己の持って生まれた徳と因縁に支配されておる。この世の中と人間が、生まれて死んで、又生まれ変わるという永劫の命の転生に支配されているという仏の教え通りであるのならば、仕事の貴賤に不服は言われぬ。どの仕事も尊いとか、仕事に貴賤はない、などという世迷い事は仏様の前では通らぬのじゃ。平等というものは、同格の者同士のささやかな憩いにすぎぬ。つまりじゃ、お前たち二人同士における平等じゃ。それでも、上下があるであろう。先輩・後輩、又は年齢や仕事の能力、駕籠屋としての家柄等々。その上下を無視しては、仕事は成り立たぬ。つまり、平等などというものは、所詮は幻じゃ。絵に描いた餅にすぎぬ。それを欲しがれば、仏の秩序を破壊しょうと言う邪道に落ちる。下賤な者ほど、その罠に落ちやすい。反抗したり不満を心に持ったりするものじゃ。いよいよ仏に仇成す者となって、悪因縁を積み重ねることになる。もしも、この世の中と人間が、仏の法則とは別の法則に支配されている、とするなら、そういうものも有るかも知れぬし、もし何か有るとすれば、それはおそらくは、駕籠屋、お前たちのような、仏教では下賤とされる足の仕事をする者の中から、生まれて来るかも知れぬ。そういう法則など、我々仏に褒められて生まれて来た者たちには、空想することも出来ぬ話じゃがな。しかし、お前たち駕籠屋には、何か考えられるのかも知れぬ、もし、仏の法則とは別に、なにか空想するものがあれば、是非、聞かせて欲しいものじゃ。そういうものがもし有れば、そうすれば、足の仕事と坊主の仕事が入れ替わるかも知れぬ。そうじゃ、そうすると病人は天子様より尊い、という逆さまの結果が出ないとも限らぬ。これは愉快じゃ。そうすれば二目と見られぬ不具者として生まれた因業な者も、尊い使命に生まれてきた者、という、考えられもしないことが起こるやも知れぬ。愉快じゃ、愉快じゃ」

 いい気になって、くだぐだと駕籠屋を相手にしゃべっている内に、中堀清右衛門屋敷に到着した。

 清右衛門は、頭巾越しに頭を押さえている天悟を一目見て笑った。内儀に点てさせた茶を飲みながら清右衛門は、神仏会の連中の言説を話したのだった。



我が子を切る


 清右衛門は天悟の話を聞くのが快かった。天悟は身分の高い者への尊敬と親愛を忘れない。部下や民衆に対する自分の怒りや我が儘を、天悟は決して説教がましく咎めたりはしない。天悟が説教をするのは、いつも下位の者へ対してであった。

 それでも、さすがに自分の子供を我が手によって始末したとは、打ち明けられなかった。

天悟であれば、それはそれで、仏教の因果論で、辻褄の合うものに説明してくれるであろう、とは予測したが、なぜか、口外すること自体に後ろめたさがあった。

 清右衛門の子供は、最初は健康であった。まともな子供であった。ところが5才のころから病におちて、それ以後、回復しないまま7年が過ぎた。


 日を追って、見苦しい姿に変わって行った。

 姿形の無様な子供になるとは……、それは一門の恥であった。屋敷の一角に出入りの出来ない格子室を作り、そこへ寝かせた。つまり座敷牢だった。そうすることで、外部の者に知られぬようにした。

 もし、人々に知られると、必ず噂される。

「見ろや。奉行様代官様で威張っているが、元は悪人だったのじゃ。その証拠として、ああいう見苦しい子供が出来たのじゃ。証拠を突きつけられている。あの代官はどんな悪行を働いたことじゃろう」

 それは本人の前世の報い、と中堀は理解していたが、その罪業の精算場所に自分の家が選ばれたということは、自分の罪業を思い知らせるため、とも解釈した。

 武士である自分は、戦いでは敵を切る。奉行としての自分は、罪を働いた者を死罪とする。それは、本人に宿業と成っいる罪過を切って、その悪因縁を終わらせてやるためである。

 その理屈は正しい。正しいが故に、武士が天下を治め、自分が奉行になれている。自分の勤めは、罪人の悪業を切って死なせてやること。したがって、罪業を持って生まれてきた我が子を、本人のためにもと、中堀は覚悟を固めたのであった。


 病床に伏せたままの我が子の胸に短刀をあてがい、

「心配するでない。この罪深い命を終わらせることで、お前の宿業は切れる。次には罪を精算した清い命として、再び、儂の子供になれる。安心して仏の前に行かれよ」

 心の臓を一突きにして、葬儀を出したのであった。

 刃を刺されて、その子は清右衛門を見つめ続けていた。信じられない、という表情でもあり、父上、これでよいのです、と言うているようでもあり……。その顔がいつまでも目の前に浮かんできた。

「言うて聞かせたように、死んだ方が、お前のためだったのだ。それがわかるのなら、どうしていつまでも、わしの目の前に現れる!」

 位牌には合掌を欠かしたことはない。もう、それから5年は過ぎたというのに……。



『日本神仏会』の一味は、事件に関係の無かった者は釈放された。釈放された者たちが、再び集まっていた。尊師に対する評価をめぐって、二つに分かれていた。

 その尊師こと、朝日波羅招教は、捕らえられた当初はよくしゃべっていた。だが、それが理解されないと分かると、一転して無言となった。

 その無言も常人の真似できるものではなかった。

 分からぬ者たちには語らぬ、と決めて、徹底的に無言で通せることこそ、人間ではなかった証拠と、みな一様に確信した。それでも弟子たちには見解の相違が出来た。

 一つには……、

「いま、牢獄に閉じこめられている尊師様は、最早、尊師様ではない。仏様が人間を見限って、その体から抜け出られた後の、単なる抜け殻に過ぎない。我々弟子は、抜け殻には用はない。死刑にするなり、鴨川の魚の餌にするなり、好きにすればよい」

 そう言って、平然とする者と、もう一つは、

「やはり、今でも尊師様は仏である。物言わぬ尊師様でも、尊師様には違いない。助命嘆願すべし」と主張する二つのグルーブに分かれたのだった。

 直接、殺戮を働いた者は、獄門さらし首。刀を振るっただけで、人を傷付けていない者は、流罪。そして、肝心の教祖・朝日波羅には……、


『無罪。但し、今生において宗教活動を禁止する。約定に(たが)う時は、死罪とする』となった。つまり、二度と仏や仏法を語ることさえしなければ、お咎めなしであった。


 その判決文は、中堀清右衛門一世一代の労作であった。

 それは、以下のようなものだった。



尊師への判決状


 日本神仏会の教祖、朝日波羅紹教。

 汝は仏教を信仰し、仏道を修行したものの、その会得せしめるものには多大の疑問を呈さざるを得ざるなり。

 しかも、己一人の考えに留めず、弟子にも語りて、その弟子は汝を仏と崇め、汝の考えを素直に実行せしめたり。

 汝は語りしのみにて、自ら殺傷に及ぶにあらず。

 されども、汝の語りし仏教によりて、殺戮を生じせしめしものなれば、弟子の責任は一重に汝にありと断ぜざるを得ざるなり。

 弟子が死罪なれば、汝も死罪であるべきなりしが、ここに、重大な問題が発生したるものにして、それを吟味せざるを得ざるものなり。


 汝の弟子は何故に殺傷に及びしか。

 その語るところによれば……

 曰く。

 世俗の人間たちは仏から離れて、穢れきっている。このままでは、仏に縁のない無間地獄に未来永劫迷い苦しみ続けること必定。人間として生を得た以上、仏に縁を持つことこそ出生の眼目。にも関わらず、仏弟子として縁を結ぶこともなく、逆に、仏に仇をなし、仏弟子を嘲笑するばかりの生き様に落ちている。それならば、仏弟子が直々、その穢れて罪深い命を裁ち切ることで、強引に仏との縁を持たせてやろう、という大慈大悲の行動であった……云々。


 奉行つらつら思案するに、然り然り。その理屈ぞ確かに筋を通すものなり。仏教が紛うことなく正しきものなりせば、そを非とする能わず。切られ死する者は、来世において、確かに汝らと深きえにしを持ちて再び生を得るならん。


 確かに言える。切られて死んだ者の身に付いていた穢れと罪は、死罪によって、精算される。精算されたのであれば、切られて死んだ者には、幸いであったといえる。

 確かに言える。人間は、因果応報、三世の世界に六道輪廻の繰り返しを続ける。そこへ、仏という尊い生命が縦断している。仏に縁を持つことの出来た希有な者だけが、この人間の苦界から抜け出る機会を持つことになる。

 確かに言える。その機会を、汝の弟子が与えたということは、大変に奇特な善行であったと。勿論、それには朝日波羅が正真正銘の仏であった、という前提の上での事。しかし、弟子はそれを信じていた。そうすると、信じて実行した弟子に、罪が有ったのかと、疑問が生ずる。

 確かに言える。弟子たちが言うように、朝日波羅が生き仏であるという証拠があれば、汝も弟子も、全員無罪なりと。なぜなら、仏には逆らう能わず、この世の秩序を維持する唯一の拠り所であり、唯一の最高権威であるからだ。

 しかし、証拠はない。ただ、汝と弟子たちとの語りが有るだけである。さすれば、理由のいかんを問わず、現実に人を殺傷した分は、それ相応の刑罰を与えねばならない。

 しかし、汝を罰することは、まことに重大な問題と向かい合うことになる。汝を罰すれば、汝の信じているところのもの、また我々も信じているところの仏教の全ての教えと法を問題としなければならない。故に、汝に罪有りとすれば、それは汝の信じている仏教にこそ、過ちがあると断ずることになる。とすれば、仏教の那辺に問題があるのか。

 しかし、仏法に誤りはないのであり、したがって正しいものであれば、仏法の論理と法則に従った汝にも、罰せねばならぬほどの誤りはない、ということになる。

 確かに言える。汝を非とすれば、仏教そのものを、おそれおおくも俎上に乗せることになる。そうすれば、仏教によって保証されているところの、人間界の身分は無意味なものとなる。天下の将軍様も天子様も、崇める対象ではなくなる。

 確かに言える。それはあってはならないことである。そうすれば、仏教の考えに忠実であった朝日波羅とその弟子を非とすることはできぬ。

 確かに言える。仏弟子につながる縁を作る行為は善哉である。弟子による罪業消滅の刃も、非とするには当たらぬ。

 しかし、それを放任することはできぬ。切った者は切られた者とともに、来世で縁のつながりを持って生まれ合わせるがよい。従って、殺傷した者は死罪が当然。

 しかし、問題は朝日波羅個人。正直なところ、これは当奉行の手に余る。いや、日本中のすべての学者や僧においても、持て余すであろう。朝日波羅の考えを誤りと指摘できる者がおれば、それに従う。

 しかし、それを指摘できる学者も僧もおらぬ。もしおれば、それは仏教の僧ではない。仏法の理論と価値観において成り立っている我が日本において、それは論外となる。


 以上、つらつら鑑みし上にて、汝の処罰を猶予せしものなり。適切なる判断が下せるその日まで、猶予するものなり。されど、完全無罪には有らざるなり。汝は騒動を起こせし根本の責任者なれば、猶予期間中の宗教活動を禁止するものなり。

 以後二度と、仏や仏法を語ることを許さず。それを破りしときは、即刻猶予を解除。殺人狼藉の首謀者として、弟子と同じ極刑なり。つまり獄門晒し首に処するものなり。

 以上、申し渡す。


 砂場で、左右から肩を六尺警棒で押さえつけられた朝日波羅は、涎を垂らして腑抜けの状態で、意味不明の声を漏らしていた。

「やはり、(もぬけ)の殻なんや」

 見物人の一人が、横の者にささやいた。

「ということは、それまでのあいつは、確かに仏だったということかな」

「仏が見放して出て行かれたのじゃ」

「あいつは、もう、唯の白痴じゃ」

「もう、仏のことも話すことは出来まいて」



 中堀清右衛門は、自分の採決に一抹の不安を持った。殺傷事件であれば、その頭共々、市中引き回しの上、獄門晒し首。それが当然であったのにもかかわらず、朝日波羅を執行猶予付きで放免した。もし処罰すれば、それは、彼を導いたところの仏教の論理に異を唱えることになる。仏教のどこが、どう間違っていたのか、それを明かさなければならない。そして、過てる仏教に従って、過ちを犯したのであれば、朝日波羅と同じく、仏教にも死刑を宣告しなければならない。

 それはできない。ゆえに、死罪を宣告出来なかった。それを江戸老中で理解して貰えるか否か……。

 判決文は、乱れていると思った。文語体や口語体など入り混ざり、首尾一貫していない。それでも、古今例を見ない深淵な思索の結実だと確信していた。文の乱れも、かえって思索の深さ、複雑さを表していると……。

「さてさて、頭が痛かった。よくぞここまで考えたものじゃ。天悟の知恵も借りずに……。そう、それもこれも、あ奴のことがあったからじゃ」

 清右衛門は自分の子供へ行った秘密の行為に対しても配慮したのだった。



白雪姫


 ほどなく、幕府の老中からも、殊勝なり、と労いの書状が来て、神仏会の事件は、一件落着となった。

 久し振りで遊廓へ行くことになった。

「さてさて、今度はどこへ案内してくれるのじゃ。千代のいない墨染には、もう用はない」

「いやいや、このたびは首尾良く終わってなによりでござりました」

「さてさて、坊主は斜め頭巾で、前より男が上がったの」

「いやいや、いつも頭巾でいる訳にもまいりませぬし。その時に頭巾を取れば、おなごは悲鳴をあげて逃げまする」

「さてさて、男は顔ではない。一物、一物。それにしても、千代は勿体ないことをした。今でも夢に見ての。あの感触は忘れられぬ」

「ははは、親父が言うておりました。千代女は最高の女。千代女を越える女は、白雪姫ぐらいなものであろうと、申しておりました」

 中堀に従う天悟の他に、もう一人、久兵衛とよく似た声としゃべり方をするのは、久兵衛の次男、久次であった。

「さてさて、最高のもう一段上の最高の女が白雪姫か。そのような女子がおるとも思えぬ」

「いやいや、おりまするぞ、おりまするぞ。島原に最近のこと。色白く美しく、天下に二人といないと評判の女が現れましたぞ。色白き故にもっぱら白雪姫と呼ばれておりまする」

「ははは、身共も聞きました。白雪姫はもっぱらの評判で。どの男もどの男も、味気なき小人と嘆いているよし。わらわを喜ばせる立派な殿に会いたいと言うているそうな」

「いやいや、だからこそ、こうして殿をお誘い申し上げた次第」

「ははは、もし、殿がいらぬと仰せなら、身共が頂きとうござりまする」

「いやいや、白雪は特別に準備された女子(おなご)で、久次には渡されぬ。聞くところ、親父殿より凄いというではないか」

「ははは、お坊様には負けまする。言うてみれば身共は小人、小人は七人ほど居ないことには、姫を喜ばせることは出来ませぬ」

「いやいや、そのとおり、そのとおり。最高の女は小人では満足しません。最高の女は最高の男を欲しがるものでしてな」

「ははは、殿のこの大きな体をみれば、殿も最高であることが一目で分かりまする」

「いやいや、大きいことは良いことで。仏恩のある者ほど大きい。これは仏様のお約束で疑いのない事。その証拠にお釈迦様の大きさを御覧あれ」

「さてさて、釈迦の一物がどこぞで見られたかの?」

「いやいや、釈尊は丈六と申して、一丈六尺の大男でごさりまする。その理由として、教典に書かれておりますが、釈迦を誕生させたインド人は、並みの民族よりも特別に徳のある民族。でなければどうして釈尊が出ましょうぞ。その徳の高いインド人であれば、その体は並みの民族よりも一段と大きいはず。そう、並みの人間で大きい者としては、精々六尺か七尺が限界。インド人は釈迦を生み出す民族として、それよりもう一尺は大きいはず。大きくなければ、釈迦の出生の民族も他の民族も選ぶ所がない、となる。そんなことは、仏教の原理原則上、断じて有り得ない。故に、インド人は八尺の人間たちである、となる訳で御座いまして。さらに釈尊は……。そのインド人と同じ体格であるのか? そんなことは有りませぬ。徳の高い民族としてのインド人よりも更に、比べものにも成らないほどの徳を持っておりまするのが釈尊というもの。それを体の大きさで見れば……、インド人の二倍の背丈が有って当然! となりまする。こうして、八尺の二倍の一丈六尺、という体に成ったのでござる」

「さてさて、心配じゃな。そうすると、その一物はいかほどに?」

「ははは、おなごは奥が深いよって。身共の女房なら、見事、納めましょうぞ、ははは」

「いやいや、お釈迦様は、持ってはおりますまい。昨日今日の解脱ではござらぬし、有ろうはずはございませぬ」

「さてさて、そうすると、おなごと遊ぶ楽しみは、仏には無いと言うことか」

「ははは、女房が残念がる、残念がる。ははは」

「さてさて、人間で良かった良かった。白雪姫に会う楽しみも生まれたしの~」



(了・お粗末様でした)

【おことわり】オーム真理教を題材にしていますが、著者は彼らを弁護・賛同する訳ではありません。全ては逆の立場です。誤解無きよう願います!


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