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沙織さんが扇警部に全て自白したことで、この事件は幕を閉じた。
私たちの容疑こそ晴れたが、まだ事情聴取や実況見分など、捜査は残っている。これから何度か警察に足を運ばなければならないが、もう時間も遅いということで、ひとまずは解散という形をとることになった。
沙織さんを京都府警本部に連行する扇警部と馬淵刑事らに遅れて家路に就くと、緊張から解放されたからか、途端に風が身に染みた。
それにしても、本当にリップクリームに含まれた微量の唾液で犯人のDNAが割れるものなのか、拭き取った痕跡があるからといって、警察がさらに詳しく調べたりするものなのか、私には疑わしかった。
おそらく、湊が仕掛けた罠だったのかもしれない。冷え切った容赦のない言葉で彼女を追い詰めて罠に引っ掛け、自白を誘うハッタリだったのかもしれない。
どちらにせよ、この期に及んで沙織さんが抵抗することもないだろう。そう信じたい。
「そうだ湊。なんでリップクリームをすり替えたってわかったの?」
市バスに揺られながら、何となく湊の推理過程が気になって、隣に座る幼馴染に質問を投げかけた。
半分眠っていた湊は目をぱちくりさせた後、欠伸を噛み殺すように語り始めた。
「え? ああ。そうだな、間違いなく毒殺されたのに、どこからも毒物が検出されないってことがまず疑問だった。何か方法があったはずだ。そう考えていた時に、唇にだけ微量の毒物が検出されたと聞いて、ああ、唇そのものに塗られていたのかもしれない。と仮説を立てた。では唇に直接、且つ不信感を抱かせないように塗れそうなものってなんだろう。と思考し、ポーチが散乱したことを思い出した。確か化粧品ばっかりだったなってな。そこで――」
「私の疑問だ」
分かりやすく手を叩き、湊にそう言うと、探偵は頷いて
「そう。『なんで強い調子で断ったのか』という千景の疑問がヒントになった。断ったということは触れられたくなかった、ということだ。何故? たとえ知らない人だったとしても、その人の善意を強くつっぱねる必要はないだろう。何か隠したいことがあるんじゃないか。それは何だ? 見られたくない……触れられたくない……何か良からぬことを考えている……? 毒殺の機会……。あれ、化粧品と言えば、同じリップクリームを持っていたよな。そして――」
「またまた私のヒントか!」
探偵がにこりと微笑した。
「そう。化粧直し。これで全てが繋がった。凶器になったのはリップクリームかもしれない。で、沙織さんにカマをかけてみると、彼女は『使っていない』と嘘をついた。その後、『リップクリームは関係ない』と、話を遠ざけようとした」
「ビンゴ! ってことね。で、ズバリ推理が的中したわけだ」
探偵は肩をすくめて見せ、窓の向こうに目をやった。
「推理なんて大それたことじゃない。全部推測だ。証拠だって適当にでっち上げた。沙織さんは感情が表に出やすい。だから、とにかく追い詰めて彼女が自白するよう誘導した」
私の予想は大方当たっていたらしい。湊の仕掛けた罠は見事成功、自白に繋がった。
「それでもすごいじゃん」と声を掛けようと、湊の方を向くと、なぜか彼は物憂げな表情で、窓の外をぼーっと眺めていた。
「あれ……」
ふと私は、湊の感情が気になった。
湊の推理は見事だった。湊は推測だと謙遜しているが、論理的に思考し、真相を暴いて、犯人に自白までさせたのだから、これは立派な推理と言っていい。
でも、何が彼をそうさせたのだろう。警察になりたいとか、推理小説が好きだなんて聞いたことがない。 凶悪犯のニュースを見て、「許せない」なんて一言も言ったことがない。
そんな湊が何故、〝探偵役〟を買って出たのだろう。
そして、あの言葉。
彼が沙織さんの耳元で囁いたあの言葉が、どうにも気掛かりだった。
ただ彼女を追い詰めるためだけに放った言葉なのだろうか? いや、それだけでは無いような気がする。では何なのか?
――どれだけ考えても、私には分からない。
あんな湊、見たことがなかった。
それだけに、あの衝撃を忘れることが出来ない。
私は、湊のことなら何でも知っていると自負していた。彼と仲良くできるのは私しかいないと思っていた。
だが、彼にはまだ私も知らない〝何か〟が隠されているのかもしれない。窓に映る湊の表情から真意は汲み取りかねるが、きっと、そうだ。
その〝何か〟を、果たして湊は教えてくれるのだろうか。
私はその〝何か〟を、見つけることができるのだろうか。
いや、知ってしまっても良いのだろうか。
(湊、あなたは何を隠しているの?)
そう訊いても、きっと彼は答えてくれない。
長くて寒い一日だった。
車窓の向こうにはすっかり闇が立ちこめており、月がやけに冴えて見える。
ふとこんな言葉を思い出した。
ゴールデンリング。
紅茶をカップに注いだ時、茶液の淵がカップの白さと重なって金色の輪を形成しているように見えることを言うらしい。そういえば、『テイスティ』の紅茶もこの月と同じぐらい美しかった。そんなものが殺人の凶器と化してしまうのかと思うと、暗澹たる気持ちが私を襲うのだった。
突然、バスのアナウンスが響く。
『次は、北山駅前』
湊がこちらを振り向き、
「次だろ?」
と声をかけてきた。
その声で思考の海から引きずり出された私は、曖昧に笑って力なく彼に応えた。
「ああ、うん。そうだね」
私はとにかく、早く家に帰って眠りたかった。