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「え……?」
何を言っているの?
驚いて目を白黒させる私に、湊は尚も落ち着き払った様子で言葉を続けた。
「さっき優香さんのもとに駆け寄った時、何か甘酸っぱい香りがした。そうだな、収穫前のアーモンドのような香りと言えば分かりやすいかもしれない。ほら、昔親に連れられてカリフォルニアに行ったことがあっただろ。その時訪れたアーモンド畑が確かこんな香りだった。その香りの出所を探すと、案外すぐに分かったよ。口元だった。唇の色はまだ赤くて――」
「ちょ、ちょっと待って!」
あまりの大声に、その場にいた全員の視線が私に集まった。はっとして口を紡ぐ。
「ど、どうしたの? そんな大声を出して……」
沙織さんが涙を押し殺しながら訊いたが、すぐに湊が
「なんでもありません。とにかく、警察が到着するのを待ちましょう。もうすぐでしょう」
と、フォローした。そして私に向き直り、「外に出よう」と、私を促した。
「どこへ?」
マスターがカウンターの向こうにある席に腰かけながら、怪訝そうに尋ねる。
「少し気分転換を。警察が来たら戻ってきます」
外に出ると、日はすっかりその姿を愛宕山の向こうに隠していた。
十月下旬ともなれば日没後の空気は肌を刺すように痛い。冷たい風がまだ賑やかな街路に落ち葉を巻き上げている。
カーディガン、店に忘れてきちゃったな。
そう思えるほどには、私も落ち着きを取り戻しつつあった。
だからこそ、今はそんなことを考えている場合ではないということも分かっていた。
湊には訊きたいことが山ほどあるのだ。
「まず、犯人って何? 優香さん、殺されたっていうの? 何を根拠にそんなこと……」
「話の続きだ。優香さんが亡くなった時のこと、憶えているか?」
湊は体重を左足にかけるように体制を変え、少し首を傾げた。彼の後ろでユニオンジャックがはためいている。ここに来た時よりも幾分か激しい様子だった。
「忘れられるわけがないでしょ。首を何度も引っ掻いて苦しそうに藻掻いてた。呼吸すらままならない様子で……」
「そう。優香さんは恐らく呼吸困難で亡くなった」
「だとしたら何かの発作で――」
「いいや」
二、三歩ほど後退して『テイスティ』の扉に背を預けた湊は、腕を組んで地面に視線を落としている。元々長い彼の前髪が更に目にかかり、表情を読み取ることができなかった。
「普通の呼吸困難で亡くなった場合、唇や爪が青紫色に変色するはずなんだ。チアノーゼって言うんだが、彼女にはそれが見られなかった。赤々としていた」
「リップの色じゃない?」
「唇の色はそうかもしれない。だが、爪は違う。彼女はネイルをしていなかった。そこで、さっき言ったアーモンド臭を思い出してくれ。青酸系の毒物を飲むと、胃液とかの酸と化合して、青酸ガスが発生する。その香りがアーモンド臭なんだよ。で、青酸中毒で亡くなった場合、チアノーゼは現れない」
湊はここでいったん話を区切るように息をついた。そして徐に天を仰ぎ、目を閉じた。まるで思考を巡らせるように――。
しばらくして長い前髪の隙間から片目を覗かせ、じっと私を見据えた。
「これがどういうことか分かるか? 千景」
「つまり、優香さんが亡くなった原因は発作じゃなくて、青酸系の毒物……」
「ああ、恐らくな」
湊の話はどこかで聞いたことがある。
青酸系の毒物を使った殺人は、ミステリーやサスペンスでは定番だ。しかし、それは創作上の存在だと思っていた。まさか私が身を持ってそれを体験するなんて……。
遠くでサイレンの唸る音が聞こえる。警察だろう。
不謹慎にもホッと胸を撫で下ろしたが、まだ疑問は残っている。至極根本的な、それでいて最も重要なたった一つの疑問。
私は、尚も地面に視線を落とす湊の頭にその疑問をぶつけた。
「犯人は、誰なの?」
湊はこちらをちらりと一瞥した。
額からじわりと汗が流れていく。握り締めた拳に力が入る。
犯人がどちらであろうと、大きなショックを受けることに違いはない。マスターも、沙織さんも、到底人を殺せるような人には見えない。二人とも優しくて、穏やかで、優香さんの死を本気で悲しんでいた。
だが、どちらかが犯人なのだ。どちらかが、優香さんの死を悲しむ〝フリ〟をしていたのだ。そんなこと、信じたくはない。信じたくはないけれど、それが真実なのだ。
ようやく、湊に動きがあった。彼は眉を少し上げ、肩をすくめて口を開いた。
「それは――」
まばたきも忘れるほど、私は湊の眼を見据え続けた。
湊の口からどんなことが告げられようと、私はそれを受け入れる覚悟を決めていた。だが、それでも緊張というものは夏の湿気のように全身にまとわりつく。
「それは……?」
「俺も知りたいよ」
「はあ?」
全身の力が一気に抜けていく。思わずよろけてしまった。
こいつ……!
こいつは! この馬鹿は! 犯人の特定すらできていないくせに勿体ぶって、めちゃくちゃ真剣な顔で、かっこつけて!
はあ、呆れて物も言えない。緊張して損をした。私の体力を返してくれ。
「あんたの話を信じようとした私が馬鹿だったわ」
そう告げて店内に戻ろうとすると、湊が私の肩を持って引き留めた。
「おいおい、そう怒るなよ。少なくとも死因についてはほぼ確定だと思うぞ」
キッと湊に向き直る。
「死因が分かっても誰がやったのか分かんないんだったら意味ないじゃん!」
「だよなあ。なんとなく目星は付いているんだが……」
「え? 誰? 誰なの?」
ドウドウとでも言いたげに両手を前に突き出して湊が後退する。
「先を急ぐな。犯人を特定するにはまだ情報が足りなさすぎる。ここは警察が来るのを待って、捜査状況を見てから考察するのもいいんじゃないか? ほらもう――」
湊はバツが悪そうに親指で後ろを指した。その方向を見やると、
「もう、いいですか?」
スーツに身を包んだ男性たちが並び立っていた。背後には複数の赤い警光灯がグルグルと回転しているのが見える。
「来てるし」
湊がそう言うと、「失礼しました」とだけ言い残し、私たちはそそくさと店内へ逃げ帰った。
警察が事件現場に臨場して数分後のことだった。
「毒物反応がない?」
私と湊は口を揃えてそう言った。
「そんなはずは……。もっとちゃんと調べてください」
尚も食って掛かる私に、女性刑事はくるりと振り向いて鬱陶しそうに繰り返した。
「ですから、水も、紅茶にも毒物反応が出なかったんですよ。素人が捜査に口を挟まないでください。事情聴取は後程行いますから」
歳は私たちより10個ほど上だろうか。
腰付近まで伸びた、艶のある長い黒髪。私と湊の視線を受け止める顔は色白でこの上なく整っており、意志の強そうな切れ長の双眸が私たちを射るように睨め付けている。
すらりとした体躯が、黒いパンツスーツによって更に際立っていた。
(なんて美人な刑事だろう)
と、思わず見とれてしまいそうになったが、ブツブツと文句を言いながら捜査に戻る姿を見て、「嫌な人だな」と身も蓋もない印象を抱いた。
「まあまあ、レイちゃん。そうカッカするなって」
「扇警部……。ですが彼らは素人で、その上容疑者なんですよ。あとその呼び方、やめてください。セクハラですよ」
「おっと、これは失敬。馬淵怜子警部補」
馬淵警部補と呼ばれた堅苦しい女性刑事の後ろから、無精髭を生やした刑事がやって来た。歳は五十近くに見える。まるで整えられていない髪の毛をボリボリと掻きながら捜査に当たる扇警部は、馬淵刑事とはあまりに対照的だ。
「彼女の遺体の様子から推測するに、死因は青酸中毒であり、何者かによって殺害されたと見て間違いないんじゃないですか?」
冷静にそう告げる湊に、扇警部は片方の口角を上げながら応えた。
「ああそうだ。それは間違いない。ガキのくせによく分かったな」
「死亡した瞬間の様子と口内から香ったアーモンド臭、爪を鑑みれば馬鹿でも分かります。なのにお冷はおろか、紅茶からも毒物反応が出ないのはおかしくないですか? 扇警部」
「そこに俺たちも頭を悩ませてるんだ。紅茶に仕込まれていなかったのであれば、カップに毒が塗られていたんじゃないかと思って調べてみたんだが、飲み口も取っ手もソーサーも、全て反応ナシ。唯一ガイシャの唇からは微量の毒物反応が検出されたが、それだけだ。経口摂取したんだから当たり前だがな。毒そのもの――粒状のものとか、液状のものとかってことな――を直接飲まされたとしか考えられない」
「優香さんに不信感を抱かせずにそんなことができますか?」
「例え親しい間柄だったとしても、できんだろうな。それに無理矢理飲ませようとしていたらお前たちも分かるだろ。あーあ、犯人は一体どうやって致死量の毒を被害者に飲ませたんだろうなあ」
扇警部は欠伸をしながら、店内をぐるりと見回した。欠伸というみっともない行動とは裏腹に、彼の眼は一人一人を疑ってかかるような、鋭い光を放っていた。何もしていないのに、悪いことをしてしまったような気分になる。
扇警部の様相に圧倒されていると、馬淵刑事が痺れを切らしたように振り返った。
「扇警部! また捜査情報をベラベラと……。いい加減守秘義務違反で飛ばされますよ!」
「かってえこと言うなよレイちゃん。まあ捜査一課から外されたとて、俺ら警察は腐っても公務員だ。食いっぱぐれることはねぇさ。それにこのガキ、なかなか頭が冴える。名前は何ていうんだ?」
扇警部の問いに、尚も湊は冷静に答えた。
「湊です。土井湊」
「湊……?」
一瞬、扇警部の表情が曇ったように見えた。それは湊も同じだったようで、彼は怪訝そうに首を傾げた。
「なんでしょうか」
「いいや。――ふん、土井湊ね。憶えておくよ。だが……」
頬を綻ばせていた扇警部は、一転して表情を険しくさせた。スーツの上からでも分かる鍛えられた身体と、180cmは超えているであろう上背が相まってなかなかの迫力だった。一目でただものではない刑事だと、誰もが気付くだろう。そんな貫禄が彼にはあった。
「首を突っ込み過ぎるのは、あんまり歓迎しねえな。これは俺たちの仕事だ。捜査に関わりたいんだったら、まずは大学を出て警察になることだな。お前には素質がある。後でじっくり話そう」
「……僕の番が来たら呼んでください」
湊も険しい目つきで扇警部を睨み返していた。
しばらくして私に「続きだ」とだけ告げると、踵を返して『テイスティ』の外へと向かった。
湊を追いかけて私も店を後にする。今度は忘れずにカーディガンを羽織って出て行ったが、それでも冷え切った夜風には敵わなかった。