5
外には刑事ドラマやニュースでしか見たことのないバリケードテープが張り巡らされていた。
その向こうには野次馬の人だかり。警光灯によって赤く照らされた彼らの顔は様々で、何事かと不安を湛えている者もいれば、日常に突如現れた非日常に興奮し、笑みを浮かべる者もいる。
「何があった?」「分かんない」「殺人らしいよ」「え~マジ?」「ドラマかよ」そんなお気楽な話し声が聞こえてきて、私はひどく不愉快だった。
「何よ、こいつら。人が一人殺されたんだよ?」
湊に聞こえるほどの小声でそう言うと、彼は肩をすくめて見せた。
「ほっとけ。仮に千景があいつらの立場だったら、きっとあんな感じだぜ? 所詮自分のこと以外は他人事さ」
「それは……そうかもしれないけど」
否定し切ることができない自分が情けない。
俯いて下唇を噛んでいると、湊が私の肩を叩いて言った。
「とにかく、一度この事件を整理したいんだ。助手として付き合ってくれ、ワトソン君」
「私がいつあんたの助手になったのよ。それに、ワトソン〝君〟じゃないし」
幼馴染は少し頬をほころばせると、先に外で待機していたマスターと沙織さんを呼んだ。
「どうしたんだい?」
「何かあったの?」
彼らが口を揃えて疑問を呈する。湊は「まあ待て」とでも言うように、手を少し挙げて制止した。
「警察の捜査はまだ続きそうですし、事情聴取はしばらく後になると思われます。その間、待っているだけというのもなんだか落ち着かないでしょう。ですから一度、この事件を僕たちで少し整理してみませんか? あの時あの場所に居合わせたのは紛れもなく僕たちだけです。僕たちにしか見えないものもあるとは思いませんか?」
湊がじっくりと二人の顔を見つめている。
この中に犯人がいる。誰だ?
そう疑ってかかるような、先刻の扇警部と似たような眼をしていた。
マスターが少し思い悩むような仕草を見せたが、すぐに頷いた。沙織さんもそれを見てこくりと首を動かす。
「ありがとうございます」
一礼して、彼は話し始めた。
「まず、僕と千景がこの『テイスティ』にやってきたのは午後四時四十五分ごろ。その時、マスターだけがこの店にいましたよね?」
「ああ、私の店だからな」
「そして、マスターに促されて僕たちはカウンター席に腰を下ろした。それぞれ紅茶を注文すると、すぐにあなたは厨房で作業を始めた。僕たちの目の前で」
〝目の前〟という言葉に力を入れたことが気にかかる。私はその真意を訊くことにした。
「目の前というのは重要なの?」
「特にな」
「なんで?」
「続けるぞ」
上手くかわされてしまったが、湊には何か考えがあるのだろう。私はおとなしく引き下がった。
「僕、実は何かを作り上げる工程を見るのが好きなんですよ。例によって、僕は覗き込むようにあなたの手元を見ていた。そうですね?」
「ああ。おかげで気が散って仕方なかった」
「マスターの手際は見事でした。感心して食い入るように見続けていました」
「ありがとう、と言っていいのかな?」
嬉しいような困ったような、そんなマスターの顔に、湊はこくりと頷いた。
「続けます。しばらくして紅茶が出され、千景が気取ったようにそれを飲んだり、僕が紅茶の苦味に耐えられずガムシロップを数杯入れたり、それをマスターが笑って許してくれたりと、とにかく和やかな時間が過ぎました。そんな時……確か午後五時半頃でしたね、優香さんと沙織さんが来店したのは」
マスターに向けていた視線を沙織さんに移し、湊が同意を求める。沙織さんは素直に「ええ」と答えた。
「入ってすぐに私と優香の分のストレートティーを注文したわ。手近にあったテーブル席に座って彼女と話した」
「助かります。お二人が席についてすぐ、マスターはお冷を出した。それを優香さんは飲みましたか?」
「鮮明に憶えてはいないけど、飲んだと思う」
「優香さんの様子は?」
「いいえ、特に何も」
「そうですか。ありがとうございます」
ここで一息入れるようにコホンと軽く咳払いをした。
「ところで話は変わりますが、優香さんは何か重大なアレルギーなどは抱えていませんでしたか? そうですね。命に関わるような、そんな感じの」
沙織さんは眉をひそめた。
「何故そんなことを訊くの?」
「確認です」
「アレルギーはいくつかあったと思うけど、命に関わるようなものは聞いたことがないわね」
「ありがとうございます。話を戻しましょう。その後、優香さんはお手洗いに行くために席を立ちました。その時、彼女はポーチを忘れて行きましたね。それに気付いてあなたは『ポーチ忘れてるよ』と言って彼女にそれを渡そうとした。しかし、口が開いていることに気付かず、中身を床の上にぶちまけてしまった。そうでしたね?」
その時のことは私もよく憶えている。
突然大きな音がしたものだから驚いて、脊髄反射のように振り向いた。
散らばった化粧品を拾おうとして沙織さんに声を掛けたら、きっぱりと断られてしまったんだった。
――あれ? なんで沙織さんはあの時、私たちの申し出を断ったんだろう? それも、あんなに強い調子で。
堪らず、私は沙織さんにそれを訊いた。
「沙織さんは何故あの時断ったんですか? みんなで拾えばすぐだったのに」
「何故って……」
彼女はポリポリと人差し指で頬を掻いてから答えた。
「他人の手を煩わせるのは気が引けるでしょう? どこの誰かもわからない人なんだから」
「ああ、それもそうですね」
納得して、湊に続きを促した。彼は呆れたように私を見たが、すぐに話を元に戻した。
「続きです。散らばった化粧品を拾い集め、優香さんはポーチを持って改めてお手洗いに向かいました。しばらくして帰ってきた時、注文していた紅茶が出されたんでしたよね」
「そうだったかしら」
「恐らくそうです。お手洗いの扉が開く音がした時、マスターが厨房を出たんですから。先ほども言ったように、僕は何かを作り上げる工程を見るのが好きなもので。あの時もずっと見ていたんですよね」
「変わった趣味よね、ほんと」
沙織さんが肩をすくめてそう言った。
「ええ、まったく。まあ、その話はいいでしょう。お手洗いから優香さんが帰ってきた時、彼女の様子に何か変化はありましたか?」
「いえ、特に何も」
「些細なことでいいなら……」
と、私が割って入ると、湊は「続けてくれ」と目顔で先を促した。
「顔が少し綺麗になっていた気がする。化粧直しでもしたのかな? って思って気に留めなかったけど。あ、でも、合コンとかデートでもないのに化粧直しなんてしないか。優香さんと沙織さん、随分仲が良かったみたいだし」
「へえ、化粧直しか」
彼は親指で下顎をそろりと撫でた。
「……全てが繋がった」
そう呟いて沙織さんの方を向き直ると、湊は挑むような目つきで沙織さんを見据えた。
「取り敢えずそれは置いておきましょう。帰ってきてすぐに出された紅茶を、優香さんは確かに飲んでいましたか?」
「ええ、飲んでいたわ。そしてすぐに苦しみ出した。しばらくのたうち回った後、彼女は動かなくなってしまった……」
沙織さんの眼が潤んでいく。
当の湊は、それを冷ややかな様子で見つめていた。
「今日起きた一連の流れはこんな感じでしょう。お付き合い頂き、ありがとうございます」
再び一礼して、湊はくるりと『テイスティ』の方へ体を向けた。そうしてしばらく、彼は黙り込んでしまった。
整理したいとは言っていたが、やったことは今日起きたことの振り返りでしかない。確かに整理ではあるが、果たして本当にこれだけで良いのか?
「犯人はこの中にいる」と湊は言った。そう判断した理由は優香さんの死因であり、警察も殺人の線で捜査を続けている。
新しく判明したことと言えばアレルギー等の有無だ。しかしそれは、裏返せば死因が青酸中毒によるものであることを確信しただけだ。
結局、全て既成事実の確認をしただけで、毒物の混入方法や犯人特定には至っていない。
では、その犯人とは誰なのか? 湊はまだそれを特定できていないのか?
この〝探偵〟気取りの幼馴染は今、何を考えているんだろう? 一気に不安が押し寄せる。
「それで、なにか分かったのか?」
マスターが痺れを切らしてそう尋ねると、湊はちらりとマスターの方を見て「ええ」と答えた。
そして再び沙織さんを見据えて、質問を再開した。
「そういえば、沙織さんと優香さんは同じリップクリームを使っていましたよね?」
「人の会話を盗み聞きするなんて、あまり褒められたことじゃないわね」
沙織さんの怪訝そうな顔と声音を意に介さず、
「失礼。意識して聞いていたわけではありません。耳に入って来ただけです。こじんまりとした、落ち着いた店ですから」
ふっと息をつき、沙織さんは答えた。
「……私が優香に勧めたのよ。使ってたリップ、いい感じだったから」
「沙織さんは今もそれを使っていますか?」
「いえ、今は使っていないわ」
沙織さんの視線が左上に向かうのを、湊は見逃さなかった。彼は素早く
「嘘、ついていませんか?」
「嘘なんか……」
「人は答えを作り出そうとする時、自然と利き手とは逆の方向を見上げてしまうものなんですよ。人に勧めるほど〝いい感じ〟だったリップクリームですよ? それを今は使っていないなんて、些か不自然じゃないですか?」
「男には分からないだろうけど、気分ってものがあるのよ。それに、人と被っていると何となく嫌でしょう?」
「なら何故勧めたんですか?」
「それは……。とにかく、今は使っていないわよ」
「ふうん」
沙織さんの眼が左右に泳いでいる。瞬きの回数が明らかに増えている。
「なんでリップクリームにそこまで拘るのよ? 同じのを使っていようが、使っていなかろうが、今回の件には何も関係ないでしょう?」
「それがあるんですよね」
「え……?」
湊はニヤリと口角を上げた。
「沙織さん、犯人はあなたですね?」